第98話 148回目
西へ向かって、11日目だった。海沿いの道は使わなかった。マルクの言った通りにした。内陸の街道は、荷馬車が多くて、宿が少ない。3日に1度は野宿になる。
野宿の晩、俺は闇と光を並べて組んでいた。右に闇、左に光。それを同時に、同じ速さで回す。
石の谷で壁に流したときのやり方だ。あれを、壁の助けなしにやろうとすると、途中で片方が遅れて、両方が消える。
「まだ、できませんの?」
「まだだ」
フィーネは、焚火の向こうで帳面を開いていた。俺の手を見ながら、何か書いている。
「何を書いてる?」
「あなたが失敗した回数ですわ。今日で、147回です」
「数えなくていい」
「数えますの。増え方が、日ごとに変わっておりますから」
彼女は、羽根ペンの尻で頬を押した。
「6日前は、20回に1度は続きました。今日は、9回に1度は続いておりますわ。……6日で、倍を越えております」
リィナが、鍋の前から言った。
「ゼノ様。明日も続けるのでしたら、今夜は食べてください」
「食ってる」
「昨日は、3口です」
「……そうか」
「わたし、数えました」
「あんたまで数えるのか」
リィナは、答えずに椀を差し出した。その手つきが、ポーラに似てきていた。
ミルカは、写しの束を膝に乗せていた。411枚だ。谷を出てから、毎晩それを並べ替えている。その基準を、俺は3度訊いて、3度とも分からなかった。
「ミルカ。何の順に並べてる」
「線の起こし方です」
「それは前も聞いた」
「今は、起こし方が変わった場所の順です」
彼女は、1枚を抜いて、火の方へ向けた。
「これは、途中で彫り手が替わっています。円の3分の2で、癖が変わります。……彫っている途中で、人が死んだのだと思います」
◆
13日目の昼、街道の脇に人が集まっていた。20人ほどだ。荷馬車が2台止まって、その間に人だかりができている。
シャルが、先に見てきた。
「女が1人、死んでいます。年は30ほど。首に縄の跡があります」
「吊られたのか?」
「吊られてから、下ろされています。下ろしてから、両手の指を全部折られています」
「順番が逆だな」
「はい。死んだ後に、指を折っています」
人だかりを割って入った。女は、街道の脇の草の上に寝かされていた。行商の女らしい。荷を解いた跡がある。中身は、糸と針と、布の端切れだ。
指が、10本とも折れていた。1本ずつ、同じ方向へ、丁寧に折ってある。爪は、1枚も剥がれていない。
「誰が見つけた?」
答えたのは、荷馬車の御者だった。
「わしだ。朝、通りかかったら、もう吊られとった。そこの木に」
俺は、その木を見た。枝に縄の跡が2つある。1つは新しい。もう1つは、雨に晒されて黒くなっていた。
「前にも、あったのか」
「……去年、1人」
御者は、声を落とした。
「この道では、たまにある。旅の者が吊られる。指を折られとる。役人は来ん」
「なんで来ない」
「来ても、書くだけだ。書いて、帰る」
フィーネが、女の荷を見て、こう言った。
「ゼノ。この方、術は使えませんわ」
「なんで分かる?」
「指ですの。糸を扱う指は、胼胝の場所が決まっております。この方の胼胝は、人差し指の横と、親指の腹。針と糸だけの手です」
彼女は、女の手に、自分の手をそっと合わせた。
「陣を描く者の指は、こうなりませんわ」
「じゃあ、なんで折られた」
「折った者が、確かめたかったのでしょう」
フィーネは、立ち上がった。
「指を折って、術が出るかどうかを見ましたのね。出なければ、違う人。……その確かめ方をする者は、間違えることを、怖がっておりませんわ」
その晩、シャルが1人を捕らえた。同じ街道の3里先で、木の上に伏せていた男だ。黒い長衣を着ている。長衣の内側に、細い鎖を巻いていた。鎖の先に、鉛の錘がついている。
縛って、火の前に転がした。
40ほどの男だ。痩せている。目だけが、やたらと動いていた。
「あんた、あの女を吊ったな」
「吊った」
即答だった。
「なんで吊った」
「渡りの跡が、あの辺りで切れておったからだ」
男は、縛られたまま、しゃべり続けた。訊いていないことまで言った。
「跡は、3日で消える。消える前に、その辺りを通った者を全部調べる。調べるには、指を折るのが早い。術者は、指を折られると、勝手に組む。組めば——」
「あの女は、組まなかっただろうが」
「組まなかった。だから、違ったのだ」
「違ったら、生き返るのか」
男は、そこで初めて黙った。
「……わしは、名簿に従っておる」
彼は、そう言い直した。
「名簿に載っておる者を探す。載っておらん者は、探さん。だが、跡を残す者は、名簿の外にもおる。外におる者は、見つけ次第、消す。それが決まりだ」
「決まりを誰が作った」
「知らん」
「名簿は誰がくれる」
「宿に置いてある」
俺は、その長衣を探らせた。シャルが、内側から油紙の包みを出した。
包みの中に、紙が3枚あった。1枚目は、人の名の並びだ。11の名。
ミルカがそれを覗き込んで、動きを止めた。
「……これは、石の谷の板です」
「板は盗られたな」
「はい。17日前です。これは、その写しです。写した人は、石から直接写しています。拓本ではありません。手で写しています」
彼女は、紙を火に近づけた。
「17日で、写されて、配られています」
俺は、その紙を受け取った。11の名。全部、18年前の冬至に死んでいる。死んだ者の名簿が、なぜ今、狩りの手に配られるのか。
理由は1つしかない。
「——死んだ奴を探してるんじゃねえ。こいつらの弟子か、家族を探してる」
男が、火の向こうで笑った。
「その通りだ」
「名簿の下の方に、何人残ってる」
「1人だ」
男は、縛られたまま、顎で紙を示した。
「11人のうち、10人は、血筋も弟子も消した。残っておるのは1つだけだ。そこの、4番目の名の——」
そこで、男の言葉が切れた。口の中で、何かが割れる音がした。奥歯に仕込んでいたものだ。
俺は、男の顎を掴んで開かせた。
遅かった。喉の奥が、内側から黒くなっていた。刻印ではない。毒だ。魔界のものでも、聖国のものでもない。ただの、上等な毒だった。
男は、20を数える間に死んだ。目だけが動いて、最後に俺を見た。口の形だけで、何か言った。
声にはならなかった。
シャルが、その口の動きを読んだ。
「……『しか』、と言いました。それだけです」
火が爆ぜた。ミルカが、紙の4番目の名を灯りに当てていた。
「4番目は、『ノーラ・ヴェイン』です。女の名です」
「知ってる名か?」
「いいえ。ですが、この名の下に、彫り足された跡があります」
彼女は、紙の上をなぞった。写しに、余白の潰れた箇所がある。
「写した人は、そこに何かがあったのを、写していません。写さなかったのか、読めなかったのか——」
フィーネが帳面を開いて、新しい頁の一番上にこう書いた。
『ノーラ・ヴェイン/娘か、弟子が1人、生きている』
書いてから、顔を上げた。
「ゼノ。ラセルまで、あと26日ですわ」
「26日で、向こうが先に着いたら」
「着いておりましょうね」
彼女は、ペンを置いた。
「……17日で、写しが西まで来ておりますもの」
俺は火の前に座り直して、両手を上げた。
右に闇。左に光。
148回目だ。
——回った。
2つが、同じ速さで回ったまま、消えなかった。息を10吐いても、20吐いても消えない。掌の内側が、痺れるほど熱かった。
リィナが、椀を持ったまま立ち上がった。ミルカが、写しを膝から落とした。フィーネは、帳面を開き直して、こう書いた。
『148回目。続いた』
その2つを見ているうちに、1つ分かったことがある。
石の谷の壁は、もう要らない。
壁が教えていたのは、《《どこに流すか》》であって、《《流し方》》ではない。流し方は、俺の身体の方にあった。
——あと、動かし方だけだ。
それを持っているのが、西へ26日の先にいる。
『迎えに来るな』と書いた女だ。




