環状線がある町の古本屋
今回はホラーになりました。
第一章 古本屋と不思議な切符
この街には、環状線の路面電車が走っている。
一周するのに、およそ一時間。
中心街を抜け、川を渡り、古い住宅地を走り、大学の前を通って、また中心街へ戻ってくる。
ぼくは、その環状線を毎日のように使っている。
といっても、一周したことはない。
勤め先から三つ目の停留所。それが、ぼくの降りる場所だった。
その日も、いつもと同じだった。
ただ、雨が降っていた。
朝から曇ってはいたのだけれど、夕方になって突然降り出した雨だった。
会社を出たときにはまだ小雨だったので、ぼくは傘を持っていなかった。
駅までは歩いて十分ほど。
走ればなんとかなるだろう。
そう思って歩き始めたところで、急に雨脚が強くなった。
道路がみるみる黒くなっていく。
軒下で雨宿りしようにも、駅前にはコンビニと薬局くらいしかない。
そのとき、古本屋が目に入った。
何度も前を通っている店だった。
けれど、入ったことはない。
古本屋が嫌いなわけではない。
そもそも、ぼくはそれほど本を読まない。
それでも、コンビニで何も買わずに雨宿りするよりはましだろうと思って、ぼくは古本屋へ入った。
ドアを開けると、小さなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
奥から声がした。
店主らしい老人が、帳場で新聞を読んでいた。
ぼくは軽く頭を下げた。
店の中は薄暗かった。
古本屋とは、どこもこんなものなのだろうか。
天井まで届く本棚に、色の褪せた本がぎっしりと並んでいる。
文学全集。
詩集。
歴史の本。
昔の雑誌。
料理の本まであった。
値札を見ると、百円や二百円の本も多い。
雨宿りだけというのも申し訳ないので、一冊くらい買おうと思った。
けれど、読みたい本が思いつかない。
棚を眺めながら店の奥まで歩いて、また入口のほうへ戻ってきた。
その途中で、一冊の薄い本が目に入った。
青い表紙だった。
背表紙には、
『川辺の随筆』
と書いてある。
知らない本だった。
著者の名前にも覚えがない。
どうして手に取ったのか、自分でもよくわからなかった。
たぶん、青い表紙がきれいだったからだ。
ページを開いた。
ぱらぱらとめくっていると、何かが床へ落ちた。
切符だった。
古い路面電車の切符。
いまでは使われていない、厚紙の小さな切符だった。
「へえ」
思わず声が出た。
拾い上げてみる。
印刷された文字はだいぶ薄くなっていたけれど、駅名は読めた。
――青葉町。
この古本屋の目の前にある停留所だった。
日付は二十七年前の六月十七日。
ぼくはなんとなく、その切符を元のページへ戻した。
本の値段は百五十円だった。
「これ、ください」
「ああ、はいはい」
老人は新聞をたたんだ。
百五十円を払う。
店を出るころには、雨はだいぶ弱くなっていた。
──
店を出ると、待っていたように路面電車がやってきた。
車内は混んでいなかった。
窓際の席に座る。
雨粒のついた窓の向こうを、古本屋が流れていった。
ぼくは、買ったばかりの本を鞄から出した。
さっきの切符をもう一度見てみようと思った。
たしか三十ページくらいだった。
ページを開く。
切符があった。
青葉町。
二十七年前の六月十七日。
それだけである。
何が面白いのか自分でもわからない。
それでも、古本から昔の切符が出てきたということが、なんとなく愉快だった。
そのころ、この本を持っていた人が、あの停留所から路面電車に乗ったのだろうか。
電車の中で本を読んで、切符を栞代わりに挟んだ。
たぶん、それだけのことだ。
ぼくは切符を挟み直して、何ページか読んだ。
川について書かれた文章だった。
著者が子どものころ、夏になると近所の川で泳いだという話。
とくに面白くはなかった。
ページをめくった。
何かが膝に落ちた。
「あれ?」
また切符だった。
さっきの切符とは違う。
拾い上げる。
――銀杏坂。
次の停留所だった。
日付は同じ。
二十七年前の六月十七日。
ぼくは最初の切符を確かめた。
ちゃんと三十ページに挟まっている。
二枚目は、五十一ページ。
青葉町。
銀杏坂。
「なんだろう」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
同じ日に二枚の切符を買ったのだろうか。
昔の運賃制度については知らない。
乗り換えるたびに切符を買ったのかもしれない。
そう考えているうちに、電車は銀杏坂に着いた。
ドアが開く。
二人降りて、一人乗ってきた。
ベルが鳴る。
電車が動き出す。
ぼくはまた本を開いた。
今度は文章を読まずに、ページだけをめくった。
七十二ページ。
切符があった。
――市民会館前。
銀杏坂の次の停留所。
「……え?」
さすがに少し気味が悪くなった。
日付を見る。
六月十七日。
三枚とも同じ日だった。
切符には時刻までは書いていない。
ぼくは三枚を座席の上に並べた。
青葉町。
銀杏坂。
市民会館前。
環状線の順番どおりだった。
誰かが、停留所ごとに切符を買ったのだろうか。
そんなことをする意味がわからない。
そもそも、同じ電車に乗っているなら、停留所ごとに切符を買う必要はないはずだ。
市民会館前に着いた。
ぼくは窓の外を見た。
雨に濡れた街路樹。
閉じた傘を持った学生。
信号待ちをしている自転車。
いつも見ている街だった。
何もおかしなことはない。
電車が動き出す。
次は中央市場前。
ぼくが降りる停留所だった。
もうやめようと思った。
家に帰ればいい。
古い本に古い切符が何枚か挟まっていた。
それだけのことだ。
ぼくは三枚の切符を本へ戻した。
ところが、閉じようとした本の間から、白い紙の端が見えていた。
九十四ページ。
開いた。
切符だった。
――中央市場前。
「うそ」
電車が速度を落とした。
『次は、中央市場前。中央市場前です』
車内放送が流れる。
ぼくは本と切符を持ったまま、ドアを見た。
ここで降りる。
いつもそうしている。
降りて、商店街を抜ければ家だ。
ドアが開いた。
何人かが立ち上がった。
ぼくは立たなかった。
ただ、九十四ページに挟まっていた切符を見ていた。
中央市場前。
二十七年前の六月十七日。
ドアが閉まった。
「あ」
小さく声が出た。
電車は走り出してしまった。
まあ、いいか。
一周して戻ってくればいい。
急いで帰る理由もなかった。
夕飯は冷蔵庫にあるもので済ませるつもりだった。
それよりも。
次の切符があるのかどうか。
ぼくは、それを確かめたくなっていた。
ページをめくる。
百十三ページ。
何もない。
百十四ページ。
何もない。
百十五ページ。
あった。
切符。
――桜橋。
次の停留所だった。
ぼくは笑ってしまった。
どうして笑ったのかは、わからない。
怖かったはずなのに、いつの間にか楽しくなっていた。
桜橋。
次は県立大学前。
その次は水天宮。
そして港町。
環状線は、まだ半分も回っていない。
ぼくは本を閉じた。
今度は先にページをめくらないことにした。
停留所をひとつ通過するたびに、一枚ずつ探してみよう。
そのほうが面白い。
窓の外では、雨が上がりかけていた。
雲の切れ目から夕方の光が射して、濡れた道路が白く光っている。
電車は桜橋へ向かって走っていた。
ぼくは膝の上に本を置いた。
次の切符を探すのは、桜橋に着いてからにしよう。
そう決めた。
第二章 いと長き旅路
電車の窓外の風景は、単調に流れていた。
その通りだ。
いつもと違わない街。何も変わりはない。
ただ、ぼくの気分だけが違っていた。
二十七年前の六月十七日に買った切符、それだけがぼくが膝のうえにおいている本にはさまっている。
一つ一つの停留所をおいかけるように……本はそれほど分厚くはなかったが、切符はみごとに停留所順にならんでいた。
ぼくは、車内にいる人たちに目をこらす。
OLらしい女性、女子高校生の3人組、帰宅途中らしいサラリーマン、なんだか大きな荷物を抱えたおばさん。風変わりな紳士。
何も不思議なことはなかった。
ぼくは、膝のうえの本に目を落とす。
次は県立大学前、そして水天宮、さらには港町という切符が出てくるに違いない。
(あ!)と、ぼくは突然に思った。
この切符を買った人物は、各駅停車の旅をしていたに違いない。
だから、それぞれの停留所で切符を2枚ずつ買って、その片方は本のなかに挟んでいた。
そう考えれば、すべての筋は通った。
(なあんだ、神秘じゃなかったんだ)と、僕は安堵のため息をもらした。
(どうしよう、謎がわかってしまった以上、次の停留所で引き返そうか?)
──中央市場前は一駅後ろだ。このまま帰れば、ごく普通のなにげない一日として、今日を処理できるだろう。
しかし、ぼくにはそれ以上に気になりだしていることがあった。
この切符を買った人物、環状線でプチ旅行をした人物とは、いったいどんな人だったのか?
若い女性だったらいいな、とまずぼくは思った。そこには、なんとなくロマンの香りがある。
ついで、小学校に上がって間もないくらいの子供。電車の乗り方を親に教えてもらっている。
最後に、孤独をかかえたぼくのような若者、という答えが浮かんできた。
(いや、そんなのだめだ! 大切な本を古本屋に売っちゃうような人物だぞ? その人物像はもっと軽いはず)
ぼくは、いつしかいらだっていた。
『桜橋、桜橋』と、アナウンスが響いた。
乗客は誰も降りなかった。
ぼくは、きょろきょろとあたりを見回した。
普段中央市場前で降りるぼくは、桜橋から後の市街地について詳しく知らなかった。
窓のそとをぼうっと見つめていると、工場らしい建物が並んでいる。いや、あるいは倉庫かもしれなかった。
とにかく、人の住む町、という感じではなく、ビジネスのための町、という感じがした。
(だから、誰も乗客が降りなかったのだろう……)
ぼくのなかでは、好奇心が沸き起こっていた。
この町のすべてを見てやろう、という好奇心。
この電車に乗るすべての人間を観察したい、という好奇心。
……
しかし、そのまま沈黙の中で町の様子を観察していたぼくのこころは、ある一人の紳士によって中断されることになった。
「失礼ですが……」
と、紳士は言った。
「いと長き旅路の切符をお持ちですかな?」
ぼくにはなんのことかわからないことを言う。
紳士は、この近くで働いているわけでも、この近くに住んでいるわけでもなさそうだった。
ぼくは、ちょっとだけ怖さに駆られる。
切符の存在に気付いたときと同種の怖さだ。
「おっしゃっていることがわかりませんが、ぼく、降りるはずだった停留所を乗り過ごしてしまって」
「そうではないように、見受けられましたがな」
紳士が続ける。
「どういうことでしょうか?」
「あなたは今、いと長き旅路に踏み出している。これは、とてもとても長い旅になりますよ?」
「いやですよ、そんなの。ぼくは普通に家に帰って、夕飯をたらふく食いたいんだ!」
「では、なぜ今この電車に乗っているのです?」
ぼくは答えられなかった。
「夕飯なら、わたしが用意しましょう」
そういうと、紳士はかばんからたこ焼きのパックを取り出した。
それを、ぼくの目の前に差し出して見せる。
「ど、どうも」
ぼくは、おずおずとそのたこ焼きを爪楊枝でさしてつまんだ。
「あなたはいったい、どんな人なんです? ただのおせっかいさんなんですか?」
たこ焼きをたべていくぶん気持ちが落ち着いたぼくは、その紳士にたずねた。
紳士は笑った。
「そう見えますか?」
「見えます」
「それでは、そういうことにしておきましょう」
電車はやがて、県立大学前に停車した。やはり、誰も降りなかった。しかし、乗り込んでくる乗客は数人いた。
「今日は雨ですね?」──と、とうとつに紳士。
「はい。雨です」
「雨の日には、不思議なことがおきる。そう思いませんか?」
「思いません。普通の雨の日です」
「おやおや、いと長き旅路に出るあなたがそんなでは……」
「なんなんですか、いったい? ぼくになにか興味があるとでもいうんですか?」
「興味があるのは、この電車のほうですよ」
「この電車?」
「あなたは、いつもより早くこの電車が到着した、と思いませんでしたか?」
「それは……時刻をよく確認していませんでしたので」
「わからない? それもまた良いのです」
「はあ」
「この環状線は、およそ15分おきに電車が運行している。一時間で言えば四本です」
「それがなにか?」
「だから、電車が遅れた、とか早かった、というときには、利用者はそれに気づくはず」
「はい」
「あなたは、それに気づかなかった。それが……無限列車に乗ってしまった、ということなのです」
ぼくは、だんだんに心細い気持ちになってきていた。
この紳士と話すということが、ぼくの心を枯れさせる。不安に駆られる。そして、早く家に帰りたいと思わせる……
しかし、今このとき、ぼくは不思議と家に帰りたいとは思わなかった。
この不思議な遊びの行く末を、見極めてやろうと思い出していたのだ。
……
水天宮を過ぎると、それまでその輪のなかで談笑していた女子高校生の3人組が、こちらに向かってあるいてきた。
「あなた、死にたいの?」
そのうちの一人が言った。
「なんだって? なんで、急にそんなこと」ぼくは、そんな言葉を返すのが精いっぱいだった。
「この環状線は呪われているって、知っているよね?」
「知らないよ、そんなこと」
「なかでも、さっきの水天宮が一番霊力が強いの。わたしたちは、そこで降りた……」
「それが、ぼくと何か関係あるのか?」
「あなたはそこで、降りなかった。いと長き旅路には失格だわ」
「ぼくはそもそも、そんなものに合格したくはない! ぼくはただ、本に挟まっている切符が気になっただけなんだ!」
「それが、それなのよ」
「なんだって?」
「あなたは、いと長き旅路へと向かう切符を手にした。そこから後は、心霊の世界。後へ引くことはできないのよ」
「そんなこと言うな!」
「あなたは現に、自分の家の最寄り駅で電車を降りなかった。もう、魅了されているのよ……」
「いったい何に?」
「人が人を超えるときにたどる境界……」
「待て、まだこの人はそうだと決まったわけじゃない。……さっきから騒々しくって、ほんとうに申し訳ありません」
紳士のほうが、その会話に割って入った。
「あなたの運命は、いつでも変えられるんですよ?」
「ぼくは運命を変えたいわけじゃない。ぼくはただ、古本屋に立ち寄って、この本を買って……今は家に帰りたいだけだ」
電車のアナウンスが、「藪元」という停留所名を告げた。
ぼくは、ぽかーんとした。
「藪元」と言えば、人を化かす狐の伝説で有名な場所じゃないか。そうしたら、こいつらは全員狐なのか?
しかし、電車は藪元も通りすぎた。
ぼくには、すでになにがなんだかわからなくなっていた。単に雨宿りをしただけなのに……今日この日にどんな秘密があったって言うんだ!
ぼくは目を閉じた。紳士と女子高校生は、そのままその場に立っていた。
今はもう、一刻も早く自分の家に帰りたかった。電車のなかが、しーんとした静寂で包まれた。
そんなときだった。
ぼくは、環状線と風水に関する雑学を調べたことがある、と思い出した。
環状線は、その町に強烈な結界を作り、その町を守るのだと……
だとしたら、ぼくはその結界に取り込まれつつある???
──そんなことは嫌だった。
はやく、元の通りの自分に戻りたい。そのためには、どうすればいいのか?
(なにもしなくていいんですよ?)そんなささやき声が、ぼくの耳をかすめた。
ぼくは、膝の上においていた本を取り上げると、ばさばさと振ってみせる。
そこからは、何枚もの切符がこぼれおちてきた。
いずれも、二十七年目の六月十七日の日付である。
そして、ようやく思い出した。その日付は、僕が二十八年前に生まれた誕生日の、ちょうど一年後だと。
ぼくはずっと目をつぶっていた。
そして、その間にも紳士や女子高校生の声は聞こえていた。
「すべてをなかったことにしたいなら……」
「すべてをなかったことにしたいなら……」
僕は、その続きを聞き取れなかった。
しかし、その後の言葉が、どうしてか僕の脳裏に重く響き渡った。
「世界を変えてしまいなさい」
ぼくは、青葉町でいそいで電車を降りた。
ざあざあとした雨が、ぼくの頭上に降っていた。
ふと手元を見ると、ぼくがそれまで手にしていた本はなかった。
駅前にあった古本屋は? と見ると、どこにもそんな影も形も見当たらなかった。
伏線回収していませんが……投げっぱなしのホラーということで。




