第4話 拡大すれば豊かになる、は本当か
対外から届いた打診書を種類ごとに分けて並べると、机の半分が埋まった。
商会からの共同契約案。近隣領からの定期供給打診。王都の文官を通した視察依頼。どれも言い回しは違うが、要するに「いま伸びているなら、もっと伸ばせるでしょう」と言っている。
レティシアはその山を見下ろしながら、指先で紙の端を揃えた。
「紙は軽いのに、面倒だけはよく詰まっているわね」
向かいで一覧表を作っていたルカが、顔も上げずに答える。
「まだ増えますよ。今日だけで四件追加です」
「よく嬉しそうに言えるわね」
「嬉しくはないです。呆れてるだけで」
春の終わりの光が執務机の上に落ち、インク壺の縁を鈍く照らしている。窓の外からは、荷車の軋む音が時折聞こえた。領地は動いている。だからこそ、机の上の話だけで決めてよいことではない。
扉が叩かれ、クラウスが入ってきた。今日は外回りから戻ったばかりらしく、肩に土埃が残っている。
「集まっているな」
「ええ。ありがたいことに」
「嫌味にしか聞こえんな」
「半分は嫌味です」
レティシアがそう答えると、父は苦笑しながら椅子へ腰を下ろした。ルカが無言で新しい茶を置く。
クラウスは机上の一覧にざっと目を通し、腕を組んだ。
「しかし、ここまで話が集まるのは悪いことではない。領地が立ち直った証でもある」
「そうですね」
「せっかく来た好機を、慎重に見すぎて逃すのも惜しい」
その言い方に、ルカの筆先が一瞬だけ止まった。
レティシアは父を見た。クラウスの目は、楽観だけで物を言っているわけではない。領主として、広げられる時に広げる判断もまた必要だと知っている目だった。
「お父様は、受けるべきだとお考えですか」
「話次第だな。全部とは言わん。ただ、すべてを疑って何も受けぬのも違うだろう」
「ええ。それは私も同じです」
断ること自体が目的ではない。問題は、何を受けて何を受けないか、その線引きだった。
ルカが筆を置いた。
「でも、その線引きが厄介なんですよ。条件だけ見れば、受けた方が得に見える話が多いですから」
「得に見える、でしょう」
レティシアは一覧表の空きに新しい線を引いた。
「だから、見える分だけでは決めないのよ」
昼前、会議室には主だった家臣と各現場の責任者が集められた。先日の顔ぶれに加え、農地管理を預かる老人ディートルフと、会計を補佐するハンスもいる。
机の上には、対外打診をまとめた一覧と、それぞれに対応した必要人手、保守負担、備蓄消費見込みの試算が並べられていた。
最初に声を上げたのは、領内の税務と取引帳を見てきた古参家臣の一人だった。
「数字だけ見れば、受けぬ理由は薄いように思えますな」
穏やかな口調だが、反対ではなく前向き寄りの声音だった。
「春市の売上も良い。製粉所も回っている。ここで販路を広げられれば、来年以降はさらに安定するのでは?」
「私も同意見です」
別の家臣が続ける。
「名が上がれば、より条件の良い取引先も集まるでしょう。今のうちに外との繋がりを強めるのは悪くない」
会議室に、わずかに頷く気配が広がった。
どちらも間違ったことは言っていない。黒字になったばかりの領地にとって、収入源を増やすことは魅力的だ。余裕が薄い時期を知っている者ほど、その魅力は強く見えるだろう。
だが、レティシアは一覧表の一枚を手に取った。
「では、こちらをご覧ください」
売上予測の横に並ぶ、人手の割り振り表。各契約案を受けた場合、どの持ち場で何人日ぶんの負担が増えるかを粗く見積もったものだ。
「王都向けの粉の定期供給を月二便増やした場合、製粉所では現状の保守日が月に二日減ります。倉庫と荷運びでは、補修待ちの荷車が今の倍の速度で積み上がる見込みです」
ざわ、と空気が揺れた。
「近隣領への乾物定期便を増やした場合、今度は備蓄の回転が早まり、夏終わりの最低在庫線がかなり薄くなります。縫製場の受注も同時に増やせば、補修布の余裕が先に消えます」
ルカが横から二枚目の紙を差し出す。
「こっちは、各契約を二件同時に受けた時の試算です」
レティシアはそれを広げた。
「利益は増えます。確かに増えるわ。でも――」
そこで一度言葉を切る。
「人手不足が、先に来ます」
会議室が静かになった。
数字だけ見ればまだ黒い。けれど、その黒字を支える手が足りなくなる。人を新たに雇えば済む、と簡単には言えない。慣れた手が必要な持ち場ばかりだからだ。
ディートルフが顎髭を撫でながら唸った。
「畑も同じですな。春先から夏口までは回せても、収穫期へ入る前に余計な運搬が重なると、どこかで遅れが出る」
「ええ」
「遅れは一日なら一日ですが、重なると畑は取り返しがつかん」
現場を知る者の言葉に、先ほどまで前向きだった家臣たちも黙り込む。
クラウスが口を開いた。
「つまり、今の領地は『金が足りない』のではなく、『余白が足りなくなる』のか」
「はい」
レティシアは頷いた。
「今の黒字は、好きなだけ広げていい証ではありません。むしろ、ようやく選び方を間違えられなくなったということです」
ハンスが遠慮がちに手を挙げた。
「でも、人を育てながら少しずつ増やすのは駄目なんでしょうか」
「駄目ではないわ」
レティシアは柔らかく答える。
「ただ、『少しずつ』と言いながら、契約の方が待ってくれないのが問題なの。向こうは今すぐ欲しい。こちらは今すぐ育たない」
「……ああ」
ハンスは納得したように頷いた。
人手は帳簿の数字みたいに、書き足せば増えるものではない。慣れ、連携、判断、そういう目に見えない蓄積があって初めて回る。
ベルタが腕を組んだまま言う。
「増やすにしても、現場の足並みを揃えなきゃ駄目ってことね」
「ええ。片方だけ先に走れば、別の片方が倒れるわ」
クラウスは机上の試算をもう一度見た。しばらく黙っていたが、やがて深く息を吐く。
「……思った以上に、細い綱の上だな」
「だからこそ落ちないように歩いてきたんです」
ルカの言葉は、ぶっきらぼうだったが、その場の空気をよく表していた。
会議の終わり際、先ほど拡大に前向きだった家臣が少し申し訳なさそうに言った。
「我々は、つい売上の方ばかり見てしまうようですな」
「構いません」
レティシアは紙をまとめながら答える。
「売上を見る人がいるのは必要です。でも同じだけ、擦り減る方を見る人も必要なのです」
会議が散ったあと、ルカが窓辺で背を伸ばした。
「思ったより素直に引きましたね」
「数字を見せたからよ」
「見せずに『嫌です』だけだったら?」
「臆病か、わがままか、どちらかに見えたでしょうね」
レティシアは残った試算書の一番下を見つめた。
受けられない理由は、もう感覚ではなく形になっていた。
それでもなお、外は押してくるだろう。
数字を見せても、見たいものしか見ない者はいる。
「でも、これで終わりではないわ」
「でしょうね」
ルカも同じ紙に目を落とす。
「人手不足が先に来るってわかったなら、次はその前兆を拾わないと」
「ええ。崩れる前の小さな減り方を、ね」
その日の夕方、パン屋から上がってきた日報の端に、見慣れない書き込みが一つ増えていた。
――本日の焼き上がり、第二便が半刻遅れ。
ほんのわずかな遅れだ。
けれどレティシアは、その一行から目を離せなかった。
大きな崩れは、いつだって小さな遅れの顔をしてやってくる。




