第8話 手際
馬というのは、楽ではなかった。2人乗りで3日走った。尻が痛い。腿の内側が擦れて、皮が剥けた。復元で消せる程度の傷だが、消すたびにリィナが妙な顔をするので、途中からやめた。
前に座っている女は、背筋を伸ばしたまま3日過ごしていた。馬の揺れに合わせて、腹に力を入れ続けている。3日もそれをやれば、腹筋が悲鳴を上げているはずだった。
(意地でも寄りかからん気か)
好きにさせておいた。
◆
4日目の夕方、俺は違和感に気づいた。
鳥だ。
街道沿いの林から、鳥が飛び立つ間隔が一定すぎる。追い立てているものが、こちらと同じ速さで移動している。
「エリシア。後ろに何人いる?」
王女は振り返らなかった。さすがだ。
「……分かりません。気づいておられたのですか」
「今しがただ」
「わたくしは昨日から」
俺は少し黙った。
(言えよ)
◆
その夜、火は焚かなかった。窪地に馬を伏せさせ、3人で岩陰に入った。月は細い。俺には好都合だが、この2人にとっては最悪の条件だ。
「ゼノ様」
リィナが低く言った。
「わたしが前に出ます」
「必要ない」
「必要です」
語尾が硬かった。俺は闇の中で、彼女の顔の方へ目をやった。見えなかったが、どんな顔をしているかは分かった。
「一度死にかけた場所へ、また出るつもりなのか?」
「はい」
止める理由はいくらでもある。リィナが前に出たところで、俺の仕事は一手も減らない。むしろ庇う分だけ増える。合理では、答えは決まっている。
だが、リィナは3日、一度も寄りかからなかった。腹に力を入れ続けて、4日目の今日もそうしていた。
「1人だけだ。あんたが斬るのは1人。それ以上は俺がやる。2人目に手を出したら、その場で担いで下がらせる」
闇の中で、誰かの喉が鳴った。
「……よろしいのですか」
「よくはない」
「だが、リィナがそうしたいんだろう」
来たのは、夜半だった。12人。前と違う。
足音が揃っていない。わざと揃えていないのだ。三方から、間隔を空けて、こちらの逃げ道を1本だけ残して寄せてくる。残された1本の先には、たぶんもう1人か2人が伏せている。
そして——2人が、詠唱を始めた。
「風よ、我が刃に——」
掌に陣が浮かんだ。2枚だ。
中級。
エリシアが息を呑んだ。《《この規模の追手に中級が2人》》というのが、何を意味するか分かる人間の呑み方だった。
リィナが動いた。俺が思っていたより、ずっと速かった。
最初に踏み込んできた男の剣を、彼女は受けなかった。半歩内側に入って、刃の腹に肩を当てて流し、そのまま男の脇の下へ入った。剣を抜くのではない。押し込んだ。男が声を上げる前に、彼女は柄から手を離して、後ろへ跳んだ。
1人。
彼女は、そこで止まった。2人目が来ていた。目の前にいた。それでも彼女は剣を抜かず、俺の方へ半歩下がった。
(——ほう)
◇
——ゼノ様と約束した1人目で、止まれた。
わたしは、自分でも驚いておりました。目の前に敵がおりました。あと半歩で届く距離です。斬れました。あの岩場のわたしなら、斬っておりました。斬って、次を斬って、そのまま囲まれて死んでおりました。4人がそうやって死にました。わたしだけが、命じられて走りました。
脚が、勝手に下がったのです。
下がってから、腹が立ちました。止まれた自分にか、止めた方にか、分からないまま、柄を握った手の中がぬるついておりました。
俺は前に出た。掌に陣を1枚。4枚も要らない。この程度なら、1枚で足りる。
光魔法を糸に絞った。光糸。赤子の俺が蟲の脚を切るのに使った技だ。あれから何万回使ったか分からない。今は、髪1本の細さで、20歩先まで届く。
振った。
詠唱していた2人の喉が、同時に開いた。陣が2枚とも、回りきる前に消えた。
「なっ——」
「後ろだ! 後ろに——」
俺は残りを片付けた。10を数えるより早かった。
静かになってから、俺は最初に倒れた男のところへ戻った。しゃがみ込む。まだ温い。こめかみに指を当てた。
(——借りるぞ)
流れ込んできた。
そして、俺は眉を寄せた。
「エリシア」
俺は立ち上がった。
「この連中は、あんたの兄が寄越したものじゃない」
「……え」
「こいつは依頼主を知らねえ。金を渡してきた男の顔しか覚えていない。その男も、たぶん途中の1人だ」
闇の中で、王女が動く気配があった。
「あんたの兄は、そういうことができる人間か?」
「……いいえ」
声が硬かった。
「兄は、刺客を雇うのに自分の家紋の入った金貨を使うような人です」
「だろうな」
俺は最初の襲撃を思い出していた。10人。統一感のない装備。目撃者をその場で始末しようとする短慮。あれは、素人が金で集めた素人だった。
今夜の12人は違う。逃げ道を1本だけ残す。中級を2人混ぜる。依頼主を末端に知らせない。
「あんたの兄にしては」
「手際が良すぎる」
エリシアは、何も言わなかった。
兄が妹を殺そうとしている。それは、まだ耐えられる話だ。兄妹の話だからだ。だが、兄の後ろに誰かがいるとなれば、話が変わる。
それは王家の話ではなくなる。
伏せた馬が、一度だけ鼻を鳴らした。
「兄は」
エリシアの声だった。
「兄は、知っているのでしょうか。その、後ろの……それとも、知らないで」
そこで切れた。
俺は空を見上げた。月が細い。
(知るかよ)
と思ったが、口には出さなかった。
「さあな」
「だが、あんたの兄よりは骨のある相手だろうな」
返事はなかった。
リィナが、剣を拭っていた。さっき自分が刺した男の血を、布で丁寧に落としている。手が震えていた。3日前までは、俺の靴を縫うことで手を動かしていた。今夜は、人を1人殺した手を拭くことで動かしている。
俺はその横に立った。
「1人だけだったな」
「……はい」
布が止まった。リィナが顔を上げた。今度は視線が下がらなかった。
「2人目も、いけました」
声が大きかった。馬の傍にいたエリシアが振り返るほどだった。
「あぁ」
「だから止めた」
リィナは何か言い返そうとして、口を開けたまま言葉を探していた。見つからなかったらしい。また剣を拭き始めた。さっきより、布を押しつける力が強かった。
夜が明けるまで、誰も眠らなかった。王都まで、あと6日。
厄介なことになってきた、と俺は思った。
思ったが——
(……まあ、退屈するよりはマシか!)




