第7話 天使の絵
6日目に、街道へ戻った。追手を撒いたと判断したのはエリシアだ。山際の道は安全だが遅い。父の余命を考えれば、いつまでも遠回りはしていられない。
「宿場町がございます。そこで食料を整えて、馬を買いたく思います」
「金はあるのか?」
エリシアの答えが、少し遅れた。
「路銀は、護衛の者が預かっておりました」
それだけ言って、首から下げていた鎖を引き出した。先に小さな石がついている。逃げるときに持ち出せたのは、それだけらしい。
「これを。売れば、馬の2頭くらいには。……石だけを外して売ります。留め金には紋が入っておりますので」
半日歩きながら、そこまで考えていたことになる。俺は考えていなかった。
町は、俺が想像していたより小さかった。石を積んだ塀があり、門があり、門番が2人いる。塀の内側に家が100軒ほど。中央に広場があって、そこに市が立っていた。
俺は門をくぐった瞬間、足を止めた。
匂いだ。焼いた小麦。獣脂。革。汗。腐りかけた果物。煙。糞。香草。それが全部、同じ空気の中で混ざっている。
あの穴で俺が嗅いできたのは、血と岩と腐肉だけだった。この町の空気は、そのどれとも違う。汚いといえば汚い。だが、生きているものが密集していないと出ない匂いだった。
(……ほう)
エリシアは頭巾を目深に被り、リィナは俺の半歩後ろについた。3人とも黙って歩いた。ここで王女の顔が割れれば、手間は一気に増える。
だが、誰も俺たちを見なかった。
正確には、見はする。だがすぐに目を逸らす。汚れた旅装の若い男女が3人。この町では珍しくもないのだろう。魔界では逆だった。強い者は、どこにいても場所を空けられた。
広場で、人だかりができていた。覗くと、痩せた男が台の上に立っていた。前に置かれた鉄の桶に、木屑が入っている。
男は両手を掲げ、腹の底から声を出した。
「灼け——火よ、我が指に宿れ!」
掌の上に、陣が浮かんだ。
1枚。
ゆっくりと回っている。回りきったところで、男の指先から拳ほどの火が飛び、桶の木屑に落ちた。煙が上がり、火が立った。見物人が拍手をし、何枚かの銅貨が男の足元に投げられた。
俺は動かずに、それを見ていた。
詠唱が長い。あれだけの言葉を並べて、陣が1枚。組み上がるまでに、俺なら30回は殺せる時間がかかっている。
だが引っかかったのは、台の上の男が誇らしげだったことだ。そして見物人が、それを見て手を叩いたことだ。
(……これが、人間界の魔法か)
「旅の芸人です。町にはよく参ります」
エリシアが頭巾の陰から小声で言った。
「魔術師と名乗れるのは、中級からですので。この町ですと、中級は領主の館に1人か2人……上級となれば、王都でなければおりません」
俺はもう一度、台の上の男を見た。拳ほどの火。それで銅貨をもらって、明日も生きる。
俺は自分の掌を見た。ここで4枚重ねれば、この広場は消える。人も、市も、塀も。《《やろうと思えば、今すぐ》》できる。
そう思った直後に、別のことも思った。
やって、何になる。
赤子の頃、俺は蟲1匹を殺すのに半日かけた。あのときの俺なら、台の上の1枚が喉から手が出るほど欲しかったはずだ。俺はあの男を笑えない。
(……妙な気分だ)
石は、見込みどおりの値で売れた。馬は2頭。荷を積むには足りる。
「2人乗りで参りましょう。リィナは、ゼノ様と」
「わたしが殿下と乗ります」
「ゼノ様と乗りなさい」
「殿下の後ろを空けるわけには参りません。わたしは護衛で——」
「リィナ」
名前を呼ばれただけで、リィナが石になった。耳の先から赤くなっていく。一昨日の晩のことを、エリシアは今日まで一度も口にしていない。
「荷は、どちらに積みますか」
「荷とご一緒がよろしいのでしたら、そう仰ってくださいませ」
「……そうは、申しておりません」
「では、ゼノ様と」
リィナは唇を結んで、手綱を受け取り、鞍の上のどこに座るかを目で測っていた。前へ寄れば背が当たる。後ろへ引けば落ちる。何度測っても、鞍は長くならない。
エリシアは自分の馬の腹帯を締めながら、そちらを見ていた。締める手が、途中で止まっていた。
俺は口を挟まなかった。
日が傾いた頃、俺は町の外れで足を止めた。崩れかけた建物があった。屋根の半分が落ちて、壁だけが残っている。人の出入りはない。石の色から見て、この町のどの家より古い。
「あれは」
「古い祈堂です」
エリシアが答えた。
「今はもう誰も使っておりません。町の外れに、たいてい1つは残っております」
俺は中へ入った。
床は苔と落ち葉に埋まっていた。天井が抜けて、西日が斜めに差している。
正面の壁に、絵があった。顔料はほとんど剥がれ、輪郭だけが残っている。それでも何が描かれているかは分かった。
人がいる。地面に膝をついて、上を見上げている。その上に、翼のあるものが浮かんでいた。手を差し伸べている。
差し出された掌の上に、円が描かれていた。
1枚ではない。
俺は数えた。剥落していない部分だけで、4枚。その外側に、まだ線の続いた跡がある。5枚目があった位置だ。
背中に汗が伝った。この身体になってから、こんな感覚は初めてだ。恐怖ではない。もっと単純なものだ。
当たりだ。
2000年前、天使は本当にここへ来ている。田舎町の、誰も使わない廃屋の壁に、剥がれかけたまま2000年残っている。そして描いた者は、天使の掌に何枚の陣があったかを、数えて描いていた。
「ゼノ様?」
エリシアが後ろから覗き込んだ。
「……よくある絵ですが。どの祈堂にも、似たようなものが。天使が人に恵みを授けた、という場面だそうです。子供に聞かせるもので、学者は誰も」
「本気にしていない、か」
「はい」
俺は壁に掌を当てた。剥げかけた顔料が、掌の下でざらついた。2000年前の記録を御伽噺と呼び、その御伽噺を町ごとに1枚ずつ壁に描き残したまま、この国の誰も見ていない。
王宮の書庫に何が眠っているのかは、まだ分からない。だが、少なくとも——
探すべきものは、確かにこの世界にある。
外に出ると、日が沈みかけていた。リィナが馬の手綱を引いて待っている。俺と目が合って、視線が下がった。それでも今日は、逃げなかった。
「……長く、おられました」
手綱を握ったまま、リィナは地面に向かって言った。
「中に。先ほどの絵に、何かございましたか」
本当のことを話す理由はない。話せば、俺が何者かという話になる。
だが、訊いてきたのはリィナが初めてだった。
「昔の絵だ。俺の探し物が、嘘ではないという話だ」
リィナは、それ以上訊かなかった。ただ、手綱を持つ手に力が入ったのが見えた。
馬に乗った。俺の前にリィナが座り、背を丸めて、耳まで赤くしていた。
背筋が、板のように固い。馬が一歩踏み出すたびに、その板が俺の胸に当たる。当たるたびに、もう一段固くなった。
「息、してるか?」
「しております」
「してねえだろ」
「しております」
呼吸の音はしなかった。代わりに、手綱を握った指の関節が白くなっていた。俺は手綱の上からその手を押さえて、握りを一度緩めさせた。リィナの肩が跳ねて、板がさらに固くなった。
隣の馬から、エリシアが見ていた。
「リィナ。背を、お預けなさい」
「……結構です」
「落ちますよ」
「落ちません」
エリシアは頭巾の陰で口元を押さえた。指の隙間から、息の漏れる音がした。
「殿下」
「何も申しておりません」
王都まで、あと10日ほどだという。




