月に憑かれたピエロ
とあるレストランの話です。
第一章 いろんな客がやってくる
レストラン「月に憑かれたピエロ」は、午後六時に開店する。
なぜそんな名前なのかと訊かれるたび、店主の梶原は「前の店主がつけたんです」と答えた。
では前の店主はなぜそんな名前をつけたのか。
「訊かなかったので知りません」
これで話は終わる。
店は駅から十五分ほど歩いた住宅街にあった。料理は特別なものではない。ハンバーグ、オムライス、ビーフシチュー、ナポリタン。少し昔の洋食屋にありそうなものなら、大抵あった。
午後六時十分。
最初の客が来た。
「予約していた三田です」
若い女だった。
「お一人様ですね」
「はい」
梶原は窓際の席へ案内した。
三田は座ると、向かいの椅子に白いハンカチを置いた。
「二人分注文してもいいですか?」
「もちろん」
「では、オムライスを二つ」
梶原は理由を訊かなかった。
午後六時二十二分。
二人目の客が来た。
七十歳くらいの男だった。こちらは予約していない。
「ナポリタン。大盛りで」
「かしこまりました」
「それと、粉チーズを山ほど」
「山ほど?」
「山ほど」
梶原は粉チーズを一本、そのままテーブルへ置いた。
「ありがたい」
老人は嬉しそうに言った。
午後六時四十分。
三人目は小学生くらいの男の子だった。
「一人?」
「うん」
「お父さんかお母さんは?」
「あとから来る」
少年はそう言って、千円札を一枚握りしめた。
「千円で食べられるもの、ある?」
「あるよ」
「一番お腹いっぱいになるやつ」
「じゃあ、ハンバーグライスにしよう」
「それ、千円?」
「今日は九百八十円」
本当は千二百円だった。
少年は満足そうに席についた。
午後七時。
店はだんだん賑やかになった。
仕事帰りの会社員が二人。老夫婦が一組。若い男が一人。
誰も「月に憑かれたピエロ」という店名を気にしなかった。
七時十五分。
三田の前には二皿のオムライスがあった。
一皿は半分ほどなくなっている。
もう一皿には、まだ誰も手をつけていない。
三田はときどき、その向かいの空席に話しかけていた。
「おいしいね」
返事はない。
ナポリタンの老人は、本当に粉チーズを山ほどかけていた。
「昔はこんなことしたら女房に怒られたんだ」
梶原にそう言って笑った。
「今は?」
「去年死んだ」
「それは……」
「だから山ほどかけられる」
老人はまた笑った。
少年の父親も母親も、まだ来なかった。
梶原は厨房から何度か時計を見た。
少年はハンバーグをゆっくり食べていた。
午後八時。
外で雨が降り始めた。
そのころには三田は帰り、老人も帰った。
三田が手をつけなかったオムライスは、梶原が厨房へ下げた。
老人は粉チーズをほとんど一本使い切っていた。
少年だけが残っていた。
「迎え、まだ来ない?」
梶原が訊いた。
「うん」
「電話番号、わかる?」
少年は首を横に振った。
梶原は困った。
そのときだった。
入口の扉が開いた。
雨の中から、一人の女が入ってきた。
ずぶ濡れだった。
「いらっしゃいませ」
女は答えなかった。
店内を見回し、少年を見つけると、ほっとしたように笑った。
「いた」
少年も立ち上がった。
「遅いよ」
「ごめんね」
女は少年の頭を撫でた。
梶原は安心した。
「お母さんですか?」
女は少し考えてから答えた。
「いいえ」
少年も言った。
「よく知らない人」
梶原は二人を見比べた。
「でも、この人を待ってた」
少年はそう言った。
女は濡れた髪をかき上げると、店の奥に掛かっている古いピエロの絵を見た。
そして梶原に訊いた。
「この店、まだあったんですね」
「ご存じなんですか?」
「ええ」
女は微笑んだ。
「昔、ここで働いていましたから」
梶原はもう一度、壁のピエロを見た。
前の店主からこの店を譲り受けて、十二年になる。
その十二年間、一度もこの女を見たことはなかった。
外では雨が降っていた。
雲の向こうには、見えない月があった。
第二章 月からの住人
「実はね、今まで来ていたお客さん、全員僕の親せきなんだ」
少年は言った。
梶原は、まじまじと少年の目を見た。
「これから来るお客さんも、僕の親せきだよ」
少年が嘘を言っていることは、梶原にはわかった。なんてわかりやすい嘘だ。
しかし、少年がなぜこんな嘘をつくのだろう、ということは分からなかった。
そして、ずぶ濡れの女……
梶原は、思ってぞっとした。
「お客様のご注文は?」梶原は尋ねる。
「あのお、この子が何かしましたか?」女は逆に尋ね返してきた。
「いいえ、何も? ハンバーグライスを注文しただけです」
「でも、この子は千円しかもっていなかったでしょう?」
「ええ」
「この店のハンバーグライスは、たしか千二百円したはず……」
「よくご存じですね?」
「この店は、前の店主からメニューも値段も引き継いでいるでしょう? 以前働いていましたから、分かるんです」
「ああ、道理で」梶原は納得した。
前の店主から店を引き継ぐことの条件が、メニューも値段も変えないこと、だった。
もちろん、いくつかメニューの追加はした。しかし、下町で食べられる、昔ながらの洋食のメニューを梶原も変えたくはなかった。
梶原は、前の店主のもとで7年間働いたあと、店を引き継いだのだ。
しかし、そのころにこの女が昔なじみの客として訪れていた記憶はなかった。
ここで、ふと梶原は迷った。
少年と女が知り合いであるには、すこし少年が幼すぎるように思えたのだ。
梶原は、女に名前を尋ねた。記憶の底に女の面影を探すように。
「春日五月です」
「僕は、黒木薫」
少年のほうも答えた。
どちらの名前にも、梶原は聞き覚えがなかった。
「失礼ですが、どんなお仕事を?」
梶原は、下町のレストランの常として、人情を大切にしていた。だから、時折客の素性を聞くことがあった。
それで、前の店長の時代に常連だった人間と、話のつながりができることもある。
こんななにげない下町のレストランだったが、梶原はそのともしびを消したくなかった。
「俳優をやっています。まだ名前も売れていませんが……」
五月は言った。
心持ち顔を赤らめて、下を向いている。俳優らしからぬ……と、梶原は思う。
「俳優さんですね? では、この少年は劇団のお仲間?」
「そうです。このごろ劇団に入ってきた子で……」
「お父さんとお母さんが来ると言っていましたが?」
「この子の父親と母親は、わたしの劇団仲間なんです」
「ああ、道理で」
今日は、この4人で会食の予定だったのだ、梶原は悟った。
そして、先ほどのナポリタンを食べていった老人は、薫の祖父ではないのか? と感づいた。
「では、先ほど帰ったおじいさんは、薫くんのお祖父さん?」
梶原は尋ねる。
五月は首を振る。
「この子に祖父はいません。もう二人とも他界しています」
「それならなんで」と、梶原は薫に向き直る。「今日来た客はみんな僕の親せきだ、なんて言ったんだい?」
今度は薫が顔を赤らめた。
「恥ずかしかったからだよ……」奇妙な言い訳だった。一人で下町の辺鄙なレストランに来るのが恥ずかしい、ということだろうか?
そうこうしているうちに、五月もテーブルに着いた。
「わたしはチーズドリアを」
五月が言う。
調理を終えて、梶原は五月の前にドリアの皿を置いた。
外では、まだ雨がやんでいないようだった。
この雨は突然に降りだした。まるで、五月を店に寄せ付けないかのように。
雨宿りをするなら、コンビニかどこかで良かっただろう。しかし、五月は少年と約束の「月に憑かれたピエロ」へとやってきた。
「今日は月が出ていませんね?」
と、五月はドリアを食べながら言う。
「ええ。あいにくのどしゃぶりみたいですね」梶原は気のないふうに答える。
もう、少年と女からは興味が引き離されていた。次に来る客にそなえなくてはいけない。しかし、薫の両親は本当にやってくるのだろうか?
……いくら待っても、薫の両親はやってこなかった。それどころか、ぴたりと客足が途絶えた。
「知っていますか? 七月七日の七夕の日に、雨が降っている夜、ある家族がレストランを訪れると、その店は繁盛すると?」
五月が、ふいにドリアを食べる手を止めて、梶原に話しかけた。
梶原は厨房にいて、五月の言った言葉がよく聞こえなかった。
「今、何か言いましたか?」
「いいえ、何も」
五月から答えをもらう代わりに、梶原は尋ねた。
「お客様の劇団、なんていう名前なんです?」
「月に住む水色の魚、よ?」
「奇遇ですね。この店と月という言葉がかぶっている」
「ええ、だから、前の店長さんの時代から、この店とは深いつながりがあったんです」
まだ、薫の両親は来ない。そろそろ閉店の時間である。この店は夜間にバーになるわけではない。
「お酒、あるかしら?」
「ありません」
「変わらないのね、そこも」
下町にしてはある程度の繁華街にあるこの店は、バーだと勘違いされることもよくあった。そのたびに、梶原は申し訳なさそうに断りを入れる。
「わたしたちね、実は月から降りてきたの」
ふいに、五月という女が言った。
「えっ??」
まさか、と梶原は思った。月に人などが住んでいるはずがない。
この少年にしろ、女にしろ、奇妙だ。そろそろ帰ってくれないかな、と梶原はそわそわしだしていた。
「今日は七夕でしょう?」
「ええ」
「七夕の日のもう一つの伝説を知っています?」
「知りません」
「七夕の日には、月に住む魚が人の形をして、地上に降りてくるの」
(ははあん)と梶原は思った。この女と少年は、まだ劇団で劇をしている気分なのだ。そんな台本かなにかがあって、この店で練習をしているのだろう。しかし、それにしては、わざわざずぶ濡れになる必要まではない。
「お客さん、そろそろ閉店の時間です」
「薫くん、今日はご両親来なかったわね」
ドリアを食べ終えた五月が、薫に向かって話しかけた。
「いいんだよ。お姉さんがいるから」
そして、二人は帰っていった。
(今夜はしけた夜だったな。それなりには賑わったが……)そう、梶原は思った。
三田、老人、少年、五月、そのほかの客たち。どこにもつながりはない。すくなくとも、そう見えた。少年と五月の間いがいには。
(今夜は早く店を閉めればよかった……)梶原はため息をついた。この店も、そろそろ潮時か……と思った。
そして、ふと2人のいた席を見ると、濡れていた。
(おかしなことだ。2人は幽霊か?)梶原は、怪訝な顔をして、2人の座っていた席を拭いた。
そうして気づくと、三田や老人が座っていた席も、水で濡れていた。まるで、巨大な魚かなにかがそこにいたように。
そして、ふと一つの言葉を思い出したのだった。
前の店長がこの店を辞めたその夜、「俺もそろそろ月に帰りたくなったんだ」そう言っていたことを。
そのときには、梶原はそれは前の店長のユーモアだろうと思っていた。なんらの疑いを感じなかった。
しかし、今ふと思うことがある。(もしもそれが本当だったなら?)
夜は、静かに更けていった。そのレストラン、「月に憑かれたピエロ」は、その日からだんだんに繁盛するようになっていった……
さて。今回もどちらがAIでしょうか?




