プロローグ 黒字の春、その次の帳簿
続編となる本作では、黒字になったあとのレティシアと領地の新たな課題を描いていきます。
前作では、婚約破棄された悪役令嬢レティシアが、赤字領地の再建と不正の一掃に挑みました。
未読の方は、こちらから読んでいただけるとうれしいです。
前作URL https://ncode.syosetu.com/n3503ms/
本作もお楽しみください。
春の終わり、ローゼンベルク領の朝は、粉の匂いで始まるようになっていた。
製粉所の水車がまわる音は、もう誰かを驚かせるものではない。冬の終わりに無理やり繋ぎ直した軸も、いまは朝ごとの水を受け、きしみを残しながらも規則正しく動いている。その音を聞けば、今日も粉が挽けるとわかる。粉が挽ければ、パンが焼ける。パンが焼ければ、人は働ける。
以前なら、そんな当たり前がどこか脆かった。
いまも万全ではない。けれど少なくとも、当たり前を当たり前として数えられるくらいには、この領地は立ち直りつつあった。
町外れのパン屋では、開店前からエルザが木札を並べ、オットーがぶっきらぼうに窯の火を見ている。洗濯場ではベルタが燃料の残数を怒鳴りながら数え、縫製場ではイーダが補修布の束を村ごとに分けていた。誰も彼も忙しい。だが、その忙しさは前のような追い詰められたものではない。
回っている忙しさだった。
執務室の窓を開け放ちながら、レティシアはそんな朝の音を聞いていた。
机の上には新年度の帳簿、春市の売上控え、備蓄の再計算表、そしてまだ乾ききっていない新しい保守記録の束。どれも、冬を越すためだけの紙ではない。次の季節をどう使うかを考えるための紙だ。
黒字。
その言葉は、帳簿の上で見るよりも、こうして朝の音に囲まれている方が実感できるのかもしれない、とレティシアは思った。
人が減っていない。窯が止まっていない。薪の搬入が途切れていない。給金袋の底だけを見て怯えなくて済む朝がある。
それが、今のローゼンベルク領の黒字だった。
「お嬢様」
扉の外からマルガレーテの声がした。
「入りなさい」
侍女頭はいつもの整った足取りで入室すると、銀盆の上の茶器を机脇へ置き、そのままもう一通の封書を差し出した。
「王都より、でございます」
厚手の上質な紙。赤い封蝋。商会でも役所でもない、貴族階級の正式な書簡に使われる体裁だ。
レティシアは受け取った瞬間、わずかに眉をひそめた。
「また?」
「今朝だけで三通目です」
「ずいぶんとお暇なのね、王都は」
「少なくとも、こちらの黒字にはお暇を見つけられるようでございます」
礼儀正しい声音のまま、辛辣だった。
封を切る。
内容は予想の範囲にあった。ローゼンベルク領の再建手腕への賛辞。今後の発展可能性への期待。新規販路の共同開拓についての打診。柔らかい言葉で包まれてはいるが、要するに「うまくいっているのなら、もっと売れるでしょう」という話である。
しかも一件ではない。
このところ似たような書簡が増えていた。王都の商会、近隣領の仲介役、貴族家の名前を借りた投資話。表現は違えど、どれも言いたいことは同じだ。
もっと作れ。もっと出せ。もっと広げろ。
レティシアは手紙を読み終えると、机の端へ静かに置いた。
「こちらも、ですか」
マルガレーテが問う。
「ええ。高値買取、販路保証、輸送補助つき」
「まあ、結構なお話で」
「ええ。結構すぎるくらいに」
レティシアはもう一度、紙へ目を落とす。
美しい文面だった。数字も整っている。予測利益率も悪くない。むしろ、良すぎる。
良すぎるのだ。
その時、扉も叩かずにルカが入ってきた。
「おれが来る前に嫌な顔してますね」
「あなたはどうして毎回、入室の作法を学ばないの」
「急ぎなんで」
そう言って彼が差し出したのは、倉庫から上がってきた出荷予定表だった。
「王都向けの仮打診、まとめてみました。まだ返事はしてません」
レティシアはそれを受け取り、さきほどの書簡の条件と見比べる。
高値。大量。継続。外向けの供給比率増。
数字の並びだけなら魅力的だ。だが数行追っただけで、胸の奥に小さな引っかかりが落ちた。
人手の補充計画がない。
製粉所の保守余白も薄い。
冬備蓄の最低水準に触れかねない時期がある。
それなのに、利益見込みだけがやけに滑らかだった。
「……変ね」
小さく呟くと、ルカが机越しに身を乗り出した。
「どこがです」
「この試算、きれいすぎるわ」
「きれい?」
「ええ。まるで、疲れる人間が一人もいないみたいに」
執務室の窓の外では、春の風が洗濯布を揺らしていた。遠くでパン屋の開店を告げる声がする。回り始めた領地の音。ようやく取り戻した、暮らしの音。
そのすべてを聞きながら、レティシアは手紙と予定表を重ねる。
黒字は、確かに嬉しい。
けれど黒字は、終わりではない。むしろここから先、何を増やし、何を増やしすぎないかを選ぶための始まりだ。
「ルカ」
「はい」
「この利益率――」
レティシアは紙の一行を指で押さえた。
「誰の犠牲も、計上していないわ」
その違和感こそが、次の帳簿の綻びだった。




