第91話 読めるが書けない
暗がりから出てきたのは、年寄りだった。背は低い。60の半ばか、それより上だ。左の目が白く濁っていて、右の目だけでこちらを見た。手に灯りを持っていない。この暗さで、足元を一度も探らずに歩いてきた。
両手の指は、10本とも第一関節から内側に曲がっていた。石を彫り続けた手だ。
「3つ目の円の話をしたのは、どの娘だ」
「わたしです」
ミルカが、岩陰から出た。
年寄りは、右の目でミルカを上から下まで見た。
「何年、彫っている?」
「彫っていません。写しています」
「写しだけで、深さの違いが分かるか」
「柱は、写しではありません。昼に、触りました」
年寄りの右の目が、ミルカの指へ下りた。
「触ったな。誰の許しで触った」
「許しは、求めていません。禁じられてもいません」
年寄りが、初めて黙った。
それから、喉の奥で短く音を出した。笑ったのだと、少ししてから分かった。
「……ヨナスだ」
「ミルカです」
「入れ。娘だけだ」
「駄目です」
リィナが言った。
「ミルカさんを1人で入れるのは、駄目です」
「なら全員、外で寝ろ」
「ヨナス様。それも駄目です」
リィナは、外套の下で剣の柄に手をかけていた。かけたまま、こう続けた。
「わたしは、この人たちを1人ずつ数えて連れてきました。数が減ると、帰りに困ります」
ヨナスは、リィナを見た。
「……お前、どこの兵だ」
「兵ではありません。ゼノ様の護衛です」
年寄りは、俺の方へ顔を向けた。
「そっちの男に、護衛がついておるのか」
結局、5人とも入った。
ヨナスは理由を言わなかった。門をくぐるとき、俺の横で一度だけ立ち止まって、こう言っただけだ。
「弓を折らなかったな」
「折る用が無かった」
「10年で7組来た。6組は、折った」
「7組目は」
「まだ分からん」
割れ目の中は、外より暖かかった。風が通らない。岩壁が日中の熱を溜めて、夜のあいだ、それを吐き出している。壁に手を当てると、人肌ほどの温さがあった。
両側の岩壁に、横穴が開いていた。数えて、30と少し。低い位置のものは口が広く、高い位置のものは狭い。高い方には、外から梯子が掛かっている。穴の口から、灯りが漏れていた。
人が住んでいる。
「68人だ」
ヨナスが、訊いていないのに言った。
「50年前は、300人おった」
俺たちが通ると、穴から顔が出ては引っ込んだ。1つも声がしなかった。子供の顔も2つあった。2つとも、大人が後ろから肩を掴んで、中へ引き戻した。
「歓迎されておりませんのね」
フィーネが、小さく言った。
「当たり前だ」
ヨナスは、振り返らなかった。
「お前は、ネイアと名乗った。名乗る資格のある者は、この谷に68人しかおらん。69人目が来るということは、誰かが売ったということだ」
奥の広い穴に通された。天井が高い。床に莚が敷いてあって、中央に火が焚かれている。壁一面に、円が彫ってあった。数えきれない。
大きいもので人の背丈ほど、小さいもので親指の先ほど。重なっているものもある。離れているものもある。壁全体が、円で埋まっていた。
ミルカは、その壁の前で止まって、動かなくなった。灯りを持つ手だけが、少しずつ上がっていった。
「……これは、全部、文です」
「読めるか?」
「読めません。ですが、文です。同じ形が、繰り返されています」
ヨナスは火の前に座って、曲がった指を火にかざした。爪が、どれも短く割れている。
「わしらは、読める。書けん」
「どういう意味だ?」
「その壁に彫ってあることの意味は、分かる。子供のうちに覚える。だが、新しく彫っても、何も起きん。……200年、何も」
「術が失われた、ということですの」
フィーネが訊いた。
「失われてはおらん。そこにある」
年寄りは、壁を指した。
「そこにあるのに、動かん。動かし方だけが、無い」
俺は、壁の円を見ていて、1つだけ分かることがあった。
「これは、魔法陣じゃねえな」
ヨナスの右の目が、こちらを向いた。
「陣は、組んだら働く。これは働かねえ。働かねえってことは、これは陣じゃなくて——」
「書き方だ」
年寄りが、先に言った。
「陣の、書き方を書いたものだ。料理の作り方を壁に彫っても、腹は膨れん」
ミルカが、振り返った。
「ヨナスさん。写しを取ってもよろしいですか」
「駄目だ」
「では、覚えます」
「……覚えるのは、止められん」
ミルカは、莚の上に座り直した。座って、壁の方を向いた。それきり、その晩、火が小さくなっても、一度も動かなかった。
夜半、ヨナスが俺を外へ呼んだ。割れ目の中ほどに、岩を削った段がある。そこに2人で座った。空が、細く切り取られて見えた。星が、1本の川のように並んでいる。
「男。お前、何者だ」
「ゼノだ」
「名を訊いておらん」
ヨナスは、右の目で空を見ていた。
「門のところで、お前は弓を折ると言った。あれは脅しではなかろう。折れる者の言い方だった。折れる者が、折らずに待つと言った。……そういう者を、わしは1人だけ知っておる」
「誰だ」
「名は知らん。18年前まで、この谷に通ってきておった」
俺は、空から目を離した。
「魔界の者だ」
年寄りは、そう言った。
「角は無かった。人の形をしておった。だが、冬至の晩に来るのに、外套が濡れておらん。雪の中を来て、濡れておらんのだ」
「何しに来てた」
「壁を見に来ておった」
ヨナスは、曲がった指を組んだ。
「12年、来た。年に1度か2度だ。来ると、その壁の前に3日座っておる。何も言わん。帰りに、必ず1つだけ訊いていく」
「何を訊いた」
「『今年、新しく彫った円はあるか』——それだけだ」
「あったのか?」
「1度だけある。29年前だ。わしの兄が、1つ彫った」
年寄りは、そこで言葉を切って、しばらく星を見ていた。
「兄は、その冬に死んだ。彫った円は、彫った翌る朝に、誰かに削られておった」
「削ったのは、その魔界の奴か」
「違う」
ヨナスは、はっきりそう言った。
「あの者は、削るなら隠さん。削ったのは、この谷の者だ」
「なんで分かる」
「削り方が、上手すぎた」
俺は、少し黙ってから、いちばん訊きたいことを訊いた。
「その魔界の奴は、18年前に来なくなったんだな」
「来なくなった」
「最後に来たのは」
「18年前の冬至だ。その晩、あれは初めて、帰りに違うことを訊いた」
ヨナスは、組んだ指を解いた。
「『ここに、誰か来たか』と訊いた。……わしは、来ていないと答えた。嘘を言った」
「誰が来てた」
「聖国の者だ。その年の秋に、2人来ておった。円の写しを取らせろと言ってきたのを、断った。だが、朝になったら、壁の下の段に紙の屑が落ちておった」
「写しを取られたのか」
「取られた。わしは、それを言わなかった」
年寄りは、白い方の目を、指で一度押さえた。
「言えば、あの者は聖国へ行ったろう。行けば、こちらに火の粉が飛ぶ。……わしは、谷を守った。あの者は、その冬から来なくなった」
18年前だ。俺が死んだのが18年前で、その者が来なくなったのも18年前だ。俺の側近は3人。そのうち、冬至に雪の中を濡れずに歩ける者は、1人しかいない。
黒髪の男だ。
魔界9層の底で、18年ぶりに立ち上がった男。
「……あいつか」
「知っておるのか」
「知ってる」
ヨナスは、それ以上訊かずに立ち上がった。段の縁で止まって、こう言った。
「男。1つだけ言うておく」
「あぁ」
「お前が今夜わしに訊いたことを、明日、谷の者の前で訊くな」
年寄りは、こちらに背を向けたままだった。
「18年前に何があったかを知りたがる者が、この谷には、《《わし以外にもおる》》」




