第100話 4本の指
翌朝、3人目を追った。
シャルが言った通り、そいつは他の2人を見ていた。港の倉庫の陰に立って、2人が市を横切るのを目で追い、2人が曲がると、反対側へ歩き出す。同じ通りを、決して一緒には歩かない。
背は低い。外套の頭巾を深く被っていて、顔が見えなかった。歩幅が狭く、右の肩がわずかに落ちている。荷を担いだ癖のつき方とは違う。庇っている落とし方だ。
「ゼノ様。前に回ります」
「行くな」
シャルが止まって、俺を見た。
「あれは、逃げ道を3本用意して歩いてる。曲がり角で止まるのは、後ろを見るためじゃねえ。前を選ぶためだ」
「……なぜ分かるのですか?」
「昔、そういう歩き方をする奴を追ったことがある。3本目で必ず取り逃がす」
俺は通りの端に寄って、市の人波の切れ目を待った。
「俺が真っ直ぐ行く。お前は動くな」
倉庫の陰まで、20歩。15歩で、向こうが気づいた。それでも走らず、こちらを見た。頭巾の奥で、目だけが動いた。
10歩。足元の石畳に丸い線が浮いた。直径は3尺。線の内側が、色を失っている。石でも影でもない色だ。
——開いた。
俺は闇を1枚、地面に伏せた。穴の縁に沿って、平らに置く。石の谷の壁で覚えた形だ。外周に闇を流すと、円は開いた形のまま固まって、閉じる動きが一瞬遅れる。
遅れた。その一瞬で、俺は縁を掴んだ。掌に冷たい輪が触れて、そこから腕の骨の中を細い音が上がってきた。
向こうが、俺の顔を見た。
初めて、頭巾の下が見えた。
女だ。30に届いていない。髪は濃い栗色で、耳の下で不揃いに切ってある。自分で切った髪の切り方だ。左の頬に、古い痣が1つ。そして、右手を外套の中に入れたままだった。
「離せ」
低い声だった。潰した声だ。
「リディア・ネイアだな」
女の目が、一度だけ大きくなった。
なった直後、円が縮んだ。
俺の闇の1枚ごと、縁が内側へ巻き込まれる。掌が、内側へ引かれた。手首まで入った。手首から先の感覚が、消えた。
——腕を、置いていくことになる。
俺は、左手で闇をもう2枚組んだ。円の外側に、2枚を交差させて噛ませると、その分だけ縮みが止まった。
その隙に、腕を引き抜いた。
指先が、白かった。血が通っていない。爪の色が灰に近い。痛みは無かった。痛みが無いのが、いちばん悪い。
俺は光魔法の陣を3枚組んで、指先から順に流した。指の色が戻り、戻るときに初めて痛んだ。
女は、走っていなかった。倉庫の陰に立ったまま、俺の手を見ていた。円は消えている。石畳に、丸い跡だけが残っていた。
「……戻したのか。上級の光魔法か」
「そうだ」
女は、俺の顔から目を離さないまま、半歩下がった。
「余計に悪い」
「悪いのか?」
「あんた、光と闇を、同じ手で使った」
女の声が、少し戻った。潰していない声だ。低いままだが、若い。
「2つ持つ者は、聖国が探している。……その手の連中は、ついでにネイアの名も呼ぶ」
彼女は、通りの両端を見た。
「——あんたが誰の手先か、当ててやろうか」
「ヨナスだ」
言った瞬間、女の顎が動いた。
噛み締めて、それから、笑った。ヨナスに似た笑い方だった。祖父と孫と、どちらも同じ笑い方をする。
「じいさんは、まだ生きてるのか」
「生きてる。目が、あと2年で潰れる」
「……そうか」
「あんたの字を、読める者がいなくなる」
女は、返事をしなかった。
返事の代わりに、外套の裾を直した。右手が一度だけ外に出た。
その手は、包帯を巻いていた。
指が4本しかなかった。
親指と、人差し指と、中指と、薬指。小指の付け根から先が無い。切り口は古く、何年も経っていた。俺はそれを見て、見たことを女に見られた。
「見るな」
「あぁ」
「治せると言うなよ」
「言わねえ」
女は、外套の中に手を戻し、少し口を開いて、閉じた。
言いかけてやめたのが、分かった。
「紙を置いたのは、あんただな」
「置いた」
「なんで帰れと書いた?」
「帰らないからだ」
彼女は外套の前を合わせ直して、まともにこちらを見た。
「あんたらは帰らない。書いたって、どうせ来る。それでも書く。……書かないと、後で、書かなかったことを思い出すからだ」
俺は、その言い方を知っていた。前世で俺のところへ来た使者は、みんなそうだった。断ると分かっていて言いに来て、言いに来た事実だけを自分のために残していく。
「裏の1行は」
「……見たのか。あれは、書くつもりが無かった」
女は、鉛の芯を指で回すような仕草をした。持っていないのに、指だけが動いた。
「ヴェインの娘は、何人いる」
「知らん」
「知らねえのか」
「知らん。去年、1人死んだ。それで、春に1人増えた」
彼女は、通りの奥を見た。
市の方から、荷車の音が近づいてくる。
「増えるのは、生まれるからじゃない。……作ってるんだ、あいつらは」
俺が一歩近づくと、女は下がらずに、顎を上げた。
「近づくな。あんた、においがする」
「におい?」
「魔界のにおいだ。……12年、嗅がされてきた」
シャルが動いた。止まれと言ったのに、動いた。俺の後ろではなく、女の後ろへ。いつの間に回ったのか、俺にも見えていなかった。
女が振り返らずに右足を半歩引くと、その場所の石畳に、また丸い線が浮いた。今度は1尺だ。その1尺に、シャルの刃が吸い込まれた。
刃は、消えなかった。女の足の横、そこから半歩ずれた石畳の上に、刃だけが落ちて、乾いた音を立てた。
シャルが、自分の手を見た。
「……柄だけ、残りました」
女は、そこで初めて、少し笑った。
「刃だけ抜くのに、6年かかった。腕ごとなら、造作もない。……嬢ちゃん、次は腕になる」
シャルは、下がらずに俺を見た。俺の命令を待っている。俺は口を開かなかった。
その間に、女が言った。
「その顔だ。その顔の主人は、たいてい人を捨てる」
「捨てねえ」
言ってから、余計なことを言ったと思った。この女に、俺が誰を捨てるかを説明する筋合いは無い。
女は、頭巾を被り直した。
「じいさんに会いたいとは思わん。……思わんが、目のことは、あんたが勝手に言ったんだからな」
「言った」
「言った者が、責任を取れ」
彼女は、倉庫の角を曲がった。その先に、影が無かった。シャルが追って、すぐに戻ってきた。
「……角の先に、おりません。地面に、跡があります」
俺は、落ちた刃を拾って、切り口を見た。溶けても、焼けてもいない。ただ、柄との境が鏡のように平らだった。刃物で切った面とは違う。
——場所ごと、切れている。
指で触ると冷たかった。宿の卓と、同じ冷たさだ。
「ゼノ様」
シャルが、膝をついた。
「命令に背きました。処分を」
「後だ」
「……はい」
「シャル」
俺は、刃を彼女の手に載せて、握らせた。
「《《腕は、まだ付いてる》》」
◆
宿に戻ると、下の広間にリィナとフィーネがいた。先に気づいたのはリィナだ。俺の右手を見て、卓の向こうから立ち上がった。爪の色は戻っている。それでも、立った。
「ゼノ様。その手、どうされました」
「持っていかれかけた。ヨナスの孫だ」
リィナは俺の手首を両手で掴んで、自分の目の高さまで持ち上げ、そのまま離さなかった。
「リィナさん。ゼノは治しておいでですわ」
「知っています」
「では、お放しになって」
「放しません」
フィーネは、そこで椅子から立ち、俺の後ろに回って、シャルの手を見た。柄と、切り離された刃が、一緒にその手に握られている。
「……シャルさん。あなた、前に出ましたのね」
シャルは答えず、握った柄を背中へ隠した。
「隠さなくてよろしいのよ。わたし、叱るつもりはありませんわ。——次は、わたしを連れていってくださいまし。わたしは、あの方の字を12年分読んでおりますの」




