第97話 迎えに来るな
谷の葬りは、円を彫ることだった。死んだ者の数だけ、壁に新しい円を彫る。彫るのは家族だ。彫り終わるまで、遺体は穴の中に置かれる。早い者で半日、遅い者で3日かかる。
8人分だ。ヤンは、祖母の円を、1日半かけて彫った。鑿の音が、明け方まで割れ目に響いていた。
生まれて初めて彫る円だった。線が歪んでいたが、誰も直さなかった。
彫り終わった晩、ヨナスが谷の者を集めた。61人ではなく、53人だった。
「マルクのことを決める」
年寄りは、そう言った。
「こいつは、20年前に、壁の写しを3枚、外へ渡した。代わりに、息子を外へ出した。息子は死んだ。写しは1枚、わざと違うものを渡しておる」
マルクは、火の前に座ったまま、何も言い返さなかった。
「谷から出すか」
ヨナスが訊いた。53人のうち、手を上げたのは11人だった。
「では、残す」
「ヨナス様。——それでは、示しが」
誰かがそう言った。ヨナスは、その方を見なかった。
「示しはつける。マルク」
「……はい」
「お前の役目を解く。今日から、外との取引はヤンがやる」
鑿を持ったことのない男の肩が、そこで初めて動いた。
「……ヤンに、でございますか」
「ヤンだ」
「あれは、22でございます」
「22で外を欲しがっておる。お前は、40年、外を断ってきた。断る者と、欲しがる者と、どちらが渡さずに済むか——わしは、もう分からん」
ヨナスは、火に手をかざした。
「それから、お前は明日から彫れ」
「わたくしは、彫ったことがございません」
「知っておる。60から始めた者は、この谷におらん。お前が最初だ」
「……手が、覚えておりません」
「覚えるまで彫れ」
マルクは、自分の白い手を見て、それから、その手で顔を覆った。声は出さなかった。53人が、その背中を見ていた。
誰ひとり、口を挟まなかった。
◆
翌朝、壁の前にミルカが立った。隣にヨナスがいて、その後ろに、谷の者が20人ほど並んでいた。
「娘。写しを取れ」
ミルカは、羽根ペンを持ったまま、動かなかった。
「……よろしいのですか」
「よくはない。200年、外の者に見せたことがない」
年寄りは、右の目でミルカを見た。
「だが、先の晩、板を1枚盗られた。石は燃えんが、持っていかれる。紙は燃えるが、増やせる。……どちらがましかは、わしには決められん。だから、増やす方を選ぶ」
ミルカは、その日から17日間、写しを取り続けた。
1103の円のうち、写せたのは411だ。1日に24前後。手が動かなくなると、左手に持ち替えて線を引いた。左手で引いた線は、右下からではなく左上から起こしていた。
「ミルカ。休め」
「休みません」
「腕が折れたばかりだろうが」
「治していただきました」
彼女は、羽根ペンを止めなかった。
「ゼノ。わたしは、ここで写しを取るために、大学に入りました」
「入ったときは知らなかっただろうが」
「はい。今、そう思うだけです」
ヤンは、毎朝、彫っていた。祖母の円の隣に、もう1つ。その隣に、もう1つ。3つ目からは、線が真っ直ぐになった。
「起きないぞ」
「起きねえよ」
「あんた、起きなくても彫れと言った」
「言った」
「……起きないものを彫るのは、思ったより、腹が立つ」
俺は、何も足さずにおいた。
◆
17日目の夜、ヨナスが俺を段へ呼んだ。最初の晩と同じ場所だ。空が細く切り取られて、星が川のように並んでいる。
「男。お前は、あの跡に手を入れられんかったな」
「入らなかった」
「渡れるようになりたいか」
「なりたい」
年寄りは、しばらく星を見ていた。
「この谷に、動かせる者はおらん。読める者しかおらん。……だが、1人だけ、両方を持っておる者がおる」
「谷の外だ」
「誰だ」
「わしの孫だ」
ヨナスは、曲がった指を組んだ。
「リディア。リディア・ネイアという。12年前に、17でこの谷を出た」
「なんで出た?」
「動かんからだ」
年寄りは、そう言って、少し笑った。ヤンに似た笑い方だった。
「あれは、壁を全部覚えた。覚えて、彫って、動かなかった。それで、出た。『動かし方は、外にある』と言って出ていった」
「12年、便りは?」
「来る。年に1度だけだ」
「いつだ?」
「冬至だ」
俺は、空から目を離した。
「毎年、冬至に手紙が来る。中身は同じだ。『生きている』とだけ書いてある。字が年々、悪くなっておる」
「差出人は」
「地名だけだ。毎年、違う場所から出しておる」
ヨナスは、懐から紙の束を出した。12枚ある。1枚ずつ、折り目が違う。いちばん上の1枚だけが、新しかった。
「今年の分だ。3月ほど前に届いた」
俺は、それを受け取った。
『生きている』
その下に、もう1行あった。前の11枚には無い行だ。
『迎えに来るな』
「これは、何だ?」
「分からん」
ヨナスは、右の目で紙を見ていた。
「12年で、初めて2行書いた。……あれは、無駄なことを書かん子だ」
「地名は」
「海の側だ。西へ、40日ほど行く。ラセルという町だ」
俺は、その紙を畳んで、返そうとした。ヨナスは、受け取らなかった。
「持っていけ」
「いいのか?」
「12年待って、迎えに来るなと書いてきた」
年寄りは、立ち上がった。
「わしは、もう待てん。わしの目は、あと2年で両方とも潰れる。潰れる前に、あの子の字を、誰かに読ませたい」
◆
谷を出たのは、その2日後だ。門は、まだ直っていなかった。石を積み直す作業が続いていて、ヤンが指図をしていた。指図の仕方が、マルクに似てきていた。本人は気づいていない。
マルクは、壁の前にいた。
彫っていた。線が歪んでいる。ヤンの最初の円より、ずっと歪んでいた。
俺が横を通ると、手を止めずに言った。
「ゼノ様」
「なんだ」
「ラセルへおいでになるのでしたら、海沿いの道は、お使いにならぬがよろしゅうございます」
「なぜだ」
「あの道は、聖国の巡礼の道でございます。この時期、人が多うございます」
マルクは、鑿を置かなかった。
「多いところでは、顔を覚えられます。……わたくしは、40年、外の道を見てまいりました。それだけは、お役に立てます」
「あぁ」
「それから」
彼は、手を止めた。
「息子の名を、板に彫り直してもよろしいでしょうか」
「板は、盗られた」
「存じております。新しい板に、でございます」
「勝手にしろ」
「ありがとうございます」
マルクは、鑿を握り直した。
その手が、白いままだった。60から始めた手は、まだ何の形にもなっていない。
◆
谷の口で、ヨナスが待っていた。後ろに、53人いた。
門が無いので、全員が割れ目の口に立っている。誰も声を出さなかった。手も振らなかった。ただ、53人がそこに立っていた。
いちばん前に、子供が2人いた。
梯子から落ちた女の子と、その弟だ。女の子が、手に木の棒を持っていた。リィナが握らせた棒だ。握り方が、教わった通りだった。
ヨナスが、1歩前に出た。
「男」
「あぁ」
「谷は、お前に何も渡しておらん。写しは、あの娘が自分の手で取った。孫の居場所は、わしが勝手に言った。——谷は、何も渡しておらんことになっておる」
「そうか」
「そういうことにしておけ、という話だ」
年寄りは、そこで、初めて手を差し出した。
曲がった指の手だ。俺は、それを握った。
「フィーネと言ったな」
ヨナスは、フィーネの方を向いた。フィーネは、外套の前を片手で合わせた。
「……わたしですわ」
「お前の名は、買った名だそうだな」
「……はい」
「お前が、69人目だ」
年寄りは、それだけ言って、背を向けた。
フィーネは、馬の鞍に手を置いて、そこに額をつけていた。
俺は、聞こえないふりをして、先に歩いた。
リィナが、俺の隣に来た。
「ゼノ様」
「言うな」
「言いません」
西へ40日。ラセルという町に、リディア・ネイアがいる。壁を全部覚えて、動かなかったから出ていった女だ。
12年で初めて、2行書いた。
『生きている』
『迎えに来るな』
書かなくていいことを書く者は、書かずにいられない事情を抱えている。
前世で、俺のところへ来た使者は、みんなそうだった。《《来るなと書く者は、来てほしい》》。
俺は、馬の腹を蹴った。
——迎えに行く。来るなと書いたわけを、本人の口から聞くためだ。




