大好きな姉の誕生日に……
何も起こっていないのに、何かが起こった日。そんな話です。
第1章 前かごに花束
ルツカで買い物をして駐輪場に戻ってくると、困ったことになっていた。わたしの自転車に異常が生じていたのである。
サドルを盗まれた? 鍵を壊された?
いや、そんなことではない。物騒なことではなかったのだ。
しかし、自転車の前かごに大量のバラがなぜか入れられていた……
──
その日は姉の誕生日だった。
わたしは今現在、母の介護をしている。
生活は姉が切り回していて、働いているのは、姉だ。
わたしは、主に寝たきりに近い母の介護をして日々をすごしている。
母は、認知ははっきりとしていて、ぼけた言動をすることはない。
しかし、長年にわたって腰と背中を痛めていて、起き上がることがひどいのだ。
だから、普段は介護ベッドに横になってラジオを聴いたりしている。
わたしは、そんな母の体調を見守りながら、3食の食事を作る。洗濯機を回す。洗濯物を干す……
まあ、雑用に近い家事をこなしている。
……
そう。その日は姉の誕生日だったのだ。
姉は、わたしの家の最寄り駅から10駅くらいある半導体工場で働いていて、2交代制。
今では職場や上司の信用も得て、管理職に近い仕事をしている。
月に30万ほどは稼いでいるのだが、ほとんどは実家の生活費につぎ込んでいて、生活に余裕はない。
母も介護保険の支払いやら、週に2度通う整骨院の費用やらで、けっこうなお金がかかるのだ。
わたしの生活は、そんな姉におんぶにだっこ、という感じだ。
アルバイトをしていたこともあるが、母が入院したときに辞めてしまった。それ以来、仕事はしていない。
わたしは姉が好きだ。
小さいころから可愛がってくれた。
勉強の面倒もよく見てくれたし、近所の悪ガキたちからも守ってくれた。
わたしは、今でも姉の庇護の傘の下で生きている。
今日の姉は日勤。夕方になれば帰ってくる。
だから、箱入りのチョコレートと、バースデーケーキを買って帰ろうと思ったのだ。
とりあえず生鮮食品を買って、わたしの両腕はふさがっている。
ケーキは後ろの荷台に縛り付けて運ぶつもりだった。
歩きでここまで来ることも考えたが、ゆっくり自転車を走らせればなんとかなるだろうと思った。
しかし、そこへ来て……このバラの花束である。
「どうしよう、これ??」
わたしは、駐輪場で一人呟いた。
バラの花束……なんのために? まさか、姉の誕生日を分かっていて、姉に贈れということでもないだろうし?
誰かが自分の自転車と間違えて置いていったのか、それとも風変わりないたずらか?
あるいは誰かがYouTubeに上げる動画でも撮っているの? と思った。
とすれば、わたしはドッキリの犠牲者。
こんないたずらを面白がるなんて……
それとも、本当に誰かが自分の自転車と間違えているのだったら……
(店の人に言う必要がある?)と、わたしは思った。
でも、わたしはぐずぐずしていた。なぜって? わたしは人見知りだったから。
こんな忘れ物がありました、とルツカの店員に言うだけでどぎまぎしてしまう。
こんな性格だから、アルバイトをしていても職場になじむまで大変だった。
いや、今はそんな話は良い。この花束をどうするかだ。
第二章 もう一つのバラの花
わたしは、しばらく花束を見ていた。
赤いバラが多かった。白いものも、黄色いものも混じっている。花屋できちんと包んでもらったものらしく、透明なフィルムの下には、細い緑色のリボンまで結ばれていた。
誰かが、お金を出して買ったものだ。
そう考えると、勝手に動かすこともためらわれた。
わたしはルツカの入口を見た。
人が出てくる。
買い物袋を下げた老人。小さな子どもの手を引いた母親。スマートフォンを見ながら歩く高校生。
誰も、こちらを気にしていない。
仕方がない。
わたしは花束を持って、サービスカウンターへ行った。
「あの……」
声が小さかった。
店員は気づかなかった。
「あの、すみません」
今度は少し大きな声を出した。
「はい」
「あの、これ……駐輪場にあって」
そこまで言ってから、違うと思った。
「じゃなくて、わたしの自転車のかごに入っていたんです」
「花束ですか?」
「はい」
店員は困った顔をした。
そりゃそうだろう。財布やスマートフォンならともかく、花束である。
「忘れ物……でしょうか?」
「たぶん」
「では、お預かりしますね」
「あ、はい」
それだけだった。
わたしは頭を下げて、サービスカウンターを離れた。
なんだ。
簡単だった。
心臓はまだ少しどきどきしていたけれど、やることは終わった。
わたしは食品売場へ戻り、それから予約してあったケーキを受け取った。箱入りのチョコレートも買った。
駐輪場へ戻る。
前かごには、さっき買った生鮮食品だけが入っていた。
さっきまであれほど大量のバラがあったのに、それはない。
わたしは、妙にさびしい気持ちになった。
いやいや。
あれは、わたしのものではない。
誰かが取りに来るかもしれない。
その人は今ごろ、花束がないことに気づいて青くなっているかもしれない。
大好きな人に贈るものだったかもしれない。
お見舞いだったかもしれない。
わたしと同じように、誰かの誕生日だったかもしれない。
わたしはケーキを荷台に縛った。
チョコレートは前かごに入れた。
まだ隙間が空いている。
当たり前なのに、その空いたところが気になった。
──
家に帰ると、母がラジオを聴いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね」
「ちょっとね」
わたしは花束の話をした。
母は笑った。
「持ってくればよかったのに」
「だめだよ。人のものなんだから」
「そうだけど」
母はそう言って、また笑った。
夕方、姉が帰ってきた。
わたしと母は、おめでとう、と言った。
姉は照れくさそうに笑った。
「もう誕生日なんて、めでたくないよ」
毎年同じことを言う。
ケーキを三等分した。
母はベッドの背を起こして食べた。
姉には少し大きく切った。
「でね」
わたしはバラの話をした。
「すごいじゃん。もらってくればよかったのに」
姉まで同じことを言った。
「お母さんもそう言った」
三人で笑った。
それから姉は、
「でも、もったいなかったね」
と言った。
何がもったいないのだろう。
バラだろうか。
わたしは少し考えた。
──
翌日、母を整骨院へ送った帰りに、ルツカへ寄った。
サービスカウンターの前を通った。
花束は、誰かが取りに来たのかもしれない。
店員が処分したのかもしれない。
わたしには分からなかった。
聞こうとも思った。
でも、聞かなかった。
もう、わたしのすることではないと思った。
外へ出る。
昨日と同じ場所に自転車があった。
もちろん、前かごには何も入っていない。
わたしは鍵を開けた。
自転車に乗って、家へ向かった。
途中、小さな花屋の前を通った。
わたしは通り過ぎた。
それから、少し先で自転車を止めた。
戻った。
「バラ、一輪だけでも買えますか?」
店の人に聞いた。
「もちろん」
赤いのと、白いのと、黄色いのがあった。
わたしは黄色いバラを一本買った。
家に帰って、コップに挿した。
「どうしたの、それ」
母が聞いた。
「昨日の花」
「昨日の?」
「ううん。違う花」
母は変な顔をした。
わたしは笑った。
夕方になれば、姉が帰ってくる。
誕生日は昨日だった。
だからこれは、誕生日のプレゼントではない。
姉のために買ったのかどうかも、わたしにはよく分からなかった。
ただ、昨日からずっと空いていたところに、一本くらい花があってもいいような気がしたのだ。
姉が帰ってきたら、たぶん聞くだろう。
どうしたの、それ、と。
そのとき、なんと答えよう。
わたしはまだ決めていなかった。
これもどちらがAIか、難しいかな?




