第6話 四日目の夜
2日目の夜も、視線はあった。3日目もだ。
俺は火から離れた岩の上で脚を組み、いつも通り息を整える。木立の陰で誰かが息を殺す。位置は毎晩少しずつ違う。風上を避け、火の光が届かない場所を選んでいる。そこは訓練された動きだった。
だが、そこから先が素人だった。
じっとしていられないのだ。半刻もすると足を組み替える。小枝を踏む。息を継ぐ。そのたびに気配が揺れて、こちらに位置を教えてくる。
3日で、俺は仮説を3つ立てた。
1つ目。護衛としての見張り。これは初日に立てて、初日のうちに捨てた。見張るなら視線を散らす。一点を凝視し続けたりはしない。
2つ目。俺を殺す機会をうかがっている。筋は通る。素性の知れない男が主人の傍にいる。信用できないなら、寝込みを襲うのが一番確実だ。だが4日目の朝になっても、彼女は俺に水袋を投げ返してくるだけだった。殺す気の者が、相手に水を投げて寄越すことはない。
3つ目。俺が何をしているのか知りたい。これが一番ましだった。夜中に岩の上で座っている男は、誰が見ても妙だ。魔術師としての興味なら、覗きに来る理由になる。
だが、それなら訊けばいい。
この4日、リィナは俺に一度も質問をしていない。
その代わり、彼女はやたらと働くようになった。3日目の朝には、俺の靴の破れを縫っていた。昼には俺の分の水を汲んでいた。夜には焚き木を割って、火の番をして、俺が座る岩の上の苔まで払っていた。
俺は好きにさせておいた。自分でやれないことではない。だが、やってくれる者がいるのにわざわざ奪う理由も、俺にはない。
「リィナ」
エリシアが見かねて声をかけた。
「そこまでなさらなくてもよろしいのですよ」
「いえ」
リィナは手を止めずに答えた。
「リィナ」
「靴の、踵が抜けておりましたので」
エリシアはリィナの手元の靴を見て、俺の足元を見て、もう一度靴を見た。それから焚き木の方へ行って、黙って1本くべた。
その晩、火の番をする背中を眺めた。
リィナのことを、俺は何も知らない。
飯を作る。繕い物をする。水を汲む。火を絶やさない。生活というものを丸ごと引き受けている。
前世にも、そういう者はいた。魔王の城には人手がいくらでもあった。飯は出てきたし、寝床は整っていたし、破れた衣は翌日には直っていた。
誰がやっていたのかを、俺は一度も見ていない。
今、目の前でやっている女は、見える。
傷はもうない。俺が消した。そして——毎晩、俺を見に来る。
(……ふむ)
俺は何も知らないままここまで来たらしい。
◆
4日目の夜だった。視線が来た。いつもの位置より少し近い。
俺は目を開け、振り向かずに言った。
「そこにいるのは分かっている」
息を呑む音がした。枝が鳴り、それから止まった。
「取って食いはしない。出てきたらどうだ」
リィナが木の陰から出てきた。剣は置いてきていた。両手が空いている。それが妙に無防備に見えて、俺は少し意外に思った。俺の前で手ぶらになるのを、4日前までは死んでも嫌がっていたはずだ。
「……申し訳ありません」
リィナは俯いたまま言った。
「お邪魔をするつもりは」
「邪魔ではない」
俺は脚を組み直した。
「ただ、4日も続くと気になる」
「あの」
リィナは何か言おうとして、口を開いて、そのまま固まった。
顔が赤い。火の色ではないと思う。俺の座っている岩は、火から10歩は離れている。
この4日で集めた材料を、俺はもう一度並べ直した。
毎晩見に来る。だが何も訊かない。手ぶらで出てくる。俺の靴を縫い、水を汲み、苔を払う。顔が赤い。言葉が出てこない。
前世の記憶を漁った。
魔界で、俺に何かを求める者は、たいてい直接そう言った。力が欲しい。地位が欲しい。庇護が欲しい。誰も4日もかけなかった。
だが、口に出しにくいものも、いくつかはあった。
俺は結論に達した。
「リィナ」
「あんた、俺の子供が欲しいのか?」
長い沈黙があった。
リィナの顔が、赤いを通り越して、色として説明のつかないものに変わっていくのが火明かりでも分かった。目が大きく見開かれ、口が何度か開いて閉じた。
「ハ」
声が出た。
「ハゥゥぅゥ……」
それが言葉なのか悲鳴なのか、俺には判別がつかなかった。リィナは両手で顔を覆い、そのまま後ろへ2歩下がって、踵を返して走り去った。木立の中で何かにぶつかる音がして、それから遠ざかっていった。
俺は岩の上に残された。
(……違うのかよ)
妙だ。材料は揃っていたと思う。毎晩見に来る。何も訊かない。世話を焼く。顔が赤い。並べればそうとしか読めないはずだった。もっとも、読めていたとして、あの反応の説明はつかない。欲しいなら頷けばいい。欲しくないなら首を振ればいい。どちらでもないなら、どちらでもないと言えばいい。
なぜ走って逃げる。おい、待て。答えろ。
(……妙だな、人間ってのは)
俺は思わず口の端を上げた。答えはあるはずなのに、口から出てこない。魔物にはなかった仕組みだ。あの穴で俺が相手にしてきたものは、腹が減れば襲い、殺されれば死んだ。
これは、退屈しない。
火の傍で、誰かが咳払いをした。エリシアだった。眠っていると思っていたが、上体を起こしてこちらを見ている。
「起きていたのか?」
「……途中から」
エリシアは口元を手で押さえていた。押さえきれていない。
「笑うところか?」
「い、いえ。……いいえ」
言い直しても、声の端がまだ揺れていた。
「あれは、そういう意味ではないと思います」
「では、どういう意味だ?」
「それは」
エリシアは言いかけて、首を振った。
「……わたくしの口から申し上げることではありません」
エリシアの目が、一瞬だけ動いた。俺の顔と、リィナが走り去った方角とを、2度往復した。それから彼女は毛布を引き上げ、頭まで被った。
「……子供、ですって」
毛布の中から、声がした。俺に向けた声ではなかった。
俺は火の音を聞きながら、さっきの目の動きを反芻していた。あれは、面白がっている目ではない。
勘定をしている目だ。側近が俺に懐けば、俺はこの一行から離れにくくなる。2か月の護衛が、2か月で終わらなくなる。
(……食えねえ娘だ)
俺は目を閉じた。利用する側と、利用する側だ。今のところ、まだ互角のようだった。
◆
翌朝、リィナは俺の顔を見なかった。水袋を渡すときも、荷を分けるときも、視線が俺の胸のあたりで止まって、それ以上は上がってこない。声をかけると肩が跳ねた。
それでいて、俺の靴はまた縫い直されていた。




