第5話 見られている
朝、俺は服を着た。村の女が持ってきたのは、麻の上下と、革の帯と、底の厚い靴だった。どれも誰かのお下がりで、袖が少し短い。着てみると、肌の上に薄い膜を貼られたようで落ち着かなかった。ダンジョンで俺の身を覆っていたのは、魔物の皮1枚だ。布というものは、こんなに重いものだったか。
「よくお似合いです」
エリシアが言った。
似合うも何もないだろう、と思ったが、口には出さなかった。エリシアは、《《嘘を言うべき場所》》を知っている。嘘が上手いのとは別の技術で、たぶんそちらの方が厄介だ。
◆
村を出たのは、日が昇りきる前だった。北へ向かう。王都まで、徒歩で20日ほどかかるという。街道を使えば半分で済むが、街道は使えない。追手が見張っているからだ。だから俺たちは、山際の細い道を選んで歩くことになった。
先頭は俺。真ん中がエリシア。しんがりがリィナ。
この並びを決めたのはリィナだった。俺を前に置いておけば、少なくとも背中を刺されることはない。素性の知れない男を主人の後ろに立たせるくらいなら、目の届く前に置く。
歩きながら、エリシアはよく喋った。国の成り立ち。王家の歴史。街道と関所の仕組み。どの領主が兄に近く、どの領主が中立を保っているか。喋りすぎだと思うほど喋った。話が途切れると、足音と、リィナの鞘が腿に当たる音だけになる。そうなると、エリシアはすぐに次の話を始めた。
俺に情報を渡して、こちらの興味の在処を探っているのだろう。それでいい。この国の政治に、俺の欲しいものはない。
「魔法について訊きたい。この国じゃ、どう教えてる」
エリシアは少し驚いた顔をして、それから、話の種ができたのを喜ぶように指を折り始めた。
「火、水、土、雷、風。それから治癒。人が扱えるのは、この6つとされております。階位は下から、初級、中級、上級、特級。特級に届く者は、一国に数えるほどしか——」
「4つか」
「はい?」
「いや」
俺は前を向いたまま答えた。
4つではない。その上に天級があり、極級があり、そして魔級がある。人間が知らないだけだ。知らないのは当然で、届かない高さに名前を付ける必要はない。
ヴァルゼードが立っていたのは、その一番上だ。
今の俺は、4段目にいる。
「空間は」
エリシアが、ひとつ瞬きをした。
「……空間、と申しますと。物語に出てまいります。壁を越える、扉のない部屋へ入る——そういう類の。古代の魔法ですので、使えた者がいたという記録は残っておりますが、術そのものは失われております。今の人間に扱えるのは、六属性だけでございます」
「次元は」
「じげん」
エリシアが、その音をそのまま繰り返した。意味の分からない言葉を、口で確かめるときの繰り返し方だった。
「……申し訳ありません。存じません」
知らない、ではなく、存じません。王女が学ぶ範囲には、本当に無いのだ。
空間はおとぎ話で、次元は言葉すら残っていない。2000年で、人間はそこまで忘れたか。
「特級に届いたやつは、その先で何をする」
「宮廷魔術師になります。あるいは、軍で隊を率いるか……」
そこで止まって、エリシアは首を傾げた。先、という語が引っかかったらしい。
「その先は、ございません。上がないと、皆が思っておりますので」
この世界は、そもそも魔力が薄い。魔王だった俺でさえ、この体で特級まで戻すのに18年かかった。魔界なら、同じところへ1年で届いていた。
俺は自分の掌を見た。人間界は、まるで修練に向いていない。
だから探している。
「ひとつ、知らない言葉がある」
「勇者、というのは何だ?」
エリシアの足が、わずかに止まった。後ろで、リィナが息を詰める気配もあった。
「……ご存じないのですか」
「知らねえ」
エリシアが噴き出した。
歩きながら口を押さえて、背を丸めた。村の子供でも知っている話を、18の男が真顔で訊いたのだ。そこまでは分かる。引っかかるのは、その笑いが途中で止まったことだった。エリシアは口を押さえたまま、ちらりと後ろのリィナを見た。リィナは笑っていなかった。エリシアの手が、口から離れた。
「……申し訳ございません」
誰に向けた詫びなのか、俺には分からなかった。
「勇者は、この世界にひとりだけ、生まれてくる者です。誰が任命するわけでもありません。ある日、どこかの国に、そういう子が生まれる。そして死ねば、また別のどこかに次が生まれます。魔界や天界から何かが来たとき、それに抗える唯一の人間、とされております」
さっきまでより、声が平らになっていた。俺は歩きながら、その言葉を頭の中で2度繰り返した。
「そいつは、何を使うんだ?」
「光の魔法を」
光。
俺は、右手を軽く握った。昨日、10人を殺した手だ。その掌の中に、闇も光も同じように灯る。理由は分からないままだ。だが今の話が本当なら、この人間界で光を使う者は、天使と勇者だけということになる。
そして俺は天使ではない。
人前で光を使えば、勇者と間違われる。あるいは、勇者でないと分かった瞬間、もっと厄介な何かだと思われる。
勇者は、天界から漏れ出したものを宿している。
それはつまり——天界と人間界の間に、《《通り道がある》》ということだ。
「その勇者は、今どこにいる?」
「存じません」
エリシアは首を振った。
「名も、国も、公にはされておりません。生きているのか、それすら」
「そうか」
俺は前に向き直った。今の俺が会いに行ったところで、何も引き出せない。
まずは書庫だ。
昼を過ぎた頃、リィナが俺の隣に並んだ。
それから半町ほど、何も言わなかった。言うことを決めてから来たわけではないらしい。
「ゼノ様」
「なんだ」
「昨日の……あれは」
彼女はそこで詰まった。俺は足を緩めなかった。
「わたしは、あの傷で死ぬはずでした」
淡々とした声だった。事実を読み上げるような言い方だ。
「腸まで届いていました。宮廷の治癒術師でも、3日はかかります。3日ももちません」
リィナは、自分の脇腹に手をやった。もう傷の無いところだった。
「なぜ、お助けくださったのですか」
考えるまでもない話ではある。歩けない人間を連れて歩けば、半日が2日になる。2日のあいだ、俺は飯にありつけない。あのときの俺の頭にあったのは、その勘定だけだ。
そう答えてやってもよかった。だが、リィナは今、自分が死ぬはずだったという話を、他人事のような声で口にした。4人の仲間が死んだ次の日に、自分の命の話を、こんな声でする。
「気が向いた」
リィナの足が止まった。俺は2歩先で振り返った。
「……気が」
リィナは俺の言葉をなぞりかけて、途中でやめた。
「死ぬはずでした。わたしは」
同じことを、もう一度言った。今度は、声が平らにならなかった。語尾が上ずって、彼女は自分の声に驚いたように、手の甲を口に当てた。
何か返すべきなのだろうと思った。何を返すのかは、出てこなかった。
リィナは頭を下げなかった。俺の脇を抜けて、エリシアの後ろへ戻っていった。来たときより、足が速かった。
(……何が気に食わねえんだ?)
答えは出なかった。
日が傾いた頃、木陰に腰を下ろした。エリシアが水袋を回してくる。
リィナは少し離れた岩に座り、剣を膝に置いていた。研ぐでも拭くでもなく、ただ膝に載せている。
エリシアが立って、水袋をリィナのところへ持っていった。
「飲みなさい」
「後で頂きます」
「今」
リィナは剣から手を離さなかった。エリシアは水袋を差し出したまま立っていた。風が2度吹いて、2度とも同じ枝が鳴った。それからエリシアは水袋をリィナの足元に置いて、戻ってきた。水袋は、日が落ちるまでそこにあった。
俺はリィナの横顔を眺めた。昨日から一度も泣いていない。仲間が4人死んで、自分だけが生き残って、それでも一度も。
前世で、俺の下にも、生き残ったことを詫び続ける類の部下が何人かいた。俺はそいつらに何と言ったのだったか。思い出そうとして、やめた。たぶん、何も言っていない。
日が落ちた。窪地に火を焚き、エリシアは丸まって目を閉じた。寝息のような息になるまで、1分もかからなかった。
俺は火から離れ、平らな岩の上に座った。
脚を組む。掌を膝の上に置く。目を閉じる。これは毎晩やってきたことだ。
魔力は、戦いのほかでも増える。器の縁を内側から押し広げる作業がいる。息を深く整え、身体の底に溜まっているものを、ゆっくりと循環させる。一晩でどれだけ増えるかといえば、微々たるものだ。杯に落ちる霧の粒ほど。
だが毎晩やれば、それも積もる。特級で止まっている今、俺にできるのは、これくらいしかない。
どのくらい経った頃か、視線に気づいた。
目を開けなくても分かる。火の向こう、木立の陰。息を殺しているつもりらしいが、殺しきれていない。
リィナだ。
俺は目を閉じたまま、座り続けた。
(見張ってやがるのか?)
それが最初に浮かんだ答えだった。妥当な線だ。素性の知れない男が夜中に起きて妙なことをしている。護衛としては見ておくべきだろう。だが、それにしては様子が違う。見張るなら、もっと離れた場所から見る。もっと視線を散らす。あんなふうに一点を凝視したりはしない。
俺は少し考えて、考えるのをやめた。
人間の女が何を思っているかを推測するのは、前世から苦手だった。あの3人の側近には、その件で散々呆れられた記憶がある。
まあ、いい。害はない。
俺は息を整え直し、また身体の底へ意識を沈めた。
視線は、火が細くなるまで残っていた。
◆
翌朝、リィナは目の下に薄い隈を作っていた。エリシアが心配して声をかけると、「眠りが浅かっただけです」と答えていた。眠っていないのだから、浅いも何もない。
俺は水袋を彼女に投げた。リィナは慌てて受け止め、それから深く頭を下げた。
昨日、俺を見る目には怯えしかなかった。今朝は、それに何かが混ざっている。
何が混ざったのかは、分からなかった。




