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黒字領地の悪役令嬢は、拡大投資を慎重に進めたい  作者: gachapin2223


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第5話 増産の影で減るもの

パン屋の日報に記された半刻の遅れは、それだけなら見逃してしまいそうな程度のものだった。


 窯の火が安定しなかったのかもしれない。粉の挽き上がりが少し遅れたのかもしれない。働く者の誰かがうっかり手順を飛ばした可能性だってある。


 だがレティシアは、その一行を見た時に嫌な胸騒ぎを覚えた。


 小さなずれは、単体では理由にならない。

 だからこそ、重なった時に初めて姿を見せる。


 翌朝、レティシアはルカを伴ってパン屋へ向かった。


 まだ店を開ける前だというのに、中はすでに熱気で満ちている。窯の前ではオットーが無愛想に生地の具合を見ており、奥ではエルザが木箱の数を数えていた。


「おはようございます」


 レティシアが声をかけると、エルザが慌てて手を止めた。


「お嬢様。こんな朝早くに」


「昨日の日報を見たの。第二便が少し遅れたでしょう」


「ああ……はい。大したことでは」


「大したことにする前に見に来たのよ」


 そう言うと、オットーが窯から目を離さずに鼻を鳴らした。


「勘がいいな」


「悪い予感の方だけね」


「十分だ」


 パン屋の裏手には、粉袋がいつもより少し雑に積まれていた。普段ならオットーが嫌がる並べ方だ。


「これ、昨日のまま?」


「昨日の荷が遅れた」


 短い返答に、ルカがすぐ反応する。


「製粉所?」


「いや、倉庫から出るのが遅れたらしい」


 レティシアはエルザへ向き直った。


「それで焼き上がりがずれたのね」


「はい。でも本当に、少しだけです」


「少しだけ、が昨日だけならいいのだけれど」


 エルザは困ったように笑った。


「最近、少しだけが増えてる気はします」


 その言葉に、レティシアは視線を細めた。


「どんなふうに」


「荷の受け取りが少し遅れるとか、戻ってくる木箱が少し足りないとか、薪の束がいつもより湿ってるとか……。一つ一つは困るほどじゃないんです。でも、前より『今日は少しずれる日だな』って思うことが増えました」


 隣でオットーが低く言う。


「帳尻は合わせてる。だが合わせる回数が増えた」


 それは、いかにも彼らしい言い方だった。


 困るほどではない。だが、調整の手間は増えている。

 その「増えた手間」は、売上には出ない。

 けれど確実に人を疲れさせる。


 パン屋を出たあと、二人はそのまま製粉所へ向かった。水車の音は変わらず規則的だったが、中で働く男たちの顔には、春先より少し濃い疲れが見えた。


 帳面を預かっていた若者が、レティシアを見るなり背筋を伸ばす。


「お嬢様、おはようございます」


「おはよう。最近、挽き上がりに遅れは?」


「大きなものはありません。……ただ」


「ただ?」


「細かい掃除の時間を、何度か後ろへ回しました」


 ルカが顔をしかめた。


「何で」


「回ってしまったんです。春市の後から荷の出入りが増えて、止めるほどじゃないから、あとでまとめてやろうって」


 止めるほどじゃない。

 またその言葉だ、とレティシアは思う。


 止めるほどではない遅れ。

 今すぐ困るほどではない先送り。

 壊れるほどではない摩耗。


 そういうものばかりが積み上がる時ほど、後でまとめて高くつく。


「まとめて、はもうできたの」


「まだ半分です」


 水車の軸を見上げながら、レティシアは小さく息を吐いた。


「次に止まるのは、故障のせいではないかもしれないわね」


「え?」


「止めるべき日に止められないせいで、止まるのよ」


 若者ははっとした顔になった。


 製粉所を出る頃には、ルカの手元の書きつけに、細かい遅れと先送りの項目がいくつも増えていた。倉庫では木箱の補修が後ろへ押され、縫製場では受注整理の帳面に書き込みが増え、畑では運搬予定の組み直しが頻発している。


 どこも破綻してはいない。

 だがどこも、以前より少しだけ余裕を削っていた。


 昼過ぎ、縫製場でイーダが針を持つ手を止めた。


「こういう時って、不思議と誰も自分が無理してるって言わないのよね」


「言わない?」


「ええ。まだやれる、で済んでしまうから」


 周囲の女たちも苦笑している。


「だって本当に、まだやれちゃうんですもの」


「だから厄介なの」


 イーダは布端を揃えながら続けた。


「壊れる前って、たいてい『もう駄目です』じゃなくて『なんとかなるけど嫌な感じ』なのよ」


 その表現が、レティシアにはよくわかった。


 帳簿も同じだ。

 赤字になる前には、必ず説明しにくい嫌な感じがある。

 小さな遅れ、小さな先送り、小さな不足。

 どれも一つなら取るに足らないが、重なれば崩れの輪郭になる。


 夕刻、執務室に戻ると、レティシアはその日の聞き取りを一覧に起こした。


 第二便の遅れ。

 荷出しのずれ。

 保守掃除の先送り。

 木箱補修の滞留。

 受注整理の圧迫。

 運搬組み直しの増加。


 目に見えるほどの大事ではない。だが、紙に並べると、減っているものが見えてくる。


「増えてるのは売上だけじゃないですね」


 ルカが肩越しに一覧を見た。


「ええ。調整回数も増えてる」


「で、減ってるのは」


「余白よ」


 レティシアは即答した。


「時間の余白。手の余白。止めるための余白」


 クラウスが夕方の報告を聞きに来た時、机の上の一覧を見てしばらく黙っていた。


「数字にしにくい減り方だな」


「だから見落とされやすいんです」


「収入は伸びているのに、楽にはなっていないわけか」


「むしろ、楽に見えるから押し込まれやすいのです」


 クラウスは苦い顔で頷いた。


「黒字、という言葉は便利すぎるな」


「ええ。余裕と同じくらい」


 その時、扉が勢いよく開き、ベルタが顔を出した。


「言っておくけど、洗濯場も似たようなものよ」


「やっぱり?」


「乾くうちはごまかせる。でも、ごまかして回ってるってことは、天気が崩れた瞬間に遅れが噴き出すってこと」


 彼女はずかずかと入ってきて、机上の一覧を指で叩いた。


「こういうの、見えるようにしなさい。皆、『回ってる』って言葉に騙されるから」


 レティシアは頷いた。


「そのつもりよ」


「ならいいわ」


 ベルタは言うだけ言うと帰っていったが、その足音には妙な頼もしさがあった。


 領地の中で、もう現場の側も気づき始めている。

 これは順調の顔をした別の何かだと。

 その気づきがあるなら、まだ手は打てる。


 夜、ランプの火の下で一覧を清書しながら、レティシアはふとペン先を止めた。


「ねえ、ルカ」


「何です」


「増産の影で減るものって、厄介ね」


「儲けが減るならすぐ騒ぐのに、余白が減るのは静かですからね」


「ええ。静かな減り方ほど、遅れて効くわ」


 机の上には、今日一日で拾った小さな綻びが並んでいる。

 どれもまだ、致命傷には遠い。

 けれどそれは、安心材料ではなかった。


 致命傷に遠いまま、ずっと削り続けられることの方が、時には始末が悪い。


 そして、最後にルカがまとめた王都側の打診一覧の端に、新しい注記が増えていた。


 ――王都文官の視察希望、同行予定者に財務局補佐官の名あり。


 レティシアの視線が、そこで止まる。


「財務局補佐官?」


「はい。商会だけじゃないみたいです」


 王都の商人が欲しがるのはわかる。

 だが文官まで来るとなれば、話は少し違ってくる。


 レティシアは一覧のその名を指先でなぞった。


「……儲け話にしては、ずいぶん政治の匂いがするわね」

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