第9話 壁
あれから、追手は来なかった。それが、かえって悪かった。
一度失敗した相手が、何日も何もしてこない。金で集めた連中なら、面子を潰されて必ず二の矢を放つ。それが無いということは、次の一手を練る余裕があるということだ。
(……嫌な引き際だな)
俺は馬の上で、そればかり考えていた。
エリシアが変わったのは、あの夜からだった。口数は減っていない。喋る中身が変わった。
それまでの道中は、俺に情報を渡し続けていた。国の成り立ち。領主の名。関所の抜け方。渡すことでこちらの興味を測っていた。今は、俺に質問しかしてこない。
「ゼノ様は、なぜ2000年前の記録を」
「言っただろう。探し物がある」
「何をお探しなのですか」
「言えない」
「昨日も、そう仰いました」
「今日も言えない。あんたはただ、約束を守ってくれりゃいい」
エリシアは黙った。それから、また訊いてきた。
「その探し物が見つかったら、ゼノ様はどうなさいます」
俺は答えなかった。答えは決まっている。次元魔法の手がかりを掴んだら、俺はこの国を出る。天界へ行く方法を探し、見つけて、俺を殺した相手のところへ行く。
エリシアの兄がどうなろうと、エリシアがどうなろうと、関係ない。
そのはずだった。
(……なんで黙るんだ、俺は)
「なあ」
俺は話を変えた。
「エリシア。あんた、なぜ俺に訊く?」
「……はい?」
「兄の後ろに誰かいる。それが分かったのは4日前だ。それからあんたは、俺のことばかり訊いている。訊くべき相手は俺じゃないだろう」
背中越しに、エリシアの身体が強張ったのが分かった。あの夜から、リィナと入れ替わって俺の後ろに乗っている。顔は見えない。だが身体は正直だ。
「……ゼノ様が」
そこで止まって、言い直した。
「ゼノ様が、いなくなられたら、と」
蹄の音だけが続いた。
「いえ。……いえ、そうではなく」
急に早口になった。
「兄が相手なら、勝てるのです。兄は優しい人ですから、刺客を放っておいて、それでも眠れていないはずで、顔を合わせさえすれば、わたくしは兄を——」
そこで詰まった。
「兄を」
同じ語を2度言って、その先が出てこなかった。
「後ろに誰かいるなら、話が違う」
「……誰と話せばよいのか、分かりません」
声が、少しだけ子供に戻っていた。18だ、と俺は思った。
俺から見れば餓鬼だ。
「エリシア。契約の話をしよう」
後ろで、身じろぎがあった。
「あんたは俺を王都まで生きて連れて行けと言った。俺は書庫を見せろと言った。それだけだ。それ以外は何も約束していない」
「……はい」
「だから、これは約束ではない。あんたが誰と話せばいいか分からねえうちは、俺が横にいてやる。書庫を見終わるまではな」
返事はなかった。背中に、重さが掛かった。エリシアの額だった。蹄が揺らすたびに離れかけて、また戻ってきた。
俺は手綱を持ち直した。厄介な話になった。俺は次元魔法を探しに来ただけで、人間の国の内輪揉めに首を突っ込むつもりなど、これっぽっちもなかった。
なかったはずだ。
◆
その夜、リィナが俺の隣に座った。火の番だ。エリシアは眠っている。今夜はよく眠っていた。
「殿下に、何を仰いましたか」
前置きがなかった。座るなり、それだった。
「聞いていなかったのか?」
「風下におりましたので」
嘘だ、と思った。リィナの耳は、風上でも風下でも同じだけ聞こえる。
「横にいてやると言った」
「……横に」
「眠れるようにしただけだ」
「どのように、ですか」
「言って聞かせた」
リィナは火に枝を放り込んだ。放り込み方が荒くて、火の粉が俺の膝まで跳んできた。
「何を、でございますか」
「忘れた」
「忘れた」
次の枝は、火に押し込んだ。手が、炎の縁に近すぎた。引いた指の腹が赤くなっていたが、リィナはそれを見もしなかった。
「殿下が、今夜はよく眠っておられます」
「……そうか」
「あの方が、ゼノ様の前で眠るのは初めてです」
俺は火を見ていた。言われるまで気づかなかった。この道中、エリシアは俺より先に眠ったことがない。俺が座禅を組んでいる間、必ず起きていた。俺が横になってから眠り、俺より先に起きていた。
(そりゃそうか)
「気づいていなかった」
リィナは返事をしなかった。枝をもう1本、膝で折った。
「リィナは気づいていたのか?」
「はい」
リィナは短く答えて、それから付け足した。
「わたしも、そうしていましたので」
「なら、今夜は寝ろ」
「寝ません」
リィナは火から目を上げなかった。
「殿下が寝ておられますので」
それきり、枝を折る音だけがした。
◆
7日目の昼だった。丘を越えた。馬を止めたのはリィナだ。止めて、何も言わずに前を指した。
平野の向こうに、灰色の帯があった。最初、俺はそれを山だと思った。だが山にしては直線が多い。長い。地平の端から端まで、途切れずに続いている。
壁だ。人間が積んだ壁だった。
その内側に、街があった。町ではない。街だ。俺が先日通った宿場町が、丸ごと百個は入る。屋根が重なり、煙が幾筋も上がり、中央に白い塔が突き立っている。
手綱を握る指に、いつの間にか力が入っていた。
(……人間ってのは)
魔物より弱い。魔力も薄い。詠唱に長い言葉を並べて、陣を1枚回すのがやっとの生き物だ。
その生き物が、これを積んだ。
誰も1人では積めない。何万人が、何十年もかけて、少しずつ積んだのだ。俺が独りで器を広げたのと同じことを、こいつらは自分たちの外側でやっている。
(……そういう手があったのか)
「ヴァリス王都、リグレアでございます」
エリシアが言った。声に、これまでにない硬さがあった。ここから先は彼女の戦場だ。
「ゼノ様」
「なんだ」
「わたくしは、これより王女に戻ります」
「元から王女だろう」
「道中は、そうではありませんでした」
彼女は俺を見た。
「道中、ありがとうございました」
俺は壁を見ていた。あの内側に王宮があり、書庫がある。2000年前に天使が降りて人間に魔法を教えたという記録が、どこかに埋もれている。
俺の探し物は、そこにある。
(さて)
俺は馬の腹を蹴った。
(——行くか)
◆
城門をくぐり、街を抜け、王宮の前まで来たとき。門の前に、20人が並んで待っていた。
俺たちが今日この時刻に着くことを、誰にも知らせていないはずだった。




