第92話 彫っても何も起きない
谷での3日目、フィーネが飯を貰えなかった。
炊き出しは、割れ目の中ほどの広場で1日に2度ある。大鍋が2つ。並べば誰でも椀を出せる。俺もリィナもミルカも出せた。シャルは並ばずに、どこかで自分で済ませている。
フィーネが椀を出したとき、杓子を持った女が手を止め、そのまま次の者の椀によそった。
フィーネは何も言わずに、椀を下ろして、列から出た。
リィナが、自分の椀をフィーネに差し出した。
「半分、食べてください」
「結構ですわ」
「半分です」
「リィナさん。わたし、そういうのはいりませんの」
「いります」
リィナは、フィーネの手に椀を押しつけた。フィーネの方が先に折れた。
ミルカが、横から覗き込んだ。
「量が足りません」
「足ります」
「足りません。リィナは、昨日、朝の分を食べていません。半分にすると、2人とも足りなくなります」
「……ミルカさん」
「事実です」
リィナが口を開きかけたところで、上から鳥が2羽、落ちてきた。
2羽とも、首の骨だけが折れていた。シャルが、岩壁の高いところから、落ちる速さを3回に分けて殺しながら降りてきた。
「焼きます」
「シャル。どこで獲った」
「上です」
そのとき、若い男が走ってきた。門の上で弓を構えていた1人だ。ヤンという名だと、後で知った。
「谷の鳥を獲るな」
「外です。尾根の向こうです」
「尾根の向こうも、うちの——」
ヨナスが、列の後ろから歩いてきて、自分の椀を、フィーネの前の石の上に置いた。
ひと言も無く、行ってしまった。ヤンが、その背中を見て、口を閉じた。そのまま、俺たちの方を見ずに、鳥を2羽とも拾って、焼き場へ持っていった。
フィーネは、石の上の椀を、しばらく見ていた。
「……わたし、あの方に、まだ1度も名を呼ばれていませんわ」
◆
4日目、俺は壁の前に座っていた。
ミルカの隣だ。ミルカは3日目からずっとそこにいて、寝るときだけ莚に移る。起きると、また壁の前に戻る。
「ゼノ。この壁の円は、全部で1103あります」
「……その数か」
「はい。偶然です。オルドリクが入れた数と、たまたま同じでした」
ミルカは、少しだけ首を傾げた。
「偶然ですが、気持ちが悪いです」
外で、声がした。
子供の声だ。それから、大人の声が重なって、何かが崩れる音がした。
出ると、岩壁の中ほどで、梯子が折れていた。
高い穴の1つ、その口に、子供が1人ぶら下がっている。10かそこらの女の子だ。両手で穴の縁を掴んで、足が空を蹴っていた。
下で、大人が4人、布を広げていた。布は小さい。落ちる場所の見当が、全員違っていた。
俺は、闇を3枚組んだ。1枚目を、子供の真下に平らに置く。2枚目をその下、3枚目をさらに下。3段にした。間を広く取れば、落ちる勢いが3度に分けて抜ける。
子供の指が、縁から外れた。
落ちた。1枚目で速さが半分になり、2枚目で歩く速さになり、3枚目で、俺の腕の中に載った。
軽い。腕の中で、子供は息を止めたまま、俺の顔を見ていた。埃と、汗の匂いがした。
「息、吐け」
吐いて、それから泣き出した。
母親らしい女が走ってきて、子供をひったくるように受け取った。
女は俺の顔を見て、何か言おうとして、言わずに、子供を抱えて穴へ戻っていった。
礼は無かった。
広場に残った大人たちも、口を開かなかった。1人が、折れた梯子を拾い上げて、折れ口を見ていた。
ヤンだった。
「……これは、腐って折れたんじゃない」
彼は、折れ口を俺の方へ向けた。
「切ってある。半分まで」
その晩、俺とヤンの2人が、ヨナスの穴に呼ばれた。火の前にヨナスが座っていて、その横に、もう1人いた。
60前後の男だ。背が高い。手が白い。谷の者の手ではなかった。
「婿のマルクだ」
ヨナスが言った。
「外との取引を、こいつが40年やっておる」
「取引不可、と聞いたが」
「取引を断るのも、取引のうちだ。断る役が要る」
マルクは、俺に向かって浅く頭を下げた。役人の礼だった。
「梯子の件を、伺いました」
マルクの声は、柔らかかった。
「あの梯子は、去年の秋に、わたしが掛け替えました。掛け替えたのはわたしですから、疑われるのはわたしでございましょう」
「誰も、そう言っておらん」
「言われる前に申し上げております。その方が、早いので」
マルクは、そこで初めて笑った。嫌なところの無い顔だった。
嫌なところが無いというのは、それだけで1つの情報だ。
ヤンが、膝の上で拳を握った。
「マルクさん。谷の外の話をするなら、もう1つあります」
「何かな?」
「北の尾根に、人が伏せています。9人。3日前からです」
マルクの顔が、動かなかった。
「……ヤン。それは、誰が見た」
「そこの女です」
ヤンは、俺の後ろを指した。シャルは、穴の入口の影に立っていた。呼ばれていないのに来ている。
「外の者の言うことを、そのまま信じるのか」
「信じます」
ヤンは、即答した。
「昨日、自分で見に行きました。窪みが3つ、確かにありました」
「……行ったのか」
「行きました」
ヨナスが、火の向こうで目を上げた。
「ヤン。お前、外へ出るなと言われておるだろう」
「言われております」
火の爆ぜる音が、1つ鳴った。若い男は、言い淀んだ。
「ですが、……このまま門を閉めていても、向こうは減りません」
マルクが、静かに言った。
「ヨナス様。門を開けるかどうかは、明日、皆で決めることでございます。今夜ここで決める話では……ございませんでしょう」
「決めておらん」
「決めていらっしゃらないのは存じております。ただ、この者たちの前で話すのは、順が違うかと」
「順」
ヨナスは、その言葉を繰り返して、それきり黙った。
穴を出ると、ヤンが後ろから来た。俺の横に並んで、黙って歩いた。梯子の折れたあたりで、一度だけ上を見た。
「……あんた、子供を受けたな」
「あぁ」
ヤンの声は、昨日、鳥のことで怒鳴ったときより低かった。
「あの陣は、何だ?」
「闇だ」
「闇で、人を受けられるのか?」
「受ける形に組めば受ける。押す形に組めば、まあ、押す」
ヤンは、足を止めた。
止まって、自分の掌を見ていた。
「俺は、円を1つも彫ったことがない。……彫っても、何も起きないから」
「起きなくても、彫れ」
言ってから、余計なことを言ったと思った。こいつが彫るかどうかは、俺の勘定に関係がない。
ヤンは、顔を上げた。
「なんで、そんなことを言う?」
「知らねえ」
「知らねえで言うのか」
「あぁ」
若い男は、少しの間、俺を見ていた。それから、鼻で笑って、走っていった。
広い穴に戻ると、ミルカがまだ壁の前にいた。灯りを1つだけ持って、下から3段目の円を見ている。
「ゼノ」
「まだ起きてんのか」
「門の柱の、3つ目の円のことです。分かりました」
彼女は、壁の一点を指した。
「これと、同じ癖があります。円を削るとき、この人は、必ず左上から入れます」
「ただの彫り直しではありません」
ミルカが灯りを近づけると、彫りの底に、細い線が残っていた。前にあった線を潰した跡だ。潰し切れずに、下に残っている。
「消して、別のものを彫っています。……門の柱も、この壁も、同じ手です」
「いつ削られた」
「門の柱は、深さの減り方から、20年ほど前です。この壁のここは、もっと古いです。30年近く」
29年前だ。
ヨナスの兄が円を彫って、その翌る朝に削られた年。
ミルカが、灯りを下ろした。
「ゼノ。同じ手です」
「あぁ」
「20年前と、29年前です。同じ人が、両方を削っています」
彼女は、俺の方を向いた。灯りの位置が低いので、顔の下半分だけが明るかった。
「その人は、《《まだ生きています》》」




