第99話 帰れ
ラセルが見えたのは、39日目の夕方だった。
坂を1つ越えると、下が全部、水だった。
リィナが、馬を止めた。何も言わずにそれを見ていた。俺の横で、鞍の上から動かなかった。
「海だ」
「……はい。見たことが、ありません」
リィナは、そこで初めて瞬きをした。風が坂を吹き上げてきて、彼女の前髪を後ろへ倒した。彼女は目を細めなかった。
「向こう側が、ありません」
ミルカが、後ろから馬を並べた。
「あります」
「ミルカさん」
「向こう側はあります。ただ、地面が丸いので、見えないだけです。船の帆が、先に見えて、船体が後から見えます。地面が平らなら、同時に見えます」
「……丸いのですか?」
「丸いです」
リィナは、水平線を端から端まで目で追ってから、こう言った。
「わたしは、丸くない方が好きです」
町は、坂に沿って建っていた。
石造りの家が、段々に並んでいる。屋根が、どれも同じ赤茶けた色だ。港に船が7隻。うち3隻は、帆に聖国の印が入っていた。
風が、ずっと吹いている。潮の匂いが強く、そこに干した魚と、松脂と、人の匂いが混ざった。王都とは、匂いの層が違う。舌の奥に、薄く塩の味が残った。
「巡礼の中継地ですわ」
フィーネが言った。
「船で聖国から来て、ここから陸を歩きますの。人の出入りが多い町は、隠れるには向いております」
◆
宿を取った。
港から3本上の通りの、古い宿だ。部屋は1つ。俺とリィナとミルカとフィーネで使い、シャルは屋根で寝ると言って譲らなかった。窓を開けると、下の通りを荷車が通る音が、一晩中止まなかった。
その晩、フィーネが宿の主人に訊いた。
「代書屋は、どちらにございますの」
「代書屋は3軒ある。港の脇と、教会の裏と、坂の上だ」
「手紙を、遠くへ出すのでしたら?」
「なら港の脇だな。あそこは船に乗せる」
フィーネは礼を言って、卓の端に銅貨を1枚置き、俺の方を見て声を落とした。
「……3軒とも、回りますわ」
◆
翌朝、港の脇の代書屋へ行った。
小屋だ。戸を開けると、机が1つと、老人が1人いた。耳が遠い。紙の束が天井まで積んであって、黴と墨の匂いがした。
「冬至の前後に、内陸へ出す手紙を書きませんか」
フィーネが、大きな声で訊いた。
「書くさ。この町は、冬至が忙しい」
「なぜですの」
「聖国の暦だ。冬至の前に出せば、年内に着く。だから、みんな冬至に出す」
老人はそう言って、机の上の紙束を手の甲で叩いた。
「この町で冬至に手紙を出すのは、40人や50人じゃきかんよ」
「では、ご自分で書いて出す方は、いかがですの?」
「少ないな。代書屋があるからだ」
老人は、机の縁を指で撫でた。
「自分で書く者は、代書屋に顔を見せたくない者だ。この町でそういうことをするのは、2種類おる。役人に追われとる者と、女房に隠しとる者だ」
教会の裏の代書屋は、若い男だった。こちらは耳がいい。いいので、答えが早く、中身が無かった。
坂の上の代書屋は、店を閉めていた。戸に板が打ってある。板の釘は錆びていて、打ってから1年は経っていた。隣の家の女が、こちらを見て言った。
「そこの婆さんなら、去年の秋に死んだよ。閉めたのはその日からさ。誰も継がなかった」
「去年の秋、ですのね」
フィーネは、そこで俺を見た。今年の手紙は、去年の秋より後に出ている。坂の上の店で書かせたのではない。
◆
その日の午後、町を歩いて、3人見つけた。黒い長衣は着ていない。だが、歩き方が同じだ。曲がり角で必ず一度止まり、通りの両端を見てから曲がる。街道で捕らえた男と、同じ癖だった。
「わたしも3人数えました。ただ、1人は、他の2人と違います」
シャルは、俺の斜め後ろから離れずに歩いていた。
「どう違う?」
「他の2人を、見ています」
◆
港の市で、リィナが足を止めた。
魚の並んだ台の前だ。見たことのない魚が並んでいる。平たくて、目が両方とも同じ側についているやつだ。台の氷が溶けて、足元の石を濡らしていた。
「ゼノ様。これは、生き物ですか?」
「生き物だ。そういう魚だ」
「目が、片側にあります」
リィナは台の上に身を乗り出して、その魚の縁を指の背でつついた。つついてから、店の女に訊いた。
「これは、どうやって食べますか」
女は、リィナの顔を見て少し笑った。
「あんた、内陸の子だね。焼くか、煮るかだ。塩を振って焼くのがいい。ただし、振りすぎるな。この魚は、身に塩気がある」
「……少しずつ、ですか」
「そうさ。少しずつ、何度もだ」
リィナはその魚を2枚買って、俺の方を振り返った。そのときの顔が、大学の裏で木剣を振っていたころの顔に、少し戻っていた。
◆
宿に戻ると、卓の上に紙が1枚置いてあった。部屋には鍵をかけていた。窓は3階で、下は石畳だ。宿の主人は、部屋には入っていないと言った。
紙には、1行だけ書いてあった。
『帰れ』
ヨナスの持っていた12枚と、同じ字だった。丸い字だが、線の終わりが跳ねている。書き慣れた手が、わざと崩している字だ。
ミルカが、それを灯りに当てた。
「同じ人です。今年の手紙と、同じ手です」
「12年で、字が悪くなったって話だったな」
「悪くなったのではありません。この人は、右手で書いていません」
ミルカは、紙を横向きにして、灯りの高さまで持ち上げた。
「左手です。12年前から、少しずつ左手に慣れています。今年の手紙は、ほとんど左手だけで書かれています」
「右手が使えねえのか?」
「使えないのではないと思います。使うと、癖が出るからです」
ミルカは紙を卓に戻して、指の腹で皺を伸ばした。
「字の癖は、術の癖と同じところに出ます。写しを取る人は、それを知っています。……この人は、自分の右手を隠しています」
フィーネが、窓を見た。
「3階の窓から入って、紙を置いて、出ていったということですわね。……昼のうちに」
シャルが、部屋の隅から言った。
「昼は、ゼノ様のお側におりました。……気づきませんでした」
その声が、いつもより小さかった。
シャルが、勢いよく膝をついた。床が鳴った。
「ゼノ様。昨晩は、屋根を朝まで見ておりました。誰も通っておりません。……通っていないのに、紙があります」
「屋根を通らなかっただけだ。窓からでもねえ」
俺は、卓の上の紙を指で押さえて、その下の板を撫でた。
紙の下に、跡があった。卓の木目の上に、うっすらと丸い跡がついている。直径は1尺ほど。指でなぞると、他の場所より、わずかに冷たい。石の谷の壁が閉じたあとの跡と、同じだった。
「……渡ってきやがった」
ミルカがその跡を覗き込んで、指で触って、それから顔を上げた。
「ゼノ。この跡は、外から中へ開いています。円は、開いた側の縁が濃くなります。これは、卓の側が薄いです」
「分かるのか?」
「分かります」
彼女は、指を丸い跡の縁に沿わせた。指は、途中で一度止まった。
「それから、これは1尺です。人は通れません。……手だけ入れたのだと思います」
1尺の穴を開けて、手だけを差し入れて、紙を1枚置いて、閉じた。
俺が壁の円で開いた穴は、20を数える間しか保たなかった。器が空になった。この女は、それを、どこか別の場所から、たぶん1人で、誰にも見られずにやっている。
——動かし方を、持っている。
「ゼノ」
ミルカが、俺を見た。
「この人は、《《こちらを見ています》》。見えていなければ、卓の上に置けません。窓の外でも、床でもなく、卓の真ん中です」
彼女が灯りを少し上げると、丸い跡の縁だけが、輪になって浮いた。
「わたしたちがこの部屋にいることを知って、置いています」
フィーネが、紙を裏返した。裏にも何か書いてあった。さっきは気づかなかった。薄い、鉛の線だ。
『ヴェインの娘を探すな。生きているのは1人ではない』
◆
その夜、俺は窓の外を見ていた。港の灯りが、水の上で揺れている。船が7隻。うち3隻に、聖国の印。
『帰れ』と書いて、その裏に『生きているのは1人ではない』と書き足す。書かなくていいことを、また書いている。
俺は、卓の丸い跡にもう一度手を当てた。冷たい。まだ冷たい。
——近くにいる。




