手作りマドレーヌと佳奈の話
とある雑貨店での話
第一章 観葉植物の多すぎる店
その店には、植物が多すぎた。
入口の脇には、わたしの背丈ほどもあるウンベラータが二鉢。窓辺には小さな多肉植物が十個ほど並び、天井からは名前のわからない蔓草がいくつも垂れ下がっている。奥の壁際にはモンステラやパキラが陣取っていて、その隙間を縫うようにして、四人掛けのテーブルが三つ置かれていた。
「また増えた?」
わたしが訊くと、カウンターの向こうで水差しを持っていた佳奈は、
「増えてないよ」
と答えた。
「増えてるって」
「育っただけ」
「じゃあ、このちっちゃいのは?」
「それは増えた」
「増えてるじゃん」
佳奈は笑った。
この店を始めて七年になる。
店の名前は「雨と庭」。喫茶店なのか雑貨店なのか、いまだによくわからない。コーヒーと紅茶が飲める。ケーキもある。棚には佳奈が仕入れた食器やハンカチやアクセサリーが並んでいる。そして、店内のいたるところに植物がある。
植物も売り物なのだそうだ。
ただし佳奈が気に入ったものは売らない。
結果として、店は少しずつ森になっている。
「コーヒーでいい?」
「うん」
わたしはいつもの窓際に座った。
土曜日の午後なのに客はいなかった。
これで経営が成り立っているのだから不思議だ。
「今日、お菓子持ってきた」
わたしは鞄から紙袋を取り出した。
「なに?」
「マドレーヌ」
「買ったの?」
「作った」
佳奈の手が止まった。
「理恵が?」
「その反応、失礼じゃない?」
「だって料理しないじゃん」
「するよ」
「カップラーメン?」
「お湯を沸かすところから料理に含めれば」
「含めません」
佳奈は紙袋を覗き込んだ。
透明な袋に一個ずつ入れたマドレーヌが六個。形はいびつだった。焼き色にもむらがある。お菓子作りなんて高校以来だったから、これでもかなり頑張ったのだ。
「どうしたの、急に」
「なんとなく」
「なんとなくでマドレーヌ作る人じゃないでしょ」
「昨日、暇だったから」
「ふうん」
佳奈はそれ以上聞かなかった。
そういうところが、昔から好きだった。
――好きだった。
そう思ってから、わたしは窓の外を見た。
道路の向こうを、自転車に乗った親子が通り過ぎていった。
佳奈とは高校二年のときからの付き合いだから、もう十五年になる。
同じクラスだった。
大学は別だった。
就職先も別だった。
佳奈は七年前に会社を辞め、この店を始めた。わたしは今も会社員をしている。
それでも月に二、三度は会う。
恋人より長く付き合っている、と佳奈が冗談で言ったことがある。
実際そうだった。
わたしにはこれまで三人、恋人がいた。
佳奈にも何人かいた。
恋人ができれば報告した。別れれば報告した。
泣いたこともある。
夜中まで電話したこともある。
でも、佳奈と恋愛の話をするとき、わたしたちはいつも自分たち二人だけを、その話の外側に置いていた。
「食べていい?」
佳奈がマドレーヌを一つ取り出した。
「いいよ。そのために持ってきたんだから」
袋を開ける。
一口かじる。
わたしは佳奈の顔を見た。
「どう?」
「うん」
「うん、ってなに」
「マドレーヌ」
「それは見ればわかる」
「ちゃんとマドレーヌの味するよ」
「もっと褒めてよ」
「おいしいよ」
佳奈はもう一口食べた。
そして急に、
「これ、売ろうかな」
と言った。
「は?」
「店で」
「無理無理」
「なんで?」
「素人が昨日初めて作ったようなやつだよ」
「でもおいしい」
「形も変だし」
「そこが手作りっぽくていいじゃん」
佳奈はマドレーヌを眺めた。
「雨と庭のマドレーヌ。一個百五十円」
「勝手に商品化しないで」
「じゃあ百円」
「値段の問題じゃない」
笑っているうちに、コーヒーができた。
佳奈はカップを二つ持ってきて、わたしの向かいに座った。
店主がそんなにのんびりしていていいのかと思うけれど、いつものことだった。
テーブルの上には、コーヒーが二つ。
真ん中にはマドレーヌ。
窓から入る午後の日差しが、葉っぱを通してテーブルに落ちている。
「理恵」
「なに?」
「来月さ」
「うん」
「この店、閉めるかもしれない」
わたしはコーヒーカップを持ったまま佳奈を見た。
「……なんで?」
「ちょっとね」
「経営?」
「それもある」
「それも?」
佳奈は答えなかった。
代わりに立ち上がると、窓辺に置いてあった小さな鉢植えを一つ持ってきた。
丸い葉っぱが何枚もついた、見覚えのある植物だった。
「これ、持って帰らない?」
「なに、これ」
「ペペロミア」
「なんで?」
「植物、少しずつ減らそうと思って」
「店、ほんとに閉めるの?」
「たぶん」
佳奈はそう言って、残っていたマドレーヌを食べた。
わたしは鉢植えを見た。
佳奈を見た。
そして、紙袋の中に残った五個のマドレーヌを見た。
言いたいことがあるような気がした。
でも、それが何なのか、自分でもわからなかった。
十五年も一緒にいる人間に、いまさら何を言えばいいのだろう。
「ねえ」
佳奈が言った。
「このマドレーヌ、残り全部もらっていい?」
「……いいけど」
「ありがとう」
佳奈は紙袋を自分のほうへ引き寄せた。
それから、ひどく普通の声で言った。
「それから、また作ってきて? 最後の日に、お客さんに出したい」
窓辺で、葉っぱが揺れた。
風なんて入ってきていないはずなのに、とわたしは思った。
第二章 友情以上恋愛未満
「佳奈、あなたってさ、本当に大事なことは秘密にする傾向があるよね?」
「なによいきなり」
「だって、マドレーヌを売りたいなんて言うから」
「……」
「わたし、そういう秘密めかしたの、好きじゃないよ?」
「あなたには話しておかなくちゃって思ったんだけれどねえ……決心がなかなかつかなくって」佳奈は迷ったように言った。
「決心? なにか重要なことなの?」わたしも襟を正して尋ねる。
「うん」
「お店を閉めるのもわたしに相談しないくらい?」
「そうなんだ……実はねえ」
と言って、佳奈はかしこまった話を始める。
「わたしには幼馴染の従兄がいるんだけれど、知ってる?」
「あ、洋司くんのこと?」
「話が早いね……その彼とさ、今度結婚するかもしれないの」
「結婚!?」わたしは驚いて聞き返した。──佳奈は結婚とは無縁の存在だと思っていたからだ。なんでも自分の手で切り開き、運営していく。このお店も……会社員をしているあいだにプロジェクトに携わっているときなんかもそうだったかもしれない。
佳奈は、高校時代には弓道部に入っていた。それで、全国大会に出場したこともある。
わたしは帰宅部。佳奈は、たんにクラスが同じになっただけの、手の届かない存在だった。
女子高だったから、話していると話題は下世話なものになることもあった。
「ねえねえ、恋人いる?」
「やだ~。いないよお」
「絶対隠しているでしょ? キスまで行った?」
など、あからさまなことが聞かれることもある。しかし、佳奈に浮ついた話はなかった。スポーツ少女だったのである。
わたしは、そんな佳奈に憧れた。
大学に進学するときも、佳奈と同じ学校へ進もうと思ったけれど、わたしは学力が足りなかった。思えば、わたしはいつも佳奈の背中ばかりを追いかけていたのだ……
「それがなんでまた、洋司くんと結婚?」
「それがなんでまた、って?」
「いや、これまでのあなたの人生からして……」
「結婚なんて、って思っている?」
「うん」
「わたしにも事情があってさ」
「でも、洋司くんとあなたって、友情以上恋愛未満っていう関係だったじゃない? いっしょに寝たことあるの?」
「ないよ」
「それでいきなり結婚? 唐突すぎない?」
「やっかんでいるの? 理恵?」佳奈は、そんな普段は口にしないような言葉を口にした。
「そんな。ただあなたのことが心配になって」
「理恵こそ、いま恋人はいる? 結婚したいって思うような」
「いないよ。絶賛募集中」
「だよね。わたしもそうだったんだ」
「意外。あなたって、ひとりで生きていくタイプに見えてた」
「ひどいなあ」佳奈が照れたように、顔をうつむける。
「洋司くんってさ、いま学童保育で働いているんでしょ?」
「そうなの。でも、その仕事も辞めるかもしれない……」
「なんでさ?」不安になって、わたしは聞いた。
お店を閉めようとしている人間と、学童保育を辞める人間。経済的に立ちゆくはずがない。
しかし、わたしは浅はかだった……。
「洋司くんさ、養子を取ることに決めたの。だから、もう次の就職先も決まってる」
「もしかして、その学童保育に通っていた子?」
「ううん。それとはちょっと違うんだけれど、母親からDVを受けていた子たちでね。双子なの」
「そんなの……養子なんて、酔狂で取れるものじゃないよ? きちんと計画はあるの?」
「計画はある。それで、わたしに相談してきた」
それがどんな内容なのかを、わたしは佳奈に根掘り葉掘り聞いた。
どうやら洋司は、そんな子供たちの人生に直接関わることを決めた責任を取って、学童保育の仕事を辞めるらしい。次の就職先には、電気店の販売員が内定していた。やはり、堅気の仕事だ。でも、それがなんで佳奈との結婚につながるんだろう?
「こういうことはさ──って、洋司くんは言うの。下手に恋愛感情をもってない関係のほうがうまくいくんだよ、って」
「でもさ、あまりにも無責任じゃない?」
「……わたしには、経験があるから……」
佳奈の始めた話は、わたしにとっては予想外のものだった。
いわく、佳奈は子供のころ父親と母親からの虐待を受けていたらしい。それは、今でいえば教育的虐待のようなもので、程度はそれほどでもなかった。しかし、佳奈の心には深い傷を残した。洋司は、そんな事情を逐一把握していた。
……思えば、佳奈が独立独歩の気質になった原因も、そんなところに一端があるのだろう。
「ねえ。わたしがなんでお店に観葉植物を置くのか知ってる?」
「そんなの、分からないよ」
「植物は、何も言わないから。黙って耐えてる、わたしみたいに。でも、洋司くんはそんなんじゃだめだって、わたしに言った。友情以上恋愛未満の関係なのにね?」
「本当だよ」
「でもね、これって他人に自分の心をまかす良い機会なんじゃ? っても思ったの。洋司くんは、しばらくの間わたしに専業主婦をやってほしいって思ってる。引き取る双子の家庭環境のために」
「事情は分かったけれど、あまりにも勝手だよ?」
「そうかな。わたしはそんなでもないと思うわ。学童保育に入れ込んだ人間が、いつかこれらの子供たちにもっと親身に接したいと思う。そこに、DVを受けている子供たちが現れた。自分には、そんな経験がない。でも、真に彼らを救わなければいけないと感じる。そんなとき、身近な場所にDVの経験者がいた。頼りたいと思うのは当然だわ……」
「重すぎるよ」
「わたしは重いとは思わない」──言って、佳奈は笑った。
空調が、店内の植物の葉をゆらした。
「マドレーヌさ、さっき言った話は嘘で、本当はその子たちに食べさせてあげたいと思ったの」
「それなら分かる気がする……でも、その子たちには会っているの?」
「もう何度か会ってる」佳奈がうなずく。
「良い子たちだった?」わたしが聞く。
「うん、とっても」佳奈は、満面の笑みで答える。
「ならやっぱり……友情以上恋愛未満の関係が良いのかもしれないわね。あなた、その子たちを育て終わったら、またお店を開くんでしょう?」
佳奈がこくりとうなずく。その瞳には、未来をきちんと見据えている人の光があった。
「わたしさ、自分にも何かできることがあるんじゃないかって、思っちゃったの」
「思っちゃったのなら、仕方がないよ」そう言いながらも、わたしは十五年もつきあってきた間柄でも知らないことはあるんだな、ということをかみしめていた。そこにいる佳奈は、わたしの知っている佳奈であると同時に、わたしの知らない佳奈だった。
「ねえ、マドレーヌ本当においしかった?」
「本当だよ」佳奈が笑ってみせる。
その土曜の午後は、いつになく穏やかな時間が流れているような気が、わたしにはしていた。
ちょっと切ない終わり方になりました。




