第3話 見えない命を増やせ
朝靄の残る村の広場に、奇妙な匂いが漂っていた。
甘いような、酸っぱいような。
腐っているのに、不思議と嫌な臭いではない。
広場の中央には、大きな木桶が置かれている。
その前で、土門穣は黙々と何かを混ぜていた。
果物の皮。
冷えた麦粥。
乳。
飲み残しの古い酒。
そして水。
長い木の棒でゆっくり掻き回すたび、どろりとした液体が泡を立てる。
ミアは離れた場所から顔をしかめた。
「……食べ残しを煮たみたい」
「違う」
穣は即答した。
「菌の餌だ」
「また菌……」
トーマが呆れたように笑う。
「お前、見えないもん好きすぎるだろ」
穣は答えない。
代わりに桶へ顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「まだ弱いな」
「は?」
「甘さが足りない」
そう言って、さらに砕いた果実を放り込む。
村人たちは理解できず顔を見合わせた。
ガルドが低い声で言う。
「そんな汁で何する気だ」
「働かせる」
「誰を」
穣は桶を見下ろしたまま言った。
「菌を」
◆
数日後。
木桶は変化していた。
表面がぶくぶく泡立っている。
白い細かな泡。
耳を澄ませば、ぷつ、ぷつと小さな音まで聞こえた。
ミアは恐る恐る近づく。
「……生きてるみたい」
「生きてる」
穣は当然のように答える。
「増えたな」
「増えたって……何が?」
「働く菌だ」
ミアは桶を覗き込む。
以前の腐臭はない。
代わりに甘酸っぱい香りが漂っている。
「臭くない……」
「腐敗じゃなく発酵になった」
穣は静かに言った。
「腐るのは、“嫌な奴”が増えた状態だ」
「嫌な奴?」
「他を腐らせる連中だ」
穣は桶を軽く叩く。
「発酵は逆だ。“役に立つ奴”が勝った状態」
ミアは目を丸くした。
「菌にも良いやつ悪いやついるの?」
「人間と同じだ」
◆
その日。
穣は発酵液を木桶に移し、水で薄め始めた。
カイが不安そうに後ろをついてくる。
「……飲むの?」
「違う」
穣は家畜小屋へ向かった。
薄めた液を床へ撒く。
壁へ撒く。
汚水の溜まった排水にも流し込む。
ミアが顔をしかめる。
「余計臭くなりそう……」
「逆だ」
穣は藁を踏みながら言う。
「先に菌に食わせる」
数日後。
変化は明らかだった。
鼻を刺していた悪臭が弱い。
ハエの数も減っている。
ぬるついていた床も乾き始めた。
カイが目を丸くする。
「……臭くない」
トーマは床を触り、信じられない顔をした。
「なんでだ……」
穣は淡々と言う。
「腐る前に分解した」
◆
だが。
その日の夕方。
穣はさらに村人を混乱させた。
「小便を捨てるな」
一瞬。
空気が止まった。
「は?」
ミアが真顔になる。
トーマは頭を抱えた。
「お前ついに狂ったか?」
ガルドですら眉をひそめる。
「肥溜め文化は昔からあるが……直接使うのは危険だぞ」
穣は真顔のまま地面に棒で絵を書いた。
葉。
茎。
根。
「作物はまず葉を作る」
「葉が弱いと育たない」
「今の土は、その材料が足りない」
リサが腕を組む。
「……葉色が薄いのはそのせい?」
「そうだ」
穣は頷く。
「小便には窒素がある」
「窒素?」
「葉を作る力だ」
誰も理解できない。
だが穣は構わず桶を用意した。
◆
ただ集めるだけではない。
穣は尿へ灰を入れた。
藁を混ぜる。
さらに発酵液を注ぐ。
そして蓋をした。
ミアが引いた顔をする。
「……何それ」
「育ててる」
「小便を?」
「菌に食わせる」
穣は桶を軽く叩く。
「そのままだと強すぎる」
「発酵させれば土が食える形になる」
ミアは頭を抱えた。
「小便まで循環とか言い出した……」
「捨てるから腐る」
穣は静かに言う。
「戻せば循環になる」
◆
数日後。
穣は発酵した液を薄め、麦畑へ撒いた。
黄色く弱った麦。
葉は細く、元気がない。
トーマは腕を組む。
「絶対枯れる」
「濃ければな」
穣は静かに撒き続けた。
◆
さらに数日後。
最初に異変へ気づいたのはカイだった。
「……色」
麦畑が揺れる。
黄色かった葉が、少しずつ濃い緑へ変わっている。
葉の厚みも違う。
トーマは畑へ駆け寄った。
「なんでだ……」
穣は葉を撫でる。
「飯を食えるようになった」
「飯……?」
「葉は光を食う」
風が吹く。
麦が以前より力強く揺れた。
◆
夕暮れ。
穣は畑の端でしゃがみ込んでいた。
その視線の先には、焼いた灰。
そして魚の骨。
ミアが隣に座る。
「今度は何考えてるの」
「窒素だけじゃ足りない」
「まだいるの?」
「実を作る力がいる」
穣は骨を拾い上げた。
「骨はリン酸」
灰を握る。
「灰はカリ」
ミアはぽかんとする。
「……全部畑になるの?」
穣は小さく頷いた。
「命は回る」
その時だった。
近くを走っていた子供たちの笑い声が響く。
以前より咳をしていない。
顔色も少し良い。
カイが小さく呟く。
「元気になってる」
穣は静かに土を握った。
柔らかい。
湿っている。
虫も増え始めている。
「循環が戻り始めた」
夕風が吹く。
土の匂いは、もう死んだ匂いではなかった。




