第3話 王都が欲しがる黒字領地
ラングハイム商会への確認書を出して三日後、返ってきた返事は早かった。
そして、いかにも早すぎた。
「ずいぶん準備がいいのね」
届いた封書を読みながらレティシアが言うと、ルカが肩をすくめた。
「こっちが細かいことを言い出すのを見越してたんじゃないですか」
「でしょうね」
返答は一見すると丁寧だった。
こちらの懸念を理解する姿勢。柔軟な協議への前向きな言葉。長期的な信頼関係を重んじるという美辞麗句。
だが、肝心な箇所だけが曖昧だった。
設備停止時の責任分担は「都度協議」。
最低納品量の調整は「双方の誠意ある協力」。
備蓄優先の例外規定は「特別事情に際し検討」。
「何一つ決める気がない返事の見本みたいね」
「むしろ上手いですよ。断ってないようで、譲ってもいない」
「ええ。こういう文面を書く人間は、たいてい慣れているわ」
紙の上で逃げ道だけを確保するのは、別に珍しい技ではない。だが、それをこの速度で返せるということは、相手もこちらを軽い相手だとは見ていないのだろう。
そう思うと、少しだけ面倒だった。
マルガレーテが来客の名を告げたのは、その直後だった。
「近隣のエーレンフェスト子爵家より使者がお見えです」
「うちに?」
「はい。春のご挨拶と、今後のお付き合いについて少々、と」
レティシアとルカは顔を見合わせた。
「早いわね」
「群がってきましたね」
応接室へ通された使者は、年の頃四十を少し過ぎた、よく肥えた男だった。愛想の良い笑みを絶やさず、季節の挨拶から領地の復調ぶりへの賛辞まで、実に滑らかに言葉を並べる。
その滑らかさに、レティシアは内心で警戒を強めた。
「いやはや、まことに見事なお立て直しですな」
「ありがとうございます」
「若きご令嬢がここまでやり遂げられるとは、王都でも評判ですよ」
「それは光栄です」
「ぜひ今後は、近隣領ともより活発なお取引を」
そこまで聞いて、要するに王都だけではなく近隣も動き始めたのだと悟る。
黒字という事実は、それほどまでにわかりやすい看板なのだろう。
使者はにこやかなまま続けた。
「特に貴領の粉と加工品は評判がよろしい。供給を少し広げていただければ、我が領でも歓迎されましょう」
「少し、とは」
「まずは定期便を月に二度ほど。軌道に乗れば、さらに」
「なるほど」
笑顔を保ったまま相槌を打ちながら、レティシアは頭の中で在庫と輸送手を弾く。
できなくはない。だが、できることと、やってよいことは同じではない。
「ありがたいお話ですが、現在は春から初夏にかけての在庫推移と保守計画を見直しているところですの」
「ほう。慎重でいらっしゃる」
「ええ。慎重でなければ、昨冬を越えられませんでしたので」
使者の笑みが、ほんの一瞬だけ固くなった。
つまり、軽く押せば転ぶ相手ではないと悟ったのだろう。
応接を終えたあと、ルカが疲れた顔で言った。
「この先ずっと来ますよ、ああいうの」
「でしょうね」
「黒字って面倒ですね」
「赤字も面倒だったわよ」
「質が違いますけど」
「ええ、知っているわ」
赤字の時は、足りないものを数えればよかった。
だが黒字になると、増やせるものと増やしてはいけないものを見分けなければならない。
どちらが楽かと問われれば、答えに困る。
午後、倉庫を見に出たレティシアは、荷の積み替えをしていたオットーに声をかけた。彼は額の汗を腕で乱暴に拭い、荷台を見上げたまま答える。
「また外向けの話か」
「よくわかるわね」
「このところ人の出入りが増えすぎだ。匂いでわかる」
「匂いって何」
「こっちの都合より、向こうの都合で急がせる匂いだ」
いかにもオットーらしい言い方だったが、本質は外していない。
倉庫の中では、乾物の箱がきれいに積み直されている。その並びの整い方を見れば、以前よりずっと回っているのは明らかだった。だが同時に、通路の端には補修待ちの木箱も積まれている。
「これ、増えた?」
「増えたな。まだ大した数じゃねえが、後回しにし始めると一気だ」
「後回しにしているの」
「今は出入りの方が先だからな」
レティシアは黙って木箱の角へ触れた。小さな割れ目。まだ使える。だが、まだ使える、を積み上げた先に崩れる日が来ることも知っている。
「オットー」
「なんだ」
「もし外向けの出荷を増やしたら、倉庫はどうなる」
「短いあいだなら回す」
「長くは」
「知らん。知らんが、嫌な崩れ方をする」
短く、しかし十分な答えだった。
その帰り道、広場では若い見習いたちが新しい記録板を囲んでいた。ハンスが何やら教えているらしく、木炭を片手に熱心に数字を書き直している。
「違う違う、余った数だけじゃなくて、何日で減ったかも書くんだよ」
「なんでですか」
「次にどれくらい要るか考えるためだよ」
そのやり取りを少し離れた場所から見て、レティシアは足を止めた。
以前は、数字は一部の人間だけが持つものだった。帳簿は奥にしまわれ、現場は現場で動く。だが今は違う。少しずつではあるが、働く者たちが自分で数え、自分で次を考え始めている。
それこそが、領地に残したかった変化のはずだった。
外へ売る量を増やすことより、先に守るべきものがある。
この変化を、目先の好条件で潰したくはない。
夕方、執務室へ戻ると、新たな来状が二通届いていた。ひとつは王都の文官からの面会打診。もうひとつは、別の商会からの共同出資案。
レティシアは封を切る前から、こめかみを押さえたくなった。
「本格的ですね」
ルカが半ば呆れた声で言う。
「ええ。本格的に、こちらを『使える成功例』だと思い始めたのでしょう」
「成功例、ですか」
「便利な言葉よ。成功の途中にある面倒な事情を全部省いて、結果だけ欲しがる時に使うの」
椅子へ腰掛け、レティシアは新しい封書を机へ置いたまま、窓の外を見た。
春の終わりの光が、倉庫の屋根を斜めに照らしている。広場にはまだ人が残り、子どもの声まで聞こえた。以前なら、こんな時間まで落ち着いた声が続くことは少なかっただろう。
守れたのだ、と少しだけ思う。
少なくとも前よりは、この領地の暮らしを。
だからこそ、ここで判断を誤りたくない。
「ルカ」
「はい」
「明日から、対外の打診を一覧にまとめるわ」
「全部ですか」
「全部。条件、量、時期、必要人手、保守負担、備蓄への影響まで」
「面倒ですね」
「ええ。でも、こういう時こそ帳簿を開くの」
レティシアはようやく一通目の封を切った。
「欲しがられているのが黒字だけなら、なおさらね」
外から見える成功と、内側で続いていく暮らし。
その両方を並べて比べなければ、次の一手は決められない。
黒字になった領地は、ようやく選べる場所まで来た。
けれど選べるからこそ、間違えれば崩れる。
机の上に積まれていく打診書の束を見つめながら、レティシアは静かに思った。
――守るための帳簿は終わった。
ならば次は、何を残すために数字を使うのか。
その答えは、まだ次の頁に書かれていなかった。




