第1話 黒字の春、その次の帳簿
朝のうちに届いた三通の書簡は、どれもよく似た匂いがした。
上質な紙、無駄に整った文面、やけに多い賛辞。そして最後には必ず、今後の発展的な関係について前向きにご相談したい、という一文が添えられている。
言い換えれば、儲かっているならこちらにも噛ませろ、である。
レティシアは最後の一通を机の上へ置き、細く息を吐いた。
「お嬢様、眉間の皺が深うございます」
脇で茶を注いでいたマルガレーテが、涼しい声で言った。
「喜ぶべき知らせなのでしょう?」
「王都の皆様にとっては、そうなのでしょうね」
ローゼンベルク領の名で届く書簡は、このところ露骨に増えていた。
春市での売上が例年を上回ったこと。製粉所の稼働が安定していること。冬の備蓄を取り崩しすぎずに越冬できたこと。領内の賃金支払いが滞っていないこと。
以前なら誰にも気に留められなかった程度の小さな改善が、いくつも積み重なった結果、ようやくこの領地は「崩れかけた赤字領」ではなく「持ち直した領地」として見られ始めていた。
それ自体は悪いことではない。
だが、外から注がれる視線は、たいてい都合のいい部分しか見ない。
扉が軽く叩かれ、返事を待つより先にルカが入ってきた。
「急ぎです」
「その言い方で急ぎでなかったことがあるかしら」
「今回は本当に急ぎです」
そう言いながら差し出されたのは、出荷予定と在庫控えをまとめた紙束だった。ルカの手元で急ごしらえされたらしく、罫線は少し歪んでいるが、必要な数字は一目で拾える。
レティシアは一枚目へ目を落とし、二枚目で指を止めた。
「春市ぶんの補充分、思ったより早く戻っているのね」
「ええ。パン屋と乾物商の動きが良いです。粉も布も、去年より回転が速い」
「悪い話ではないわ」
「だから皆、浮かれてます」
ルカの言い方に、レティシアは紙から目を上げた。
「あなたは浮かれていないの」
「おれは数字が増えた時ほど、どこか別の数字が減ってないか見る癖がついたので」
「良い癖ね」
それは間違いなく、この数年で領地に根づき始めた変化の一つだった。
以前は、目先の不足を埋めるだけで精一杯だった。足りない粉、足りない薪、足りない賃金。何かが足りなくなるたびに、その場しのぎの手当をして、また別の何かが欠ける。
だが今は違う。
増えた売上の陰で、どこに負担が寄っているか。
余ったように見える金のうち、どこまでが本当に使っていい分なのか。
数字がよく見える時ほど、見えなくなるものは何か。
そういう問いを持てるようになったこと自体が、以前との違いだった。
レティシアは王都からの書簡を一通、ルカの方へ差し出した。
「読みなさい」
ルカはざっと目を通し、あからさまに顔をしかめた。
「高値買取、販路保証、輸送手配、販促まで先方持ち……うさんくさいですね」
「ええ。美しすぎるわ」
「でも、こういうの好きな人はいますよ。ぱっと見で得ですし」
「ぱっと見だけならね」
レティシアは自分の机の脇に積んであった保守記録へ手を伸ばした。製粉所の軸受け交換予定、荷車の車輪補修、倉庫の屋根点検、窯の煉瓦のひび。どれも利益の見込みには現れにくいが、止まれば即座に困るものばかりだ。
「この手の話は、増やす数字ばかりよく見せるの。売上、出荷量、取引先、名声」
「減る方は書かない、と」
「ええ。減るものほど、後からしか見えないから」
人手。保守の余白。備蓄。休み。判断の遅れ。小さな故障を先送りする回数。
そういうものは帳簿に一行で現れない。だが、一度崩れると後で必ず大きく響く。
マルガレーテが新しい茶を置きながら、静かに言った。
「先日、ベルタがぼやいておりました。皆が景気の良い話をするようになってから、余計に断りにくい頼まれごとが増えた、と」
「もうそんな話が出ているの」
「はい。『今ならできるでしょう』『今は余裕があるのでしょう』という顔で」
レティシアは小さく目を細めた。
余裕がある。便利な言葉だと思う。
余裕があるように見える相手に、人は簡単に仕事を足す。
だが本当に大事なのは、余裕を使い切ることではなく、余裕を残すことのはずだった。
「ルカ、各現場の責任者を午後に集めなさい」
「全員ですか」
「ええ。パン屋、製粉所、倉庫、縫製場、農地管理、できれば薪の搬入も。春の数字を一度、売上ではなく負担の側から見直すわ」
「わかりました」
ルカは頷いたが、すぐには下がらなかった。
「……でも、おれが見たところ、みんな機嫌は良いです」
「そうでしょうね」
「給金も止まってないし、冬みたいな張り詰め方もない。だから、たぶん止めにくいです。こういう上向きの時って」
その言葉に、レティシアはわずかに黙った。
止めにくい。
確かにそうだろう。苦しい時に慎重になるのは誰でもできる。だが、うまく回り始めた時に、なお手綱を引けるかどうかは別だ。
しかも今は、王都からも近隣からも「成功」の匂いを嗅ぎつけられている。広げればもっと豊かになれると、誰もが簡単に言うだろう。
だが、広げることと、続くことは同じではない。
「だからこそ、今のうちに見るのよ」
レティシアは書簡を揃え、机の端へ寄せた。
「崩れかけてからでは遅いもの」
昼前、会議室に集まった面々は、最初こそ少し緊張していたものの、並べられた菓子と茶を前にして、次第にいつもの調子を取り戻した。オットーは不機嫌そうに椅子へ深く座り、ベルタは早々に紙を覗き込み、イーダは針仕事の手を止めないまま参加している。ハンスは新しく作った記録表を嬉しそうに抱えていた。
「今日は良い知らせではないのですか」
ハンスが控えめに問う。
「良い知らせかどうかは、これから決めるわ」
レティシアはそう言って、春市以降の数字を順に並べた。売上、出荷量、在庫回転、賃金支払い、備蓄残数。どれも悪くない。むしろ、領地のこれまでを思えば順調と言っていい。
だからこそ、皆の表情にも薄い安堵があった。
だが、そこへ保守記録と残業時間、補修回数の増加、臨時運搬の回数を書き加えた瞬間、空気が少し変わった。
「……あら」
最初に声を漏らしたのはイーダだった。
「布の回りはいいのに、補修針の減りが早いわね」
「倉庫の出入りも増えてるな」
オットーがぶっきらぼうに紙を見る。
「荷車の軸も前より傷む。道が悪いまま回数だけ増やしてるせいだ」
ベルタは腕を組んだ。
「洗濯場もよ。人が増えた分じゃなくて、出入りが増えた分だけ余計に回ってる。これ、夏に入ったら水汲みの手が足りなくなるわ」
レティシアは頷いた。
「そう。帳簿の表側だけ見れば、いま領地は順調よ。けれど裏側では、すでに何人かが余分に走っている」
「なら人を増やせばいいんじゃないですか」
ハンスの問いは素直だった。
「増やすだけで済むなら楽なのだけれどね」
レティシアは王都からの書簡の一通を机へ広げた。
「問題は、外から来る話ほど、そこを数えていないことよ」
一同の視線が集まる。
「王都は、うちの何を見てるんです」
ルカが問う。
「黒字、でしょうね」
「中身じゃなくて」
「ええ。黒字という結果だけ」
部屋が静かになった。
黒字。それはたしかに欲しかった結果だ。皆で手を伸ばし、ようやく掴んだものでもある。だが、それを掴んだ経緯まで見ようとする者は、外にはほとんどいない。
何を守って、何を削らず、どこで踏みとどまってここまで来たのか。
それを見ないまま「もっとできる」と言う者に、領地の次を決めさせるわけにはいかなかった。
会議が終わる頃には、窓の外の日差しが少し傾いていた。
皆がそれぞれ紙を抱えて持ち場へ戻る中、ルカだけが残った。
「で、どうします」
「まずは返事を保留にするわ」
「揉めますよ」
「でしょうね」
「王都相手に?」
「だからこそ、先にこちらの数字を揃えるの。感覚で断れば、ただの臆病者に見えるもの」
レティシアは立ち上がり、会議で書き込まれたばかりの紙を見下ろした。
売上は伸びている。
だが同時に、誰かの手間も少しずつ伸びている。
その歪みはまだ小さい。小さいうちなら整えられる。
けれど放っておけば、いずれ取り返しのつかない綻びになるだろう。
その日の夕刻、最後に届いた使いの者が置いていった封書には、王都の名ある商会の印が押されていた。
中には次回会談の日取り候補と、簡単な利益試算書が入っている。
レティシアは一目見て、その一行で指を止めた。
「……やっぱり」
「何がです」
ルカが覗き込む。
レティシアは紙の中央を軽く叩いた。
「この利益率、誰の犠牲も計上していないわ」
それは、黒字の次に現れた、新しい帳簿の綻びだった。
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