洗濯しなかった晴れの日
なんということのない純文学です。
第一章 洗えない理由
九月に入ってから、雨の日が多くなった。
降っているのか降っていないのか分からないような細い雨が、一日じゅう窓の外を白くしている。ときどき止むこともあるけれど、そのころには夕方になっている。
洗濯物がたまっていた。
下着と靴下。それからTシャツが何枚か。パジャマもそろそろ洗わなくてはいけない。
洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチを押す。
それだけのことなのに、わたしにはそれができない日があった。
できる日もある。
朝、目を覚まして、今日は大丈夫だと思える日は、簡単にできる。顔を洗って、朝ご飯を食べて、そのついでに洗濯機を回す。
でも、できない日は、本当にできない。
布団のなかから窓を見る。
それだけで午前中が終わる。
昼になったら起きようと思う。
午後になったら起きようと思う。
三時を過ぎると、もう今日は洗濯しても乾かないから、明日でいいやと思う。
そんなふうにして、洗濯籠のなかの服が少しずつ増えていった。
……
その人とは、夜によく話した。
インターネットで知り合った人だった。
顔も知らない。
本当の名前も知らない。
住んでいる町は聞いたことがあったけれど、住所までは知らなかった。
わたしより少し年上で、夜更かしをする人だった。
「今日は洗濯した?」
ある夜、そんなことを聞かれた。
「してない」
「また?」
「雨だから」
「今日、晴れてたじゃん」
「こっちは雨だったの」
「ほんとかなあ」
ほんとうだった。
でも、晴れていてもしなかったと思う。
そう言うと、その人は顔文字で笑った。
「じゃあ明日ね」
明日。
その言葉が、なんとなく好きだった。
今日できなかったことは、明日やればいい。
明日できなかったら、その次の日でもいい。
洗濯物は逃げないし、怒らない。
たまっていくだけだ。
その人も、いつも夜になるとそこにいた。
だから、わたしはあまり気にしていなかった。
ところが、ある晩、その人はいなくなった。
最初は、ネットを中止して寝ているのだと思った。
次の日もいなかった。
三日目に、その人のページを開こうとしたら、何も出てこなかった。
アカウントがなくなっていた。
メッセージを送ることもできなかった。
それだけだった。
何があったのかは分からない。
嫌われたのかもしれない。
インターネットをやめただけかもしれない。
新しい名前で、どこかにいるのかもしれない。
もしかすると、パソコンやスマートフォンが壊れただけかもしれない。
考えれば考えるほど、いろいろな理由を思いついた。
そして、どの理由も確かめることができなかった。
わたしは二日ほど、ほとんど布団から出なかった。
そのあいだも雨が降っていた。
雨の音を聞いていると、少し安心した。
洗濯しなくてもいい理由が、窓の外にあるからだった。
四日目の朝。
目を覚ますと、部屋が明るかった。
カーテンの隙間から、細長い光が床に落ちていた。
久しぶりの晴れだった。
スマートフォンを見ると、天気予報には太陽の印が並んでいる。
でも明日は、また雨だった。
今日しかない。
わたしは布団のなかで、しばらく天気予報を眺めた。
「洗濯しなくちゃ」
声に出して言ってみた。
それから起き上がった。
立ちくらみがしたので、しばらくベッドの縁に座っていた。
窓の向こうは、驚くほど青かった。
こんなに晴れなくてもいいのに、と思った。
洗濯籠を持ち上げる。
思っていたより重かった。
洗濯機の前まで運んで、上から一枚ずつ服を入れていった。
靴下。
下着。
タオル。
Tシャツ。
その下から、灰色のパジャマが出てきた。
わたしは手を止めた。
何の変哲もないパジャマだった。
どこにでも売っている安物で、袖口には小さな毛玉ができている。
その人と最後に話した夜、わたしはこれを着ていた。
もちろん、その人は知らない。
わたしが何を着ていたかなんて、一度も話していない。
写真を送ったこともない。
だから、このパジャマとその人には、何の関係もなかった。
それなのに、洗濯機へ入れることができなかった。
洗ってしまったら、あの夜まで洗い流されてしまうような気がした。
そんなわけないのに。
洗剤に、人の記憶を消す力なんてない。
わたしはパジャマを抱えたまま、しばらく洗濯機の前に立っていた。
やがて、ほかの洗濯物も全部取り出した。
洗濯籠へ戻した。
何をやっているんだろうと思った。
でも、もう一度やり直す気にはなれなかった。
籠を部屋まで運ぶ。
布団が見えた。
急に眠くなった。
まだ午前九時だった。
外は晴れている。
風もある。
きっと、よく乾く。
明日は雨だ。
分かっていた。
それでもわたしは、灰色のパジャマを抱えたまま、布団にもぐった。
カーテンは開けたままにしておいた。
窓の外では、今日という日が、洗濯日和の顔をして晴れていた。
第二章 洗わない理由
そんなこんなで過ごしているうちに……
その日、オフラインの友達からプリンが送られてきた。
宅配の配達員がベルを鳴らして、わたしは仕方なしに起きる。
でも……起きたくない。
すべての動作が緩慢で、配達員にも無愛想に応じてしまった。
そんなわたしを、わたしは後悔する。
ただ、誰にともなく説明したかった。
わたしが起きられない原因を──洗濯ができない原因を。
友達は、よくこう言った、「臭くならない?」
「お風呂には毎日入っているし、服も毎日取り換えているから……」
「ふうん」それが、友達の答えだった。
誰も、わたしの真実に気づいてくれてはいない。
もちろん、わたしはわたしの素性を隠しておきたい、という気持ちもあった。
それは、防衛本能のようなもので、わたしは自然と周囲の人間にたいして身構える。
今この時も、わたしは友達からのプリンを受け取りながら、彼女にどう言い訳しようと考えていた。
「なっちゃったもんは仕方ないんだよ」
わたしは独り言を言う。
そして、自然な涙がこぼれてきた。
それは悲しい涙ではなかった。
寂しいという涙でもなかった。
嬉しい涙では、当然なかった。
ただ、その時、インターネットで知り合ったあの男性がそばにいない、ということが心細かった。
今までは、ホーム画面を開けば、その人は必ずそこにいた。
彼は人望があるらしく、何人ものユーザーが彼の投稿にコメントしていた。
明るくて親しみやすい紳士……というのが、彼の印象だった。
わたしは、彼の一ファンにすぎない。
わたしが、彼の投稿にコメントをすることは稀だった。
富士山や白山の写真を投稿して、彼はそれに登山記録をつける。
みんなが、「すごいね」と言った。
でも、わたしは冷めていた。
イベントにおける彼を知りたいというよりは、普段の彼を知りたかった。
彼は、どうやら三十代の男性らしい……わたしはそう推測した。
とすれば、わたしともウマが合う年代だ。
もっと親密に話してもいい──わたしはそう思った。
しかし、そこからが罠である。
わたしには、彼にたいして話すべき話題が何もない。
富士山にも白山にも登らない。
まるっきりの運動音痴だし、アウトドア派でもない。
積極性にも欠けている。
ただし、情熱だけは持っている。
そして、その情熱がわたしをベッドに押し付けるのだ。
……
カーテンは相変わらず、開けっ放しである。
わたしの顔に、南からの光が落ちてくる。
(洗濯、したいな)
わたしは思った。
だけれど、いまこの瞬間にベッドから立ち上がって出ていくことは、わたし自身にたいする冒涜のようにも思えていた。
わたしは、さっき友人からもらったプリンを食べた。
冷蔵していなくっても、おいしかった。
「今日は、洗濯は、しない!」
わたしは、思い切って言った。
今日は、わたしがわたしを労わる日だった。
昨日も苦労した。
一昨日も苦労した。
今日だって……
だけれど、インターネット上で親しんだあの男性はもういない……
わたしを受け止めてくれる者が、どこにもいなかった。
インターネットでは、積極性さえあれば誰とでも親しくなれる。
でも、積極性を持てない人間がいたとしたら、彼や彼女はどうなるの?
わたしは、終わりのない煩悶にとらわれる。
それは、わたしの問題でもあり、わたしの問題でもなかった。
今日、洗濯をしないと言うこと……
ネットの天気予報で見ると、今週の金曜日は晴れの予定だった。そして、その翌日は曇りである。
わたしは、「金曜日まで待ってもいいかな?」と思った。
夕方になって、洗濯物を取り込むための力が残っていないと、洗濯物は翌日の雨にさらされて湿ってしまう。
それが怖かったのだ。
パジャマを洗濯したら、一日で乾いてほしい。天気とのタイブレークはいやだ。わたしは、その日のうちに洗濯という行事を済ませたい。
だから……その日は洗わないことを決心した。
──
その日の夜、事件があった。
れいの男性に関することだった。
とつぜん、男性のアカウントが復活した。そして、かつてのフレンドにメッセージを送っている。
わたしのところにも送られてきた。
メッセンジャーで彼は、「アカウントが乗っ取りにあってしまって。なので、インターネットのアカウントすべてのパスワードへんこうなどをしていました。それに忙殺されて、皆様と連絡を取るのが遅れてしまいましたが、どうぞご容赦ください」。
そんな事務的なメッセージだった。
それでも、わたしはほっとした。
彼は、わたしたちを置き去りにして去ったわけではなかったんだ。死んだわけでもなかった。あるいは事故にあって入院している、とかだったら事情は分かるけれど、それではアカウントを閉鎖した、ということの意味が分からない。
わたしはインターネットには詳しくなかったけれど、彼の苦労は分かったような気がした。
──
それから、わたしたちは再びネットを通じて話すようになった。
でも、以前とは違う、どこかぎこちなさが生じていた。
彼は、アカウントを乗っ取られる、という事件にあった。わたしは、洗濯ができなかった。
そのどちらもが、同じ事象の異なる側面のように思われた。
わたしは、「金曜日にはかならず洗濯をする」と、彼にメッセージを送った。
「きっとだよ? 身の回りを清潔にしていないと、どんどん落ちて行っちゃうからね」
彼は、それだけメッセージを返してきた。
わたしに、もう迷いはなかった。金曜日には洗濯をする。パジャマも洗う。
そんな何気ない夜だった……
何も起こらないことが良いのかなあ、とわたしは思うのですが。




