第94話 同じ日に、空も塞がれた
一族が集まったのは、その日の昼だった。広い穴に、68人のうち61人が入った。残りは、子供と、動けない年寄りだ。莚が足りないので、半分は立っていた。
ヨナスが、火の前に座った。
「男に、壁を流させる」
それだけ言うと、穴の中が騒がしくなった。声が反響して、誰が何を言っているのか分からなくなる。
マルクが手を上げただけで、静かになった。
「ヨナス様。1つ、確かめさせてください」
マルクの声は、柔らかいままだった。
「もし動いたとして、その先に何がございますか」
「術が戻る」
「戻って、どうなさいます?」
「……使う」
「どなたが、でございましょう」
穴が、また静かになった。
マルクは、両手を膝に置いていた。役人の座り方で、背だけがまっすぐだった。
「この谷には、次元の術を使える者がおりません。動かせるのは、そこの外の男だけでございます。つまり、術が戻れば、その方が唯一の使い手になります」
「谷の術が、外の者のものになるということでございます」
61人が、俺を見た。
ヤンが、立ち上がった。
「マルクさん。この人は、朝、1人で40人を止めた」
「存じております」
「止めなければ、門は焼けていた」
「それも存じております。……ですから、より危のうございます」
マルクは、ヤンを見ずに続けた。
「谷を守れる者は、谷を潰せる者でございます」
俺は、莚の端に立って、口を挟まなかった。挟む中身が無かったからだ。この男の言っていることは、正しい。
フィーネが、俺の前へ出た。
「よろしいかしら」
「……ネイアを名乗った方でございますね」
「名乗りましたわ。買った名ですけれど」
彼女は、61人の方を向いた。
「わたし、この方が谷を潰す気になったら、止められません。誰も止められませんの。ですから、止められるかどうかの話は、やめにいたしませんこと」
「代わりに、1つだけ申し上げます」
フィーネは、外套の内側から帳面を出した。
焦げた帳面だ。カルナで、火に入れて拾ったやつだ。
「これ、カルナで焼けかけた記録ですの。この方が、火に手を入れて取りました。中に書いてあるのは、この方に不利なことだけですわ。……不利なことを残す者は、記録を欲しがる者です」
彼女は、帳面を閉じた。
「記録を欲しがる者は、記録のある場所を潰しませんわ」
ヨナスが、火の向こうで目を上げた。
「決を採る」
「ヨナス様」
「採る。反対の者は、石を持って壁の下へ置け」
61人が動いて、壁の下に列ができた。石を置いた者が19人。置かなかった者が42人だった。
マルクは、置かずに、こう言った。
「わたくしは、決まったことには従います。それが、40年の役目でございますので」
流したのは、その日の夕方だ。壁の一番大きな円の前に、俺が立った。人の背丈ほどの円だ。外周と内周の2本の線が、指2本分の幅を空けて彫ってある。
ミルカが、俺の横に膝をついた。
「外周に闇、内周に光です。逆ではありません」
「なんで分かる?」
「外周の線の底が、荒いです。光は、滑らかな面を好みます」
「……そんな話、聞いたことねえぞ」
「ここに書いてあります。わたしは、覚えただけです」
右手を外周に当てた。闇を1枚。円の溝に沿って、闇が入っていく。水が溝を走るのに似ていた。円を1周して、始点に戻ってきた。
何も起きない。
左手を内周に当てた。
光を1枚。
入れた瞬間に、掌が持っていかれた。
引っ張られたのは、腕ではなかった。器だ。内側から、何かに掴まれた。18年前の、あの手触りに似ていたが、悪意が無い。その手が、俺の中から必要なだけを掴んで、引き出していく。
円が光った。外周が黒く、内周が白く、2本が同じ速さで回り始めた。
穴の空気が、鳴った。莚の埃が、床から1寸だけ浮いた。
音とは違う。耳ではなく、歯の根に来る震えだった。61人のうち、何人かが座り込んだ。それでも、誰も目を閉じなかった。
円の中が、歪んだ。
壁が、壁でなくなった。
壁に、1尺ほどの穴が開いた。穴の向こうに、別の場所があった。
向こうは夜だった。星が出ていて、その下に白い岩壁が立っている。——この谷だ。この谷の、夜だ。
ただ、岩壁の形が少しだけ違った。横穴の数が、こちらより多い。灯りの点いている穴が、30どころではなかった。
50年前だ。
穴の向こうは、300人が住んでいたころの、この谷だった。
「——ヨナス様」
そう言ったのは、いちばん前に座っていた年寄りの女だった。穴の向こうを指している。
指の先に、人が歩いていた。
小さい。子供が2人、穴と穴の間を走っている。1人が転んで、もう1人が声を上げて笑った。声は、こちらまで届かなかった。
「……兄さんだ」
ヨナスが、言った。
「あれは、わしの兄だ。転んだ方が、わしだ」
穴は、20を数える間しか開かなかった。閉じるときは、開くときより速かった。壁が壁に戻って、円の光が消えて、俺の手が壁から落ちた。
膝が、勝手に落ちた。器が、空になっていた。空になったのは前にもある。だが、今回は、抜けた場所が違う。魔力ではなく、もっと奥のものを持っていかれた感じがあった。
リィナが、俺の脇を支えた。
「ゼノ様」
「……平気だ」
「顔が、白いです」
「フィーネと同じか」
「フィーネさんより白いです」
ヨナスは、壁の前から動かずに、円の跡を指でなぞっていた。曲がった指が、溝の中で震えている。
「……過去だ」
「あぁ」
「行けるのか?」
「行けねえ」
俺は、壁に背を預けて座っていた。
「開いてた穴は1尺だ。人は通らねえ。それに、あれは窓だ。向こうからは、こっちが見えてねえ」
「見えておらんかったな」
年寄りは、そう言って、ようやく指を下ろした。
「兄は、こちらを見なかった」
その晩、ヨナスが記録庫を開けた。割れ目のいちばん奥、高い位置にある穴で、外からは梯子も掛かっていない。ヤンが縄で登って、内側から縄梯子を下ろした。
中は、棚だった。
石の板が、棚に並んでいる。紙は1枚も無かった。全部、石に彫ってある。
「紙は燃える」
ヨナスが言った。
「200年前に、1度燃えた。それから、石にした」
ミルカは、石の板を1枚ずつ棚から抜いて見ていった。3枚目で、手が止まった。
「……ヨナスさん。これは、名簿ですか?」
「死んだ者の名だ」
「谷の外の人の名が、混じっています」
ミルカは、灯りを近づけた。
「谷の外で、次元の術を知っていた人の名です。ネイアの名を持たない人の名が、11人分あります」
ヨナスがその板を受け取って、右の目を近づけた。板の重さで、腕が一度下がった。
「……ああ。外の者だ。昔は、外にも使い手がおった。谷から出て、よそで学んだ者たちだ」
「11人とも、死んだ年が同じです」
「そうか」
「18年前です」
ミルカは、灯りを下げないまま、板の下の段を指でなぞった。
「日付も、彫ってあります」
彼女の指が、11の名の横を、順に押さえていった。
「11人とも、同じ日です」
「同じ日に、11人か」
「はい。——冬の、いちばん日の短い日です」
冬至だ。18年前の冬至。魔界の男が、最後にこの谷へ来た日だ。
そして、俺が9層の底で、内側から掴まれて引き剥がされた日だ。
「ゼノ」
ミルカが、こちらを見た。
「11人の名の下に、もう1行あります。彫った人が、後から足しています」
「読め」
ミルカは、灯りを板に当てた。
そのまま少し黙って、それから読んだ。
「『《《同じ日に、空も塞がれた》》』」




