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星月夜の詩  作者: クマコとアイ


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18/24

洗濯しなかった晴れの日

なんということのない純文学です。

第一章 洗えない理由


 九月に入ってから、雨の日が多くなった。


 降っているのか降っていないのか分からないような細い雨が、一日じゅう窓の外を白くしている。ときどき止むこともあるけれど、そのころには夕方になっている。


 洗濯物がたまっていた。


 下着と靴下。それからTシャツが何枚か。パジャマもそろそろ洗わなくてはいけない。


 洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押す。


 それだけのことなのに、わたしにはそれができない日があった。


 できる日もある。


 朝、目を覚まして、今日は大丈夫だと思える日は、簡単にできる。顔を洗って、朝ご飯を食べて、そのついでに洗濯機を回す。


 でも、できない日は、本当にできない。


 布団のなかから窓を見る。


 それだけで午前中が終わる。


 昼になったら起きようと思う。


 午後になったら起きようと思う。


 三時を過ぎると、もう今日は洗濯しても乾かないから、明日でいいやと思う。


 そんなふうにして、洗濯籠のなかの服が少しずつ増えていった。


 ……


 その人とは、夜によく話した。


 インターネットで知り合った人だった。


 顔も知らない。


 本当の名前も知らない。


 住んでいる町は聞いたことがあったけれど、住所までは知らなかった。


 わたしより少し年上で、夜更かしをする人だった。


「今日は洗濯した?」


 ある夜、そんなことを聞かれた。


「してない」


「また?」


「雨だから」


「今日、晴れてたじゃん」


「こっちは雨だったの」


「ほんとかなあ」


 ほんとうだった。


 でも、晴れていてもしなかったと思う。


 そう言うと、その人は顔文字で笑った。


「じゃあ明日ね」


 明日。


 その言葉が、なんとなく好きだった。


 今日できなかったことは、明日やればいい。


 明日できなかったら、その次の日でもいい。


 洗濯物は逃げないし、怒らない。


 たまっていくだけだ。


 その人も、いつも夜になるとそこにいた。


 だから、わたしはあまり気にしていなかった。


 ところが、ある晩、その人はいなくなった。


 最初は、ネットを中止して寝ているのだと思った。


 次の日もいなかった。


 三日目に、その人のページを開こうとしたら、何も出てこなかった。


 アカウントがなくなっていた。


 メッセージを送ることもできなかった。


 それだけだった。


 何があったのかは分からない。


 嫌われたのかもしれない。


 インターネットをやめただけかもしれない。


 新しい名前で、どこかにいるのかもしれない。


 もしかすると、パソコンやスマートフォンが壊れただけかもしれない。


 考えれば考えるほど、いろいろな理由を思いついた。


 そして、どの理由も確かめることができなかった。


 わたしは二日ほど、ほとんど布団から出なかった。


 そのあいだも雨が降っていた。


 雨の音を聞いていると、少し安心した。


 洗濯しなくてもいい理由が、窓の外にあるからだった。


 四日目の朝。


 目を覚ますと、部屋が明るかった。


 カーテンの隙間から、細長い光が床に落ちていた。


 久しぶりの晴れだった。


 スマートフォンを見ると、天気予報には太陽の印が並んでいる。


 でも明日は、また雨だった。


 今日しかない。


 わたしは布団のなかで、しばらく天気予報を眺めた。


「洗濯しなくちゃ」


 声に出して言ってみた。


 それから起き上がった。


 立ちくらみがしたので、しばらくベッドの縁に座っていた。


 窓の向こうは、驚くほど青かった。


 こんなに晴れなくてもいいのに、と思った。


 洗濯籠を持ち上げる。


 思っていたより重かった。


 洗濯機の前まで運んで、上から一枚ずつ服を入れていった。


 靴下。


 下着。


 タオル。


 Tシャツ。


 その下から、灰色のパジャマが出てきた。


 わたしは手を止めた。


 何の変哲もないパジャマだった。


 どこにでも売っている安物で、袖口には小さな毛玉ができている。


 その人と最後に話した夜、わたしはこれを着ていた。


 もちろん、その人は知らない。


 わたしが何を着ていたかなんて、一度も話していない。


 写真を送ったこともない。


 だから、このパジャマとその人には、何の関係もなかった。


 それなのに、洗濯機へ入れることができなかった。


 洗ってしまったら、あの夜まで洗い流されてしまうような気がした。


 そんなわけないのに。


 洗剤に、人の記憶を消す力なんてない。


 わたしはパジャマを抱えたまま、しばらく洗濯機の前に立っていた。


 やがて、ほかの洗濯物も全部取り出した。


 洗濯籠へ戻した。


 何をやっているんだろうと思った。


 でも、もう一度やり直す気にはなれなかった。


 籠を部屋まで運ぶ。


 布団が見えた。


 急に眠くなった。


 まだ午前九時だった。


 外は晴れている。


 風もある。


 きっと、よく乾く。


 明日は雨だ。


 分かっていた。


 それでもわたしは、灰色のパジャマを抱えたまま、布団にもぐった。


 カーテンは開けたままにしておいた。


 窓の外では、今日という日が、洗濯日和の顔をして晴れていた。



第二章 洗わない理由


 そんなこんなで過ごしているうちに……


 その日、オフラインの友達からプリンが送られてきた。


 宅配の配達員がベルを鳴らして、わたしは仕方なしに起きる。


 でも……起きたくない。


 すべての動作が緩慢で、配達員にも無愛想に応じてしまった。


 そんなわたしを、わたしは後悔する。


 ただ、誰にともなく説明したかった。


 わたしが起きられない原因を──洗濯ができない原因を。


 友達は、よくこう言った、「臭くならない?」


「お風呂には毎日入っているし、服も毎日取り換えているから……」


「ふうん」それが、友達の答えだった。


 誰も、わたしの真実に気づいてくれてはいない。


 もちろん、わたしはわたしの素性を隠しておきたい、という気持ちもあった。


 それは、防衛本能のようなもので、わたしは自然と周囲の人間にたいして身構える。


 今この時も、わたしは友達からのプリンを受け取りながら、彼女にどう言い訳しようと考えていた。


「なっちゃったもんは仕方ないんだよ」


 わたしは独り言を言う。


 そして、自然な涙がこぼれてきた。


 それは悲しい涙ではなかった。


 寂しいという涙でもなかった。


 嬉しい涙では、当然なかった。


 ただ、その時、インターネットで知り合ったあの男性がそばにいない、ということが心細かった。


 今までは、ホーム画面を開けば、その人は必ずそこにいた。


 彼は人望があるらしく、何人ものユーザーが彼の投稿にコメントしていた。


 明るくて親しみやすい紳士……というのが、彼の印象だった。


 わたしは、彼の一ファンにすぎない。


 わたしが、彼の投稿にコメントをすることは稀だった。


 富士山や白山の写真を投稿して、彼はそれに登山記録をつける。


 みんなが、「すごいね」と言った。


 でも、わたしは冷めていた。


 イベントにおける彼を知りたいというよりは、普段の彼を知りたかった。


 彼は、どうやら三十代の男性らしい……わたしはそう推測した。


 とすれば、わたしともウマが合う年代だ。


 もっと親密に話してもいい──わたしはそう思った。


 しかし、そこからが罠である。


 わたしには、彼にたいして話すべき話題が何もない。


 富士山にも白山にも登らない。


 まるっきりの運動音痴だし、アウトドア派でもない。


 積極性にも欠けている。


 ただし、情熱だけは持っている。


 そして、その情熱がわたしをベッドに押し付けるのだ。


 ……


 カーテンは相変わらず、開けっ放しである。


 わたしの顔に、南からの光が落ちてくる。


(洗濯、したいな)


 わたしは思った。


 だけれど、いまこの瞬間にベッドから立ち上がって出ていくことは、わたし自身にたいする冒涜のようにも思えていた。


 わたしは、さっき友人からもらったプリンを食べた。


 冷蔵していなくっても、おいしかった。


「今日は、洗濯は、しない!」


 わたしは、思い切って言った。


 今日は、わたしがわたしを労わる日だった。


 昨日も苦労した。


 一昨日も苦労した。


 今日だって……


 だけれど、インターネット上で親しんだあの男性はもういない……


 わたしを受け止めてくれる者が、どこにもいなかった。


 インターネットでは、積極性さえあれば誰とでも親しくなれる。


 でも、積極性を持てない人間がいたとしたら、彼や彼女はどうなるの?


 わたしは、終わりのない煩悶にとらわれる。


 それは、わたしの問題でもあり、わたしの問題でもなかった。


 今日、洗濯をしないと言うこと……


 ネットの天気予報で見ると、今週の金曜日は晴れの予定だった。そして、その翌日は曇りである。


 わたしは、「金曜日まで待ってもいいかな?」と思った。


 夕方になって、洗濯物を取り込むための力が残っていないと、洗濯物は翌日の雨にさらされて湿ってしまう。


 それが怖かったのだ。


 パジャマを洗濯したら、一日で乾いてほしい。天気とのタイブレークはいやだ。わたしは、その日のうちに洗濯という行事を済ませたい。


 だから……その日は洗わないことを決心した。


 ──


 その日の夜、事件があった。


 れいの男性に関することだった。


 とつぜん、男性のアカウントが復活した。そして、かつてのフレンドにメッセージを送っている。


 わたしのところにも送られてきた。


 メッセンジャーで彼は、「アカウントが乗っ取りにあってしまって。なので、インターネットのアカウントすべてのパスワードへんこうなどをしていました。それに忙殺されて、皆様と連絡を取るのが遅れてしまいましたが、どうぞご容赦ください」。


 そんな事務的なメッセージだった。


 それでも、わたしはほっとした。


 彼は、わたしたちを置き去りにして去ったわけではなかったんだ。死んだわけでもなかった。あるいは事故にあって入院している、とかだったら事情は分かるけれど、それではアカウントを閉鎖した、ということの意味が分からない。


 わたしはインターネットには詳しくなかったけれど、彼の苦労は分かったような気がした。


 ──


 それから、わたしたちは再びネットを通じて話すようになった。


 でも、以前とは違う、どこかぎこちなさが生じていた。


 彼は、アカウントを乗っ取られる、という事件にあった。わたしは、洗濯ができなかった。


 そのどちらもが、同じ事象の異なる側面のように思われた。


 わたしは、「金曜日にはかならず洗濯をする」と、彼にメッセージを送った。


「きっとだよ? 身の回りを清潔にしていないと、どんどん落ちて行っちゃうからね」


 彼は、それだけメッセージを返してきた。


 わたしに、もう迷いはなかった。金曜日には洗濯をする。パジャマも洗う。


 そんな何気ない夜だった……

何も起こらないことが良いのかなあ、とわたしは思うのですが。

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