第4話 取引
最も近い集落まで、半日ほどかかった。道中、俺たちはほとんど口をきかなかった。
年上の方は、リィナという名前らしい。時折、無意識のように自分の脇腹へ手をやっていた。そこにあるはずの痛みを確かめて、無いことに驚いて、手を下ろす。それを半日繰り返していた。俺の背中を見ている気配もあった。剣の柄からは、まだ手を離していない。
王女の方は、俺の3歩後ろを歩いていた。3歩。近すぎず、遠すぎず。腕を伸ばしても届かず、呼べばすぐ届く。無意識の距離ではないと思う。
その3歩が、一度だけ崩れた。
昼を過ぎた頃だ。エリシアが急に足を止めて、来た道を振り返った。岩場はもう丘の向こうで、見えない。
「……戻ります」
リィナが振り向いた。
「殿下」
「あの者たちを、岩の上に置いてまいりました。あのままでは、鳥が——誰が誰だか、分からなく——」
戻ると言いながら、足は動かない。唇だけが、同じ言葉を繰り返していた。誰が誰だか。誰が。
リィナが主人の腕を取った。リィナの手の方が震えていた。
「日が暮れます」
「分かっております」
「殿下」
「分かっていると、申しております!」
声が裏返った。エリシアは自分の声に驚いたように口を閉じた。それからリィナに腕を引かれるまま、また俺の3歩後ろへ戻った。
俺は2人が揉めているあいだ、道端の石に腰を下ろして待っていた。死んだ者のために半日の道を戻る理由が、俺には分からなかった。
集落は小さかった。20軒あるかないか。畑と、井戸と、家畜の囲い。それだけの場所だ。
王女は、村の外れにある1軒の家に迷わず向かった。扉を叩くと、老いた女が出てきた。王女の顔を見て、目を丸くして、それから深く頭を下げた。老いた女の声は低く、中身までは聞き取れない。だが「王女様」という単語だけは拾えた。どうやら、この村は王女の側に属しているらしい。
俺は家の中へ通された。
飯が出た。平たい麦のパンと、豆と塩漬け肉のスープと、山羊の乳。
俺はそれを見下ろした。あの穴で俺が食ってきたのは魔物の肉だ。生のまま噛みちぎることの方が多かった。
湯気が立っている。匂いがする。塩と、脂と、火の匂い。
(ほう)
俺は手を伸ばした。スープを口に含んだ瞬間、思わず動きが止まった。
(なんだこれは)
塩気が、舌の上で広がる。ただそれだけのことだった。だが久しぶりの塩は、そのただそれだけのことで、頭の芯を殴ってきた。
旨い。何だこれは。旨いじゃねえか。
人間が国を作り、王を立て、他人を殺してまで土地を欲しがる。その根に、これがある。
これは、確かに守る価値がある。
俺は2杯目を要求した。
王女の椀は、減っていなかった。
匙を持ったまま、スープの表面に浮いた脂の輪を見ている。老いた女が心配そうに何か言い、エリシアは頷いて、匙を口元まで運んだところで止めた。湯気が顎に当たっていた。
匙が椀に戻って、縁で小さく鳴った。
「……失礼いたします」
立ち上がって戸口を出たところで、足音が乱れた。咳き込む音と、何かを吐く音が続いた。リィナが椅子を倒して後を追った。
俺は王女の椀を引き寄せた。少し冷めていたが、塩は同じだけ効いていた。
戻ってきたエリシアは、顔と手を濡らしていた。井戸で洗ったのだろう。前髪の先から水が落ちている。自分の椀が空になっているのを見て、何も言わずに座った。リィナは戸口の脇に立ったまま、座らなかった。
「ゼノ様」
様。俺を様付けで呼ぶ人間は、ずいぶん長いこといなかった。前世では飽きるほどいたが。
「……どこから、いらしたのですか」
「あの穴からだ」
戸口で、リィナが息を呑む音がした。王女の方は、表情を変えなかった。膝の上で、濡れた指が一度だけ握られた。
「あそこは、罪人が送られる場所です。入った者は、2度と出てまいりません。では、貴方様は——」
そこで止まって、先を言わなかった。
俺はパンを口に入れた。硬いが、噛むほどに甘い。
「さあな」
「ゼノ様」
王女がもう一度、俺を呼んだ。今度は、姿勢が変わっていた。背筋が伸びている。両手を膝の上で揃えている。俺の目を、まっすぐ見ていた。
「わたくしは、ヴァリス王国が第一王女、エリシア・ヴァリスと申します」
知っている。死体から読んだとは言えないので、黙っていた。
「本日は、お助けいただきありがとうございました」
「助けた覚えはない」
「……はい?」
「俺は殺されかけたから殺し返しただけだ。あんたらは、ついでだな」
沈黙が落ちた。リィナが、剣の柄を握り直したのが視界の端に見えた。
エリシアが、笑った。
声が出たのだ。短く、息の抜ける音だった。本人がいちばん驚いたらしい。口を手で押さえたが、押さえた指の間から、もう一度漏れた。肩が揺れている。笑うときの揺れ方には見えなかった。
「殿下」
リィナが呼んだ。エリシアは手を下ろさずに首を振った。
「……ついで、で、ございますか」
「そうだ」
「そう、ですか。……ついで」
押さえた手の下で、何度か同じ語を転がした。何がおかしいのか、俺には分からなかった。手が膝に戻ったときには、目の縁が赤いだけだった。
「……それで、結構です」
俺はパンを置いた。目の前の娘を、初めて正面から見た。
18歳。汚れた髪。破れた服。足の裏には、おそらく血が滲んでいる。さっき胃の中のものを全部吐いた。その状態で、取引を持ちかけようとしている。
「聞かせてくれ」
俺が言うと、エリシアは頷いた。
「わたくしの兄は、ヴァリス王国の第一王子です。エルドと申します」
エルド。記憶の中にあった名前だ。
「父が、床に伏せております。順序でいえば、兄が継ぎます。血筋にも、年にも、異を唱える者はおりません。ただ、この国には、代々王の傍に仕える家が——表には出てまいりません。名を口にするのも憚られる家です。王家がこの200年、大きく誤らずに済んだのは、その家が誤らせなかったからだと、父は申しておりました。その家が」
エリシアは、そこで一度息を継いだ。声が少し落ちた。
「その家が、わたくしを推しております。兄ではなく」
「懐刀か」
「……そう呼ぶ者も、おります」
俺はパンをちぎる手を止めた。血筋でも年の順でもなく、王の最も近くにいる家が選んだ。
「わたくしが望んだのでは、ございません。望むかどうかは、関係がないのです。あの家が推した。それだけで、わたくしは兄にとって——」
言葉が切れた。エリシアは、さっきまで自分の椀があった場所に目を落とした。
妹が憎いわけではないのだろう。妹という選択肢があるだけで、兄の玉座に罅が入る。だから消す。前世の俺なら、妹が城を出る前に片付けている。辺境まで逃がした時点で、兄の手際は三流だ。
「あんたの兄は、手際が悪いな」
俺が言うと、エリシアは目を伏せた。
「……優しい人でした」
少し間があった。
「……優しい、人です」
その言い直しで、俺は少しだけ考えを改めた。
三流なのは手際ではない。
《《迷い》》だ。
「それで、俺に何をさせたい?」
エリシアは顔を上げた。
「父は、2か月もたないと医師が申しております。父が死ねば、兄が王になります。王になれば、刺客は要りません。わたくしを消すのに、隠れる必要がなくなるのです。ですから、父が生きているうちに、王都へ」
「戻れば殺されるんじゃないか?」
「はい。ですから」
エリシアは、まっすぐに言った。
「わたくしを、王都まで生きて連れて行っていただきたいのです」
「兄を殺せ」とも「味方になれ」とも言わない。求めるものを、俺が断りにくい大きさまで削ってある。
「エリシア。俺が2か月も大人しく護衛をやると思ってるのか?」
「思っておりません」
エリシアは即座に答えた。
「ですから、対価を伺いたいのです。貴方様が何を欲しいのか」
口の端が動くのを、止められなかった。飯だけが目的の人間なら、村に着いた時点で消えている。俺は消えなかった。それだけの材料で読まれた。
(……読み違えてたな)
俺は椅子の背にもたれた。そして言った。
「古い記録を見せてくれ」
エリシアが、初めて表情を崩した。
「……記録、ですか」
「王宮に書庫があるだろう。この国が建ってから溜め込んだ記録が。それを、残らず見せてくれ」
「それは……構いませんが」
「何をお探しなのですか」
「2000年前の話だ」
「2000年」
「天使が人間界に降りてきて、人間に魔法を教えた。そういう話が残っているはずだ」
エリシアは目を瞬かせた。
「……それは、御伽噺です。子供に聞かせる類の。学者は誰も本気にしておりません」
「だろうな」
俺はもう一度、パンをちぎった。
「だが、俺は本気だ」
リィナが、俺とエリシアを交互に見ていた。
「殿下」
剣の柄を握ったままの、低い声だった。
「王宮の書庫を、この者に。素性も知れない者です。岩場で、何をしたか——」
「リィナ」
「ですが」
「リィナ」
2度目は、1度目より低かった。リィナは口を閉じて、主人ではなく俺を睨んだ。
「……承知いたしました」
エリシアは頭を下げた。
「王宮の書庫を、貴方様に開きます。王女の権限で叶う限り、すべて」
「叶わない部分は」
「叶うようにいたします」
言い切った。
「じゃあ、契約成立だ」
俺が言うと、エリシアは小さく息をついた。
そして、その目の奥で、何かが動いた。安堵より、もっと硬くて、もっと冷たいもの。
(ああ)
こいつは今、俺を手に入れたと思っている。2か月あれば、素性不明の男を飼い慣らす時間としては十分だ。そう計算している。
◇
——ゼノ様は、たぶん人ではありません。
わたくしは、わたくしの分までスープを3杯飲んだ男を見ながら、そればかり考えておりました。今、平たい麦のパンを噛んで、驚いております。パンです。
卓の下で、膝の上の手が震えておりました。岩場からずっとです。止めようとして握ると、爪の間に、乾いた血が黒く残っているのが見えました。誰の血なのかは、考えないことにいたしました。
——使えます。
口の中で、そう言ってみました。言うと、震えが少し収まりました。
収まったので、もう一度言いました。
俺は自分の椅子に深く座り直した。
結構。俺の方も、こいつを使い潰すつもりでいる。
「ゼノ様」
エリシアが呼んだ。
「明日の朝、発ちます。よろしいですか」
「ああ」
「その前に、ひとつだけ」
エリシアは、少し言いにくそうにした。
「……服を、お召しになっていただけませんか」
俺は自分の腰に巻いた魔物の皮を見下ろした。そういえば、これで半日歩いてきた。村の女が悲鳴を上げなかったのは、たいした胆力だったということになる。
「用意してくれ」
「はい」
エリシアは頭を下げた。顔を上げたとき、その口元がわずかに緩んでいた。




