明日のことがわかる猫
日常系のファンタジーです。
第一章 猫、いすわる
その日は午後5時に会社をはけた。
定時で帰宅できるのは、何週間かぶりだった。
わたしは、繁華街のショッピングモールでアーモンド・チョコを買い、帰路についた。
わたしの家は、職場からバスで30分ほど。
どう見ても田舎のたたずまいを宿している界隈にあった。
しかし、住宅だけは一丁前にある。
わたしの住んでいるアパートの周りは、家だらけだった。しかし、コンビニなどはない。
その日は、久しぶりに定時で退社できたこともあって、買い物などにも時間を割くことができたが、普段であればそうはいかない。
バスに乗る前にコンビニでお弁当や冷食を買う。夕食はそれで済ませることがしばしばだった。
事実、今晩のメニューも冷食のグラタンとご飯である。
……
その日もなんということのない日だった。
しかし、エントランスの前に猫がいる。
まるで、わたしがアパートへ入っていくのを妨害するかのように陣取っていた。
わたしは、可愛いと思うよりも先にむっとした。
(わたしの、なんということのない日和を台無しにするな!)というのが、わたしの頭のなかに第一に浮かんだ感想だった。
「そこ、どいてくれない?」
わたしは猫に言う。
なにも、それは大げさな問題ではない。猫を跨いで通れば良いことである。
しかし、わたしはその猫のふてぶてしい態度が気に入らなかった。
腹の底で、(こいつめ、猫鍋にでもしてやろうか)と、物騒なことを考える。
が……数分そうして見合っているうちに、わたしは猫にたいする親近感が湧いてきた。
わたしは猫嫌いではない。
しかし、PETAでもない。
わたしには、動物を救うという使命も義務もない。
目の前に寝そべっているのは、単なる近所の野良猫である。
そんな猫は、わたしに向かって不思議なことを言った。
「明日は雨が降るよ。傘をもって出かけないと」
「なんですって?」
わたしは驚いて思わず聞き返した。それから、ぎょっとする。
首を左右に振り向けてみたけれど、幸いなことにわたしの周りに人影はなかった。
とすると、猫が人語をはなした? わけがわからない。
それと、猫と話しているだなんてことがわかったら、わたしはこのアパートを追い出されかねない。
それくらい、ここの大家は神経質なのだった。
一階の角部屋から人が出てきた。長髪、ジャケット姿の青年だった(まあ、わたしから見れば男の子、というくらいの年だ)。
彼は、こちらのほうをぎろりと睨んだ。
わたしは、鞄を確かめるふりをして、視線をそらした。
すると、目の前の青年がふいに口をきいた。
「その猫、お姉さんの?」
「わ。わたしのじゃないわ? なんで?」
「その猫、よくお姉さんの部屋の前で寝てるよ」
わたしは焦った。ぼんやりとした性格なのに焦った。猫がわたしの部屋の前にいるですって?
とすれば、猫のほうであらかじめわたしを知っている可能性もあるわけだ。
わたしはなんとなくほっとした。──なぜほっとしたのかはわからない。
「じゃあっ」
わたしが猫を観察しているあいだに、青年は立ち去っていった。良い青年である。
わたしは、思い切って猫に尋ねてみた。
「あなたは超能力猫なの? 占い猫なの?」
「たぶん、どっちでもあるね」
わたしは、その言葉をまるっきり信じられなかった。
「あなた、化け猫でしょう?」
「ぼくは普通の猫だよ」
まあいい。何猫だろうと猫は猫だ。……それにしても、その猫はおどろくほどに不細工だった。ノーベル賞ものである。
わたしは、猫をどけて通ろうとする。
しかし、猫はそれを許さなかった。
足元にじゃれついてきたり、鋭い爪でひっかこうとする。
(じゃあ、なんでさっきの青年は通したんだ??)
わたしは、仕方なしに猫を抱き上げた。そして、わたしの部屋の前まで運んでいく。
「ここが君の特等席なんでしょう? どうぞごゆっくり」猫を地面におろす。
そうして、わたしは自分の部屋に入った。
……
翌朝、玄関のドアをあけると、そこに猫はいなかった。
外はどしゃぶりの雨。
猫の言った通りである。
2、3日前の天気予報では降水確率0%だったのに。
わたしは、猫に会ってあれは気まぐれだったのか、確かめてみたくなった。
(いや、いや。化け猫だぞ? 関わってもいいことないって)
実際、わたしは白昼夢を見ていたのかもしれない。最近疲れがとれないからな……
……
会社では、Tちゃんが目薬をつけていた。
「どうしたの?」
「ものもらい」
「ふうん。お大事にね?」
「ありがとう」
そんな調子で業務が始まった。──
わたしは、旅行代理店でお客さんむけの旅行プランを組み立てる仕事をしている。
最近は東北特集。
あまりメジャーではない温泉や旅館なども調べた。
なんにせよ、幽霊が出る旅館もあるそうである。
この仕事はスリリングだ。
……
今日は仕事は5時では終わらなかった。
午後11時までデスクワークが続く。
わたしは、ふとTちゃんの目薬をうらやましいと思う。わたしも市販の目薬を買っておこう。
しかし、ドラッグ・ストアは開いていない。
(どうしよう?)と思う。……あの幻覚だかなんだかわからない、喋る猫を見てしまったら?
(いやいや)と、またわたしは首を振る。
あの猫のことをもう一人見ている人物がいる。角部屋のパンク・ロック・スタイルの兄ちゃんだ。
彼も猫を目にすることができているなら、猫は幻ではない。
ん? ちょっと待てよ? あの兄ちゃんまで含めてわたしの幻想だったら?!!
──もう、悩むのは止そう。わたしは帰路についた。
……
わたしのアパートまでやってくると、エントランスには猫の姿は見当たらなかった。
わたしの部屋の前までくると、いた。完全にいすわるつもりである。
猫はやはり自分から話しかけてきた。
「やっぱり雨が降ったでしょう?」
「降った」
「濡れずに済んだ?」
「濡れずに済んだ。ありがとう」
自分で言っておいて、わたしは職場のJ部長のことを思い出してた。
わたしの提出した旅行プランにたいして、J部長は「ふうん、まだまだだね」と言う。
「でも、納期前に提出してくれてありがとう」
その素っ気ない「ありがとう」と、わたしの「ありがとう」とが似ているような気がした。
わたしは、猫を邪険にしたくない。
しかし、いくら雨が降っているからって、部屋のなかに入れるのはごめんだった。
せいぜい共有部分の屋根のあるところで休んでいてほしい。
もちろん、キャットフードなどは買わない。
……
わたしが部屋の鍵を開けようとして、もぞもぞしていたときだった。
「明日は〇×駅前で自動車事故が起きるよ」
「それ、大変じゃない!」
わたしは、ぐいっと後ろを振り返った。猫は身じろぎもしない。
「大変だねえ。自動車の運転は大変だよ。だから、ぼくは生まれ変わったとしても、絶対に人間にはならないよ」
「そこ、論点がずれてる」
わたしは呆れて言った。
「おやすみ。不細工でへんてこな猫ちゃん」
そして、部屋のなかに入った。
第二章 猫、明日を語る
翌朝、わたしはいつもより一時間早く目を覚ました。
自動車事故が起きる。
〇×駅前で。
何時に起きるとは聞いていない。
そもそも、どのくらいの事故なのかも聞いていない。
車同士がちょこんとぶつかる程度なのか、それとも救急車が何台も駆けつけるような大事故なのか。
「なんでそこまで聞かなかったんだろう」
わたしは布団のなかで後悔した。
未来を予言する猫と会話する機会など、人生にそう何度もあるものではない。
いや。
わたしの場合、二日連続で会っている。
翌朝、玄関を開けた。
猫はいなかった。
「肝心なときにいない!」
わたしは誰もいない廊下で怒鳴った。
一階の角部屋のドアが開いた。
昨日の青年だった。
「おはようございます」
「あ。おはよう」
青年はわたしの顔をじっと見た。
「猫、いないね」
「そうなのよ!」
わたしは思わず力を込めた。
青年は少し驚いた顔をした。
「そんなに猫、好きだったんだ」
「……違うの!」
「じゃ」
青年は、興味がないというように向こうへと行ってしまった。
やはり良い青年である。
だがしかし、もう少し人の話を聞いてもいいと思う。
〇×駅は、わたしが通勤に使っている駅ではない。
バスを一本乗り継ぎ、さらに二十分ほど歩かなければならない。
会社とは反対方向である。
わたしは迷った。
事故が起きると知っていて、何もしなくていいのだろうか。
警察に電話する?
「今日、〇×駅前で事故が起きます」
「なぜわかるんですか」
「猫に聞きました」
わたしは電話を切られる自信があった。
旅行代理店に勤めている人間が、猫の予言で警察を動かそうとした。
そんな噂が会社に伝わったら、J部長はなんと言うだろう。
「ふうん、まだまだだね」
たぶん、それでは済まない。
わたしは午前8時に普通に会社へ行った。
「どうしたの?」
Tちゃんが聞いてきた。
「なにが?」
「さっきから〇×駅の地図ばっかり見てる」
わたしはパソコンの画面を閉じた。
「ちょっとね」
「新しい旅行プラン?」
「〇×駅に見どころなんてあったっけ?」
「ないね」
Tちゃんは目薬をさした。
ものもらいは、まだ治っていないらしい。
「ねえ、Tちゃん」
「なに?」
「もし今日、どこかで事故が起きるってわかっていたら、どうする?」
「どこで?」
「〇×駅前」
「何時?」
「わからない」
「どんな事故?」
「それもわからない」
「誰が事故に遭うの?」
「わからない」
Tちゃんは黙った。
「それ、何がわかってるの?」
「事故が起きること」
「ふうん」
Tちゃんはまた目薬をさした。
「部長みたいな返事しないでよ」
昼休みになった。
わたしはとうとう〇×駅へ向かった。
午後一時十二分。
駅前にはバスが停まり、タクシーが並び、信号が点滅していた。
平和だった。
わたしは歩道の端に立った。
どの車も事故を起こしそうに見える。
白い軽自動車が交差点で右折した。
「あぶない!」
普通に右折した。
トラックがその交差点へ入ってきた。
「あぶない!」
普通に直進した。
自転車のおばさんが横断歩道を渡った。
「あぶない!」
信号は青だった。
「なにやってるんですか?」
振り返ると警察官が立っていた。
「いえ。事故が起きないように見張っているんです」
「は?」
「いえ、なんでもありません」
わたしは逃げた。
会社へ戻ると、昼休みを四十二分もオーバーしていた。
J部長に呼ばれた。
「どこ行ってたの?」
「〇×駅です」
「なんで?」
「市場調査です」
「〇×駅に何かあった?」
「何もありませんでした」
J部長はしばらくわたしを見た。
「ふうん。まだまだだね」
やっぱり言われた。
午後三時四十分。
Tちゃんが声を上げた。
Tちゃんの視線の先には、事故を報道するニュース番組が、テレビで流れていた。
「あ、〇×駅だ」
わたしは椅子から立ち上がった。
「事故?」
「うん。車がぶつかったって」
「大事故?」
「いや。タクシーが停車中の車にぶつかったみたい。けが人なしだって」
わたしはへなへなと椅子に座った。
猫の予言は当たった。
しかし、わたしが一時間近く交差点を監視していたことには、何の意味もなかった。
事故は起きた。
けれど、誰もけがをしなかった。
わたしがいたところで、おそらく何も変わらなかった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「顔色悪いよ?」
「猫に負けた」
「猫?」
「なんでもない」
Tちゃんは三度目の目薬をさした。
その日の帰り、わたしはコンビニへ寄った。
お弁当を買った。
牛乳も買った。
それから、しばらくペット用品の棚の前に立った。
「買わない」
わたしは自分に言った。
キャットフードなど買わない。
あの猫は野良猫だ。
餌付けしたら居着いてしまう。
すでに居着いているような気もするが、それとこれとは別問題である。
わたしは店を出た。
三十秒後、戻った。
いちばん小さな袋のキャットフードを買った。
アパートへ着く。
エントランスに猫はいない。
部屋の前にもいない。
「なによ」
わたしは少し腹が立った。
せっかく買ったのに。
いやいや、別に猫のために買ったわけではない。
何かの非常食になるかもしれない。
何の非常時にわたしがキャットフードを食べるのかは、考えないことにした。
鍵を開けようとした。
「お姉さん」
声がした。
角部屋の青年だった。
「猫なら、さっき駐輪場にいたよ」
「ほんと?」
「うん」
「ありがとう!」
わたしは駐輪場へ走った。
いた。
自転車の籠のなかで寝ていた。
「ちょっと!」
猫が片目を開けた。
「事故、起きたじゃない!」
「起きたねえ」
「けが人はいなかったけど」
「よかったねえ」
「だったら最初から、けが人はいないって言いなさいよ!」
猫はあくびをした。
「聞かれなかったから」
わたしは絶句した。
猫という生き物に、報告・連絡・相談を期待したわたしが間違っていた。
「それで?」
「なに?」
「明日は?」
「明日?」
「何が起きるの?」
猫は自転車の籠から飛び降りた。
伸びをした。
そして言った。
「明日は、君の会社のTちゃんのものもらいが治るよ」
「……」
「たぶん」
「たぶん?」
「未来って、けっこう変わるから」
わたしは頭を抱えた。
「じゃあ、なんで事故のことなんか教えたのよ?」
「知ってたから」
「雨は?」
「知ってたから」
「じゃあ、知らないこともあるの?」
「いっぱいあるよ」
猫は当然のように言った。
わたしは、未来というものについて少し考えた。
未来がわかる猫。
その言葉から、わたしは勝手に、何もかも知っている猫を想像していたらしい。
でも、この猫が知っているのは、明日の雨と、小さな交通事故と、Tちゃんのものもらいくらいなのだ。
「宝くじの当選番号は?」
「知らない」
「わたし、結婚する?」
「知らない」
「来月のお給料、上がる?」
「知らない」
「役に立たないわねえ」
「そうだねえ」
猫はまったく傷つかなかった。
わたしはキャットフードの袋を取り出した。
「食べる?」
「食べる」
「即答するのね」
駐輪場の隅に少しだけ置いた。
猫は食べ始めた。
ものすごい勢いだった。
未来のことなんかどうでもよさそうだった。
「ねえ」
「なに?」
「どうして、わたしの部屋の前にいるの?」
猫は食べるのをやめた。
いよいよ重大な秘密が明かされるのかもしれない。
前世でわたしたちは親子だった?
わたしに重大な使命がある?
世界を救うために、猫がわたしを選んだ。
わたしは身構えた。
「部屋の前は、雨が当たらないから……」と、猫。
「それだけ?」
「あと、あったかい」
「……それだけ?」
「うん」
猫はまた食べ始めた。
わたしは笑ってしまった。
翌朝。
Tちゃんのものもらいは治っていた。
「治ったね」
わたしが言うと、Tちゃんは怪訝な顔をした。
「うん。なんでそんなに嬉しそうなの?」
「別に」
窓の外は晴れていた。
昼休みに、わたしは東北の温泉旅館を調べた。
幽霊が出るという旅館は、企画から外すことにした。
幽霊まで未来のことを話し始めたら面倒だからである。
夕方、J部長に新しい旅行プランを提出した。
部長はしばらく眺めたあと、
「ふうん。まあまあだね」
と言った。
これは予言されていなかった。
ちょっと嬉しかった。
夜、アパートへ帰る。
猫はいつもの場所にいた。
「おかえり」
「ただいま」
わたしは答えてから、少し驚いた。
昨日までは、この猫に「ただいま」なんて言わなかった。
「明日は?」
わたしは聞いた。
猫はしばらく考えた。
「明日はねえ」
「うん」
「たぶん、明日になるよ」
「知ってるわよ」
わたしは笑った。
鍵を開ける。
猫は部屋には入れない。
キャットフードも毎日はあげない。
未来のことだって、なるべく聞かないことにする。
でも、明日もこの猫が部屋の前にいたらいいな、と少しだけ思った。
それくらいの明日なら、わからなくてもよかった。
お読みいただきありがとうございます。




