第2話 うますぎる条件書
王都から届いた条件書は、見れば見るほど行儀が良かった。
余計な押しつけがましさはなく、こちらを持ち上げすぎることもない。いかにも穏当で、いかにも誠実そうで、いかにも断りにくい書き方をしている。
だが、だからこそ厄介だった。
「感じの良い罠ほど始末が悪いのよね」
執務机に向かったままレティシアが言うと、向かいで書類を仕分けていたルカが顔を上げた。
「罠とまで言い切りますか」
「罠でなければ、ただの雑な試算よ」
「どっちにしても碌でもないですね」
朝から二人で見ているのは、王都のラングハイム商会が送ってきた共同事業案だった。
ローゼンベルク領で生産される小麦粉、乾物、織布の一部を優先的に買い上げ、その代わりに販路拡大と輸送手配を請け負う。契約期間は三年。初年度は高値での買取を保証。設備拡張が必要なら融資の相談にも応じる。
紙の上だけなら、まるで夢のような好条件である。
ルカが別紙をめくった。
「高値買取が初年度のみなのは、まだわかります。餌みたいなものですし」
「ええ」
「でも輸送手配まで向こう持ちなのは、さすがに親切すぎませんか」
「親切ではないわ。主導権を握りたいだけよ」
レティシアは条件書の末尾を指でなぞった。
「運送経路の選定権、納品時期の調整権、品質基準の最終判断。全部向こうに寄っているでしょう」
「本当だ」
「こちらは作る側に専念できます、という体裁に見えるけれど、裏を返せば、こちらは作ることを止めにくくなるということでもあるの」
いったん契約が回り始めれば、納期に合わせて粉を挽き、布を織り、荷を揃え続けなければならない。たとえ天候が崩れようと、設備に不安が出ようと、領内で別の不足が出ようと、外向けの約束は先に置かれる。
その構造が、レティシアには気に入らなかった。
「ルカ、去年の冬前、製粉所の軸が半日止まった時の記録を出して」
「あります」
彼は慣れた手つきで束から一枚抜き取り、机へ広げた。
「交換部材が足りなくて、応急修理で繋いだ日ね」
「ええ。あの日、止まったのは半日だけ。でも半日止まるだけで、パン屋も倉庫も荷運びも、全部予定がずれたでしょう」
「覚えてます。オットーが機嫌最悪でした」
「最悪で済んでよかったのよ」
レティシアは新しい条件書の横へ、古い記録を並べる。
「この契約は、止まることを前提にしていないの」
「まあ、商会側からすれば止まられると困るでしょうね」
「困るのは構わないわ。でも、止まることがある現場を、止まらない前提で買い取ろうとするのは危ういのよ」
水車の軸は摩耗する。荷車の車輪は割れる。人は熱を出すし、畑は天候で遅れる。そうした当たり前をすべて呑み込んだ上で回るのが領地だ。そこから揺らぎだけを抜いて、きれいな利益だけ拾おうとする話は、たいてい誰かに無理を押しつける。
扉が叩かれ、ベルタがずかずかと入ってきた。
「聞いたわよ、王都の景気のいい話」
「耳が早いのね」
「現場の話より広まるの早いわよ、ああいうのは」
ベルタは椅子へどっかり座るなり、条件書をひったくるように手に取った。数行読んだだけで鼻を鳴らす。
「見た目はいいわね」
「見た目は、ね」
「こういうの、断ったら『せっかく持ち直したのに臆病だ』って言われるやつでしょう」
「たぶん」
ベルタは条件書を机へ戻し、腕を組んだ。
「で、聞くけど。増やしたら本当に回るの」
その問いに、レティシアはすぐ答えなかった。
回るか回らないかで言えば、短い期間なら回すこと自体はできるかもしれない。人を詰め、補修を後ろへずらし、備蓄の余裕を削り、何人かが余計に走れば数字上は成立するだろう。
だが、それで冬まで持つかとなれば、別の話だ。
「回せなくはないでしょうね」
「嫌な言い方ね」
「でも、続かないわ」
ベルタの眉が上がる。
「やっぱりね」
「洗濯場はどう」
「増えた荷は捌けてる。でも、今は春だからよ。水汲みも楽だし、乾きも早い。夏の終わりから秋雨に入ったら、同じ調子では回せないわ」
「縫製場も同じです」
いつの間にかイーダまで扉口に立っていた。入っていいかしら、と言いながら、すでに半分入っている。
「布の注文はありがたいです。でも、ありがたいことと、無理がないことは別です」
「あなたたち、示し合わせたの」
「してません。でも、似たような顔をしてるってことは、たぶん同じこと考えてるのよ」
ベルタの言葉に、イーダも静かに頷いた。
レティシアは二人の前へ、昨日まとめた現場別の増減表を差し出した。残業時間、補修回数、臨時搬入、道具の摩耗、病欠の有無。まだ致命的な数字ではない。けれど、どれも少しずつ上向いている。
「こういう増え方は嫌ね」
イーダがぽつりと言った。
「売上だけ増えてるなら嬉しいけど、その前に針も手も傷み始めてるもの」
「そうなのよ」
ベルタも唸る。
「まだ悲鳴じゃないのが余計に厄介だわ。皆、これくらいならってやっちゃう」
「ええ。だから今、止めないといけない」
レティシアは条件書を重ね、紙の端を揃えた。
「本当に欲しいのは売上じゃないわ。続くことよ」
ルカが少し考えるように目を伏せた。
「でも、それをどう言えば納得しますかね。王都の連中も、こっちの中でも」
「数字で見せるしかないでしょうね」
「感情論に見せない、と」
「ええ。『嫌だから断る』ではなく、『この条件では歪みが先に出るから受けられない』と示すの」
そのための数字は、すでに集まり始めている。足りないのは、まだそれを一枚の形にする作業だけだった。
昼過ぎ、クラウスも執務室へ姿を見せた。
このところ外回りが増えていた彼は、砂埃のついた外套を脱ぎながら、机の上の紙束を見て眉をひそめる。
「また増えたのか」
「ええ。王都はずいぶん熱心です」
「良い話には見えるが」
「見えるだけなら、そうでしょうね」
クラウスは椅子へ腰を下ろし、条件書へざっと目を通した。すぐには否定しないあたりが、彼らしかった。領主として、話を広げる選択肢そのものを嫌ってはいないのだ。
「これを受ければ、名は上がるぞ」
「でしょうね」
「収入も増える」
「短期的には」
「なら、何が引っかかる」
レティシアは父の前へ、現場ごとの増減表と保守記録を並べた。
「こちらです」
クラウスはしばらく無言で紙を追った。春の売上推移の横に並ぶ、補修頻度の増加。出荷回数の増加に対して、保管と運搬の手が薄いこと。備蓄最低線に触れる月の見込み。どれも派手ではないが、無視していい数字でもない。
「……なるほど」
「外から来る話は、伸びる数字しか数えていません」
「こちらは、擦り減る方を見ているわけか」
「はい」
クラウスは長く息を吐いた。
「昔なら、この程度の違和感では押し切っていたかもしれんな」
「昔なら、違和感に気づく前に足元が崩れていたと思います」
父は苦く笑った。
「耳が痛い」
だが、その苦笑に不機嫌さはなかった。むしろ、認めるべきところを認める穏やかさがあった。
「では、どうするつもりだ」
「まずは先方に追加の条件確認を出します」
「どんな」
「設備停止時の責任分担、最低納品量の弾力運用、備蓄優先の例外規定、保守期間の確保。それから価格保証の継続条件」
ルカが横で吹き出しかけた。
「嫌がらせみたいな確認ですね」
「必要な確認よ」
「向こう、たぶん嫌な顔します」
「するでしょうね」
だが、その顔こそ見たい、とレティシアは思った。
美しい条件というものは、都合の悪い現実を差し込んだ時ほど、本性が出る。
夕方、返送する確認書の草案を書き終えた頃、窓の外で雨の匂いがした。まだ落ちてはいないが、空気が少し湿っている。
季節は動く。
天気も、作柄も、人手も、いつまでも同じではない。
それなのに、契約書だけが未来を一定だと思い込んでいる。
レティシアは書き上げた紙を見直し、最後の一文へ目を留めた。
――現場維持費および保守余力を含まない試算については、当領では採用いたしかねます。
簡潔で、十分だ。
「これで出すわ」
ルカが紙を受け取りながら、少し楽しそうに言った。
「返事、荒れそうですね」
「荒れるでしょうね」
「面倒ですよ」
「ええ。でも、面倒だから見ないふりをした帳簿ほど、あとで高くつくもの」
条件書はまだ机の上にある。だがそれは、もはや魅力的な誘いには見えなかった。
むしろ、黒字の表面に映った、次の危うさの輪郭に見えた。




