第95話 断り方
『同じ日に、空も塞がれた』
その一行を、ヨナスは知らなかった。石の板を膝に載せて、右の目を何度も近づけた。
「彫ったのは、わしの兄だ。字の癖で分かる。……だが、兄は29年前に死んでおる」
「11人が死んだのは18年前だ」
「そうだ」
年寄りは、石の板を膝に置いたまま、動かなかった。
「死んだ者が、11年あとのことを彫っておる」
ミルカが、板の縁に指を当てた。爪の先で、彫りの底を1行ずつ辿っていく。
「この行だけ、彫りが浅いです。上の11行とは、鑿が違います」
「後から足したのだな」
「足したのは、字を真似た人です」
彼女は、灯りを板に近づけた。
「真似ていますが、『日』の3画目が長いです。ヨナスさんのお兄さんは、ここを短く切ります。上の11行は、全部短いです」
俺は、その板を横から見た。『空も塞がれた』の一行だけが、新しい。
つまり、18年前に何が起きたかを知っている誰かが、それを一族の記録に足した。そのとき、死んだ男の字を真似ている。真似た理由は1つだ。
——自分の名を出さずに、伝えたかった。
「ヨナス。谷の中で、あんたの兄貴の字を真似られる奴は何人いる」
「兄の字を覚えておる者は、今、3人だ」
「誰だ」
「わしと、マルクと、——ヤンの祖母だ」
ヤンの祖母には、その晩に会った。80を越えている。目は見えているが耳が遠く、左半身が動かないので、穴の奥で寝たきりだった。
字を真似られるか訊く前に、俺は、その両手を見た。指が、10本ともまっすぐだった。彫ったことのない手だ。
「……この人ではありません」
ミルカが言った。俺も、同じことを思っていた。
◆
翌朝、マルクの穴を訪ねた。割れ目の低い位置にある、口の広い穴だ。中は片付いていた。棚に、木の箱が並んでいる。箱の1つ1つに、年が書いてあった。
「帳簿でございます。40年分、ございます」
「見ていいか?」
「どうぞ。わたくしが断りましたら、かえって妙でございましょう」
マルクは、湯を沸かし始めた。
手つきが、慣れていた。谷の者は、湯を沸かすのに石を使う。この男は、金物の薬缶を使っていた。外から来たものだ。
フィーネが箱を開けて、1冊目を繰った。尋常な速さではなかった。1頁に2つ数える間しかかけていない。
「……マルク様。あなた、几帳面でいらっしゃいますのね」
「役目でございますので」
「断った取引が、全部書いてございますわ。断った理由まで」
「断るのが仕事でございますから、断った記録が仕事の記録でございます」
「えぇ。ですから、妙ですの」
フィーネは、1冊を閉じて、別の年の箱を開けた。
「20年前の分だけ、薄いですわ」
マルクの手が、湯の上で止まった。
「その年は、外からの話が少なかったのでございます」
「少ないのではございません。無いのです。1年で、断った取引が0件。40年で、その年だけですわ」
「……さようでございましたか」
「20年前は、門の柱の円が書き換えられた年でもございますの」
俺は、マルクの手を見ていた。白い手だ。谷の者の手ではなかった。爪が短く切ってある。
ただし、右の親指の爪の脇に、白い粉が入っていた。
石の粉だ。
「マルク。あんた、昨日、石を彫ったか」
「彫っておりません」
「じゃあ、爪の脇のそれは何だ?」
マルクは、自分の親指を見て、しばらく黙って、それから、湯を器に注いだ。
「……彫ってはおりません。削りました」
「どこをだ」
「記録庫の、11人の名の板でございます」
穴の中が、静かになった。
外から、子供の声が聞こえていた。リィナが棒を握らせて走らせている声だ。ここ2日、毎朝そうしていて、走る子の数が昨日より3人増えていた。
「何を削った」
「12人目の名でございます」
マルクは、器を俺の前に置いてから、自分の膝に手を戻した。
「11人の下に、もう1つ名がございました。ネイアの名を持たない、12人目でございます。……わたくしの息子でございます」
「息子」
「息子は、マルク・ナウルと申します。わたくしは婿でございますので、家名が違います。谷の外で学ばせました。20年前、18で外へ出しました」
彼は、湯気を見ていた。
「18年前の冬至に、死にました。同じ日に、同じように」
俺は、何も言わずに、器の湯を見ていた。湯の面に、穴の口の形が映っていた。
「最初に削ったのは、5年前でございます。昨夜は、その跡を均しに上がりました。谷の者が、あの板を読むたびに、11人と数えます。12人目がいると、外に出した者が死んだ話になります。……外に出すな、という話になります」
「出すなと言われたくなかったのか?」
「逆でございます」
マルクは、初めてこちらを見た。
「もう1人、外に出したい子がおりました。ヤンでございます」
外の子供の声が、割れ目の奥の方へ遠くなっていった。
「ヤンは、彫れません。彫っても何も起きぬと言って、1つも彫りません。ですが、あれは外の物の覚えが早うございます。……谷の中では、何にもなりません」
「だから、12人目を消したのか」
「消せば、外へ出す話ができます。『外で死んだ者は11人、うち谷の者は0人』と、そう読めます」
「読めねえよ。11人は全員、谷から出た奴らだろうが」
「読む者は、そこまで読みません」
フィーネが、帳簿を閉じて箱に戻し、蓋をした。
「マルク様。20年前の、断らなかった取引のお話を伺ってもよろしいかしら」
マルクが答えないので、フィーネは続けた。
「20年前、息子さんは18で、谷を出ましたわね。外で学ぶのに、伝手が要りましたでしょう。伝手は、どこから」
「……聖国でございます」
「取引したのですわね」
「いたしました。1度だけでございます」
マルクの声は、まだ柔らかかった。その声のまま、こう言った。
「壁の円の写しを、3枚渡しました。代わりに、息子を神学校へ入れていただきました。あの年、谷で飢えが出まして、外に出さねば死ぬところでございました」
「門の柱を書き換えたのは」
「わたくしでございます。渡した3枚のうち1枚が、門の柱の円でございましたので、後から、違うものに彫り替えました」
「なんでだ?」
「渡した写しと、実物が違えば、向こうは間違えます」
マルクは、そこで初めて、少しだけ笑った。この男の笑い方に嫌なところがあるのを、俺は初めて見た。
「わたくしは、40年、断る役でございました。断り方には、いろいろございます。渡さないのも断り方。——渡して、間違えさせるのも、断り方でございます」
ミルカが、口を開いた。
「それが、《《写し間違いの原因》》です」
彼女は、俺の方を見なかった。マルクを見ていた。
「聖国の記録庫にある写しは、3枚のうち1枚が違います。違う1枚を含んだまま、18年、読まれています。読んでも動きません。動かないので、彼らは足りないものを探し続けます」
「……そうなりますな」
「マルクさん。あなたは、谷を守りました。同時に、聖国が18年、この谷を諦めない理由を作りました」
マルクは否まずに、湯の器を両手で持った。その手が、震えた。
「存じております。……存じておりますが、他に、やりようがございませんでした」
「息子さんは?」
「死にました」
「では、何も戻っておりませんわね」
フィーネが、そう言った。
言い方が、尋ねる言い方ではなかった。刺す言い方だった。
マルクは答えずに、器を置いて立ち上がった。
「ヨナス様に、申し上げてまいります。40年の役目でございますので、決まったことには従います。……罰は、谷が決めることでございましょう」
彼は穴の外へ歩いて、口のところで止まり、こちらを見ずに言った。
「1つだけ、申し上げます」
「わたくしは、40年、断ってまいりました。断りきれなかったのは、1度だけでございます」
外は、明るかった。
「ですが——断りきれなかった者は、相手が次に来たとき、必ずこう言われます。『前は、いただけましたのに』と」
マルクは、そこで振り返った。
「昨日、それを言われました」
俺も立ち上がった。
「誰に言われた?」
「存じません。夜でございました。声だけでございます」
「どこで」
「記録庫の、下の段でございます。縄梯子を下ろしたのは、わたくしではございません」
彼は、明るい外を見ていた。
「昨夜、あの穴に、わたくし以外の者が上っております」




