第101話 石板
翌朝、フィーネが12枚の手紙を卓に並べた。
宿の1階の広間だ。窓が北向きで、朝でも薄暗い。彼女は灯りを2つ、紙の両端に置いて、折り目を1枚ずつ開いた。古い紙の、乾いた音がした。
「11年分と、今年の分ですわ。地名を、順に読み上げてくださいまし」
ミルカが、左から読んだ。
「カレン、ドスト、シャノ、イルベ、メルカ、ヴェスタ、ラン、オーリ、ドスト、テルマ、シャノ、ラセル」
「2度出てくる地名が、2つありますわね」
「ドストとシャノです」
フィーネは、宿の主人から借りた海図を広げた。
図は古い。海岸線が、今の形と違っているところがある。それでも、町の名は書いてあった。彼女は10の町を指で1つずつ押さえていって、押さえ終わってから顔を上げた。
「……全部、巡礼路の宿場ですの」
「12年、聖国の巡礼路の上だけを歩いております。しかも、南から北へ、順に」
「途中で2度、戻ってるな」
「ドストとシャノです。追われた年でしょう。追われて、来た道を戻ったのでしょう。そうすれば、追う側は先へ行きますもの」
フィーネは、その2つの町を指で叩いた。その指の下で、海図の紙が薄く波を打っていた。
ミルカが、紙を1枚持ち上げた。
「フィーネ。ドストの年とシャノの年は、字が違います」
「どう違いますの?」
「傾きです。他の年より、右に倒れています。急いで書いた字です」
ミルカは、その2枚を灯りに近づけて、裏から透かした。
「それから、この2枚だけ紙が違います。他は代書屋の紙ですが、こちらは教会で漉いたものです」
「教会の紙、ですの?」
「裏の漉き目に、十字の型が入っています」
フィーネの指が止まり、ゆっくり卓の縁を掴んだ。
「……追われた年に、教会の紙で手紙を出しておりますのね」
「フィーネさん。それは、どういう意味ですか」
リィナが、卓の上の海図を自分の方へ少しだけ回しながら訊いた。
「2つですわ。追われて教会に匿われたか、——追っていたのが教会だったか」
「どちらですか」
「分かりません。ただ、どちらでも、あの方は生きて出ておりますの」
ラセルは、巡礼路の北の終点だった。
主人に訊くと、そう言った。聖国から船で渡ってきた巡礼は、この町から陸を南へ下る。逆に、南から歩いてきた者は、ここで海に突き当たって終わる。
「ここから先は、船だ。船に乗るには、教会で判をもらう。もらえん者は、この町で止まる」
12年歩いて、終点で止まり、今年だけ2行書いた。
俺は卓の上の海図を見た。南の端から北の端まで指でなぞると、思ったより短い。12年かけて歩く距離ではなかった。
◆
その日の午後、シャルが戻ってきた。
朝から町を回らせていた。戻ってきたとき、外套の裾が濡れていた。港の水をかぶった濡れ方だ。
「ゼノ様。昨日の2人が動きました。坂の上の、壊れた代書屋です。板を外して中に入って、4半刻で出てきて、今度は町の東の納屋へ行きました」
「納屋に何がある?」
「子供が、11人います」
納屋は、坂を下りきった先にあった。
漁具を仕舞う小屋を、そのまま使っている。壁に網が掛かり、床に莚が敷いてあった。網の脂と、魚の内臓の匂いが、壁の板に染みている。
莚の上に、子供が11人座っていた。いちばん小さいのが5つか6つ。いちばん大きいのが14くらいの少年だ。全員、手に石板を持っていて、そこに字が書いてあった。
戸口に立って、中を見た。教えている者はいない。子供たちは石板を見ながら、自分の指でなぞっている。壁の柱に、紙が1枚貼ってあった。
『きょうは来ない。12まで自分でやれ』
丸い字だ。線の終わりが跳ねている。
いちばん大きい少年が、こちらに気づいた。立ち上がって、他の10人の前に出た。早い。慣れている。
「何の用だ」
「ここは、何だ?」
「読み書きを習うところだ。先生は、今日は来ない」
少年はそう言って、紙の方を一度も見なかった。書いてあることを、見なくても知っている顔だった。
「代書屋が死んでから、この町で字を書ける奴が減った。船に乗る判は、名前が書けないともらえない。書けない奴は、代書屋に金を払う。払えない奴は、乗れない」
「それで、習ってんのか」
「先生が、金を取らない」
少年は、莚の上の11人を一度振り返ってから、俺の顔を見上げた。
「あんた、あの人を捜しに来たのか」
「捜しに来た。あの女のじいさんが、あと2年で目が潰れる。その前に、孫の字を——読ませたい」
少年は、莚の端を指で弄りながら、その答えをしばらく考えていた。
「……昨日、2人来た。あんたと同じことを訊いた。知らないと答えた」
「嘘か」
「嘘だ」
彼は、そこで顎を上げた。
「あんたにも嘘をつく。だから、帰れ。……帰れと言ってるんだぞ」
「聞いた」
俺は戸口に立ったまま、莚の上の子供たちを見た。11人のうち3人が、同じやり方で石板を裏返して隠していた。
リィナが、俺の横をすり抜けた。すり抜けて、いちばん小さい子の前に膝をついて、その子の石板を覗き込んだ。
「これ、何と書いてありますか」
「……じぶんの、なまえ」
「読んでください」
子供は、途切れ途切れに読み終えて、リィナの顔を見た。リィナは自分の指で、莚に同じ字を書いた。
「わたしも、12のときに習いました」
少年が、リィナを見ていた。リィナは気づかずに、次の子の石板を覗いている。
フィーネが俺の隣に来て、声を落とした。
「……あの子、リィナさんを止めませんでしたわね」
「あぁ」
「止められない理由がございますのよ。11人のうち、あの子だけが痩せておりますの」
俺は、少年をもう一度見た。痩せている。腕の骨が肘のところで浮いていた。肩の肉は落ちているのに、掌だけが厚い。網を引く手だ。毎日引いて、その稼ぎが、この11人に回っている。
「お前、名は」
「……テオ」
「今日、飯は食ったか」
少年は、答えなかった。
ポーラがいれば、この場で鍋を出していた。いないので、俺は懐から銀貨を出して、莚の上に置いた。
テオはそれを見て、俺の顔を見て、それから銀貨を押し返した。
「いらない」
「なんでだ?」
「先生が、金を出す奴を信じるなと言った」
俺は銀貨を懐に戻して、代わりに納屋の屋根を見上げた。板が3枚ずれている。そこから光が入って、莚の上に3本の線を作っていた。雨が降れば、真っ直ぐ子供の上に落ちる線だ。
俺は闇を1枚組んで、薄く伸ばし、屋根の内側に貼った。光の線が消えた。
「何をした」
「屋根だ」
「……なんで」
「濡れると、石板の字が消える」
テオは屋根を見て、それから俺を見た。
「金は、いらないんだな。……明日も来るのか」
「来る」
少年は、そこで初めて莚に座り直した。
納屋を出たとき、日が傾いていた。
坂の下から、潮の匂いが上がってくる。港の船が、7隻から6隻に減っていた。1隻、出たらしい。
「ゼノ様。あの子たち、明日も来ますか」
リィナが、後ろから追いついてきた。
「来る。先生の方は来ねえだろうな。昨日、2人が納屋を見てる。あの女は、見られた場所には来ねえよ」
リィナは、黙って坂を下りた。下りきる手前で、こう言った。
「では、来られるようにします。2人を、片づけます」
「お前が片づけると、3人目が来る」
彼女は足を止めて、俺の背中を見ていた。背中で分かった。
◆
宿に戻ると、卓の上にまた紙があった。今度は鍵をかけていない部屋だ。誰でも入れる。それなのに、卓の同じ場所に、同じ大きさの丸い跡がついていた。
紙には、こう書いてあった。
『屋根の礼を言う。だが、《《明日は来るな》》。あんたが来ると、あの子たちが数えられる』




