第8話 白い菌は宝になる
冬が近づいていた。
高床式倉庫には大量の麦が積み上がっている。
去年なら夢のような光景だった。
だが、人というものは不思議なものだ。
飢えなくなると、次の不満が生まれる。
朝食。
麦粥。
昼食。
麦粥。
夕食。
少し具が入った麦粥。
ミアは匙を見つめながらため息を吐いた。
「また麦粥……」
子供たちも机に突っ伏す。
「味がしないー」
「飽きたー」
ガルドが眉をひそめた。
「贅沢な悩みだな」
「前は食べる物すら無かったんだぞ」
それは事実だった。
だが穣は黙っていた。
倉庫の麦を見つめる。
「まだ足りない」
ミアが呆れる。
「今度は何が足りないの?」
穣は短く答えた。
「豊かさだ」
◆
数日後。
倉庫で作業していたトーマが大声を上げた。
「おい!」
「またカビだ!」
村人たちが集まる。
麦の一部が白くなっていた。
表面に綿のようなものが広がっている。
トーマは顔をしかめた。
「捨てるぞ」
「前みたいに腐る前にな」
だが穣はしゃがみ込み、麦を手に取った。
指で割る。
中まで白い。
そして匂いを嗅ぐ。
しばらく沈黙。
やがて口元がわずかに緩んだ。
「違うな」
ミアが嫌な予感を覚える。
「その顔やめて」
「また変なこと考えてるでしょ」
「宝だ」
全員が固まった。
「は?」
◆
広場。
白くなった麦が並べられている。
村人たちは距離を取っていた。
トーマが腕を組む。
「どう見てもカビだろ」
「カビだ」
穣は即答した。
「じゃあ捨てろ!」
「最高のカビだ」
村人たちがざわつく。
「怖ぇよ!」
「何が最高なんだ!」
穣は気にしない。
「麹だ」
当然誰も知らない。
ミアが首を傾げる。
「こうじ?」
「菌の仲間だ」
「だからカビじゃん」
「カビだ」
穣は平然としていた。
「だが敵じゃない」
◆
穣は再現を始めた。
麦を選ぶ。
洗う。
蒸す。
そして木箱へ入れた。
布をかぶせる。
暖かい場所に置く。
子供たちが見張りを任された。
「なんで見張るの?」
「温度が大事だからだ」
「温度?」
「暑すぎても寒すぎても死ぬ」
子供たちは真面目に交代を始めた。
数日後。
木箱を開ける。
中は真っ白だった。
「うわぁ!」
「増えてる!」
「完全に増えてる!」
トーマは後ずさる。
ミアも少し引いている。
だが穣だけが満足そうだった。
「成功だ」
◆
次の日。
穣はさらに奇妙なことを始めた。
麦麹を砕く。
炊いた麦へ混ぜる。
木桶へ入れる。
そして温かく保つ。
ミアが聞いた。
「今度は何?」
「待つ」
「説明になってない」
「菌が仕事をする」
数時間。
半日。
一日。
翌朝。
木桶を開けた瞬間。
甘い香りが広場に広がった。
村人たちが顔を見合わせる。
「なんだこの匂い」
「果物みたいだ」
穣は木匙ですくった。
「飲め」
最初に犠牲になったのはミアだった。
「なんで私なのよ」
恐る恐る口に入れる。
そして固まった。
目が見開かれる。
「……甘い」
広場が静まり返る。
「え?」
「嘘だろ?」
次々に味見する。
誰もが同じ顔になる。
甘い。
砂糖も無い。
蜂蜜も無い。
それなのに甘い。
子供たちは歓声を上げた。
「すごい!」
「もっと!」
「おかわり!」
◆
トーマが穣に詰め寄る。
「なんで甘くなるんだ!」
「菌が麦を分解した」
全員沈黙。
ミアが言う。
「分かるように」
穣は少し考えた。
「菌が飯を作った」
「それなら分かる」
広場に笑いが起きた。
子供たちは甘酒を抱えて飲み続ける。
病弱だった子供たちの頬は赤く染まっていた。
笑顔が止まらない。
ガルドはそれを見つめる。
「こんな顔……初めて見たな」
腹を満たす食べ物ではない。
楽しむための食べ物。
それが初めて村に生まれた瞬間だった。
◆
だが穣は止まらない。
数日後。
広場に石臼が置かれた。
麦を挽く。
粉にする。
卵を混ぜる。
甘酒を加える。
こねる。
焼く。
しばらくして――。
香ばしい匂いが村中に広がった。
子供たちが駆け寄る。
「なんだこれ!」
「いい匂い!」
焼き上がった菓子を配る。
ミアが一口食べる。
サクッ。
ほんのり甘い。
優しい味。
「美味しい……」
トーマも驚く。
「麦だけでこんな味になるのか」
子供たちは取り合いを始めた。
「ずるい!」
「それ僕の!」
「返せー!」
広場は笑い声で満ちた。
◆
夕暮れ。
ガルドは焼き菓子を手に座っていた。
一口かじる。
そして静かに呟く。
「昔の豊かな時代でも……こんな食べ物は無かった」
豊作。
保存。
飢えないこと。
それだけでは豊かではない。
美味しいと思えること。
笑いながら食べられること。
それもまた豊かさだった。
◆
夜。
倉庫の前。
ミアが穣の隣に座った。
「結局さ」
「麹って何なの?」
「菌だ」
「それは知ってる」
穣は少しだけ空を見上げた。
「見えない職人だ」
ミアは首を傾げる。
「職人?」
「人間には出来ない仕事をする」
「麦を甘くする」
「食べ物を変える」
「命を繋ぐ」
穣は白い麹を手に取った。
「土にも菌がいる」
「水にもいる」
「食べ物にもいる」
「見えないだけで、世界は働き者だらけだ」
ミアは少し笑った。
「穣らしい答えね」
◆
翌朝。
広場では子供たちが焼き菓子を取り合っていた。
甘酒を飲みながら笑っている。
病気ばかりだった子供たちの姿はもうない。
穣は静かに麦麹を見つめた。
誰も価値を知らなかった白い菌。
だがその小さな命が、村に初めての甘さをもたらした。
穣は呟く。
「生き物は、使い方次第だ」




