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黒字領地の悪役令嬢は、拡大投資を慎重に進めたい  作者: gachapin2223


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第2話 うますぎる条件書

 王都から届いた条件書は、見れば見るほど行儀が良かった。


 余計な押しつけがましさはなく、こちらを持ち上げすぎることもない。いかにも穏当で、いかにも誠実そうで、いかにも断りにくい書き方をしている。


 だが、だからこそ厄介だった。


「感じの良い罠ほど始末が悪いのよね」


 執務机に向かったままレティシアが言うと、向かいで書類を仕分けていたルカが顔を上げた。


「罠とまで言い切りますか」


「罠でなければ、ただの雑な試算よ」


「どっちにしても碌でもないですね」


 朝から二人で見ているのは、王都のラングハイム商会が送ってきた共同事業案だった。


 ローゼンベルク領で生産される小麦粉、乾物、織布の一部を優先的に買い上げ、その代わりに販路拡大と輸送手配を請け負う。契約期間は三年。初年度は高値での買取を保証。設備拡張が必要なら融資の相談にも応じる。


 紙の上だけなら、まるで夢のような好条件である。


 ルカが別紙をめくった。


「高値買取が初年度のみなのは、まだわかります。餌みたいなものですし」


「ええ」


「でも輸送手配まで向こう持ちなのは、さすがに親切すぎませんか」


「親切ではないわ。主導権を握りたいだけよ」


 レティシアは条件書の末尾を指でなぞった。


「運送経路の選定権、納品時期の調整権、品質基準の最終判断。全部向こうに寄っているでしょう」


「本当だ」


「こちらは作る側に専念できます、という体裁に見えるけれど、裏を返せば、こちらは作ることを止めにくくなるということでもあるの」


 いったん契約が回り始めれば、納期に合わせて粉を挽き、布を織り、荷を揃え続けなければならない。たとえ天候が崩れようと、設備に不安が出ようと、領内で別の不足が出ようと、外向けの約束は先に置かれる。


 その構造が、レティシアには気に入らなかった。


「ルカ、去年の冬前、製粉所の軸が半日止まった時の記録を出して」


「あります」


 彼は慣れた手つきで束から一枚抜き取り、机へ広げた。


「交換部材が足りなくて、応急修理で繋いだ日ね」


「ええ。あの日、止まったのは半日だけ。でも半日止まるだけで、パン屋も倉庫も荷運びも、全部予定がずれたでしょう」


「覚えてます。オットーが機嫌最悪でした」


「最悪で済んでよかったのよ」


 レティシアは新しい条件書の横へ、古い記録を並べる。


「この契約は、止まることを前提にしていないの」


「まあ、商会側からすれば止まられると困るでしょうね」


「困るのは構わないわ。でも、止まることがある現場を、止まらない前提で買い取ろうとするのは危ういのよ」


 水車の軸は摩耗する。荷車の車輪は割れる。人は熱を出すし、畑は天候で遅れる。そうした当たり前をすべて呑み込んだ上で回るのが領地だ。そこから揺らぎだけを抜いて、きれいな利益だけ拾おうとする話は、たいてい誰かに無理を押しつける。


 扉が叩かれ、ベルタがずかずかと入ってきた。


「聞いたわよ、王都の景気のいい話」


「耳が早いのね」


「現場の話より広まるの早いわよ、ああいうのは」


 ベルタは椅子へどっかり座るなり、条件書をひったくるように手に取った。数行読んだだけで鼻を鳴らす。


「見た目はいいわね」


「見た目は、ね」


「こういうの、断ったら『せっかく持ち直したのに臆病だ』って言われるやつでしょう」


「たぶん」


 ベルタは条件書を机へ戻し、腕を組んだ。


「で、聞くけど。増やしたら本当に回るの」


 その問いに、レティシアはすぐ答えなかった。


 回るか回らないかで言えば、短い期間なら回すこと自体はできるかもしれない。人を詰め、補修を後ろへずらし、備蓄の余裕を削り、何人かが余計に走れば数字上は成立するだろう。


 だが、それで冬まで持つかとなれば、別の話だ。


「回せなくはないでしょうね」


「嫌な言い方ね」


「でも、続かないわ」


 ベルタの眉が上がる。


「やっぱりね」


「洗濯場はどう」


「増えた荷は捌けてる。でも、今は春だからよ。水汲みも楽だし、乾きも早い。夏の終わりから秋雨に入ったら、同じ調子では回せないわ」


「縫製場も同じです」


 いつの間にかイーダまで扉口に立っていた。入っていいかしら、と言いながら、すでに半分入っている。


「布の注文はありがたいです。でも、ありがたいことと、無理がないことは別です」


「あなたたち、示し合わせたの」


「してません。でも、似たような顔をしてるってことは、たぶん同じこと考えてるのよ」


 ベルタの言葉に、イーダも静かに頷いた。


 レティシアは二人の前へ、昨日まとめた現場別の増減表を差し出した。残業時間、補修回数、臨時搬入、道具の摩耗、病欠の有無。まだ致命的な数字ではない。けれど、どれも少しずつ上向いている。


「こういう増え方は嫌ね」


 イーダがぽつりと言った。


「売上だけ増えてるなら嬉しいけど、その前に針も手も傷み始めてるもの」


「そうなのよ」


 ベルタも唸る。


「まだ悲鳴じゃないのが余計に厄介だわ。皆、これくらいならってやっちゃう」


「ええ。だから今、止めないといけない」


 レティシアは条件書を重ね、紙の端を揃えた。


「本当に欲しいのは売上じゃないわ。続くことよ」


 ルカが少し考えるように目を伏せた。


「でも、それをどう言えば納得しますかね。王都の連中も、こっちの中でも」


「数字で見せるしかないでしょうね」


「感情論に見せない、と」


「ええ。『嫌だから断る』ではなく、『この条件では歪みが先に出るから受けられない』と示すの」


 そのための数字は、すでに集まり始めている。足りないのは、まだそれを一枚の形にする作業だけだった。


 昼過ぎ、クラウスも執務室へ姿を見せた。


 このところ外回りが増えていた彼は、砂埃のついた外套を脱ぎながら、机の上の紙束を見て眉をひそめる。


「また増えたのか」


「ええ。王都はずいぶん熱心です」


「良い話には見えるが」


「見えるだけなら、そうでしょうね」


 クラウスは椅子へ腰を下ろし、条件書へざっと目を通した。すぐには否定しないあたりが、彼らしかった。領主として、話を広げる選択肢そのものを嫌ってはいないのだ。


「これを受ければ、名は上がるぞ」


「でしょうね」


「収入も増える」


「短期的には」


「なら、何が引っかかる」


 レティシアは父の前へ、現場ごとの増減表と保守記録を並べた。


「こちらです」


 クラウスはしばらく無言で紙を追った。春の売上推移の横に並ぶ、補修頻度の増加。出荷回数の増加に対して、保管と運搬の手が薄いこと。備蓄最低線に触れる月の見込み。どれも派手ではないが、無視していい数字でもない。


「……なるほど」


「外から来る話は、伸びる数字しか数えていません」


「こちらは、擦り減る方を見ているわけか」


「はい」


 クラウスは長く息を吐いた。


「昔なら、この程度の違和感では押し切っていたかもしれんな」


「昔なら、違和感に気づく前に足元が崩れていたと思います」


 父は苦く笑った。


「耳が痛い」


 だが、その苦笑に不機嫌さはなかった。むしろ、認めるべきところを認める穏やかさがあった。


「では、どうするつもりだ」


「まずは先方に追加の条件確認を出します」


「どんな」


「設備停止時の責任分担、最低納品量の弾力運用、備蓄優先の例外規定、保守期間の確保。それから価格保証の継続条件」


 ルカが横で吹き出しかけた。


「嫌がらせみたいな確認ですね」


「必要な確認よ」


「向こう、たぶん嫌な顔します」


「するでしょうね」


 だが、その顔こそ見たい、とレティシアは思った。

 美しい条件というものは、都合の悪い現実を差し込んだ時ほど、本性が出る。


 夕方、返送する確認書の草案を書き終えた頃、窓の外で雨の匂いがした。まだ落ちてはいないが、空気が少し湿っている。


 季節は動く。

 天気も、作柄も、人手も、いつまでも同じではない。

 それなのに、契約書だけが未来を一定だと思い込んでいる。


 レティシアは書き上げた紙を見直し、最後の一文へ目を留めた。


 ――現場維持費および保守余力を含まない試算については、当領では採用いたしかねます。


 簡潔で、十分だ。


「これで出すわ」


 ルカが紙を受け取りながら、少し楽しそうに言った。


「返事、荒れそうですね」


「荒れるでしょうね」


「面倒ですよ」


「ええ。でも、面倒だから見ないふりをした帳簿ほど、あとで高くつくもの」


 条件書はまだ机の上にある。だがそれは、もはや魅力的な誘いには見えなかった。


 むしろ、黒字の表面に映った、次の危うさの輪郭に見えた。

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