第3話 女の匂い
光の中へ出た瞬間、俺は一度、足を止めた。眩しかったからではない。目は数日前から徐々に慣らしてきた。
匂いだった。
風が、乾いている。血と腐肉と鉄錆で塗り固められた空気が、一息で洗い流された。かわりに流れ込んできたのは、草と、土と、遠くの水の匂い。
地上だ。
感慨に浸る時間は、3秒ほどしかなかった。
目の前で、人が死んでいた。
ダンジョンの入り口は、崖に空いた裂け目のような形をしていた。その手前が、なだらかな岩場になっている。そこに、10人ほどの男が立っていた。全員が武装している。革の胴当て、短剣、片手剣。統一感はない。だが動きには規律があった。
男たちが囲んでいるのは、2人の女だった。
ひとりは、俺と同じくらいの年格好。長い髪が汗と土で額に張りついている。上等な布の服が、裾から引き裂かれていた。もうひとりは、少し年上。20かそこらだろう。片膝をついて、剣を杖のようにして身体を支えている。左の脇腹が赤黒く濡れていた。
2人の周りには、他にも人が倒れていた。数えて、4人。全員が同じ意匠の外套を着ている。誰も背を向けていない。4人とも、2人の女を庇う向きのまま倒れていた。
まだ温かい。死んだのは、ついさっきだ。
(ふん)
俺は特に何も思わなかった。人が死ぬ。よくあることだ。前世では俺自身が数え切れないほどそれを作ってきた。今さら胸を痛める趣味はない。
通り過ぎようとした。
そこで、風向きが変わった。
女の匂いがした。
汗と、血と、土。それらに混じって、もっと下の層にある匂い。
俺は足を止めた。自分が止まったことには、あとで気づいた。
喉が鳴った。奥歯を噛んだ。この身体が、俺の許可も取らずに反応している。
(おい、待て)
18年だ。18年、俺が嗅いできたのは、魔物の体液と、自分の血と、湿った岩の匂いだけだった。人間の女の匂いなど、この身体は一度も知らない。
だが俺の中身は、知っている。ヴァルゼードには側近が3人いた。全員が女だった。理由は特にない。強い者を選んでいったら、たまたまそうなっただけだ。少なくとも俺はそう説明していたし、本人たちは誰も信じていなかった。
あの3人の匂いを、俺は覚えている。
(……ああ、そうかよ)
俺は、《《女が好きだった》》。
ずいぶん久しぶりに思い出した。
男のひとりが、こちらを向いた。
「おい」
俺と目が合った。男は少し驚いた顔をして、それから、ひどくつまらないものを見る目になった。無理もない。俺は裸に近い格好をしていた。魔物の皮を巻きつけただけの、およそ服とは言えないものを腰に垂らしている。髪は伸び放題だ。
男が、何か言った。
意味は分からない。人間界の言語など、俺は一度も学んでいない。魔界の言葉が通じるはずもない。
だが、こちらを見下している音だということは分かった。侮る声というのは、どの界でも同じ響きをしている。
これは、いささか興が削がれる。
言葉を交わせない相手は、殺すしかない。殺すのは構わないが、それだと何も分からないまま終わる。ここがどこで、こいつらが何者で、あの女たちが何なのか。
解決策は、ひとつしかなかった。
俺は歩き出した。
男たちの脇を抜けて、倒れている4人の方へ。
誰かが叫んだ。刃の擦れる音がした。構わなかった。
俺は一番手前の死体の横にしゃがみ込んだ。外套の男だ。首の骨が折れている。目が半分開いたままで、口の端から血が垂れて、乾きかけていた。
まだ温い。
こめかみに、指を当てた。
(借りるぞ)
魂が抜けきる前なら、残滓は読める。前世でよく使った手だ。魔力はほとんど要らない。要るのは技術の方だ。
流れ込んできた。
言葉。単語。文法。数の数え方。名前。地名。
そして、この男が今日ここで死んだ理由も。
俺は目を開けた。
ずいぶんと、都合のいい拾い物だった。
俺と同じ年格好の方が、ヴァリス王国の王女だ。名をエリシア。この男は彼女の護衛で、王都から6日、追われ続けてここまで来た。追っているのは彼女の兄が放った刺客だ。王位が欲しい。妹が邪魔だ。それだけの話らしい。
男は最後に、こう考えていた。
——あと少し。あと少しでいい。殿下が逃げ切るまで。
逃げ切っていない。
(……ふん)
まあ、いい。
俺は立ち上がった。指についた血を、腰の皮で拭う。
背後で、また誰かが何か言った。
今度は、意味が分かった。
「——おい、餓鬼。何してやがる」
餓鬼。
(あぁ、この身体は18だ。忘れていた)
だが年季で言えば、ここにいる全員が俺から見れば餓鬼だ。声の主も、囲まれている2人も、たぶんこの国の王も。
俺は振り返った。
そして、人間に向かって口を開いた。
「ク、ク……ククク……」
声が掠れた。喉が言葉の出し方を忘れている。それでも、出た。
「いい気分だ。俺の話を聞く相手がいるってのはな」
男たちが顔を見合わせた。
無理もない。流刑地の底から這い出してきた半裸の餓鬼が、仲間の死体を漁った直後に、流暢に喋り出したのだ。
「なんだこいつ」
「言葉が……さっきまで通じてなかったろ」
「気味が悪い。やっちまえ」
最初の男が短剣を抜いた。迷いのない手つきだった。目撃者を残さない。それだけの判断を、3秒で終えている。
「判断が早いな。褒めてやろう」
「だが、順番が違う」
「あ?」
「その女どもは、後だ」
俺は指を1本立てた。
「今、お前らが相手をするのは俺だ。まとめてかかって来い!」
男が踏み込んできた。速い。人間としては、かなり速い部類だ。
だが遅い。
掌に陣が4枚、音もなく重なった。
俺は右手を、軽く払った。
それだけだった。男の身体が、横に飛んだ。岩場を2度跳ねて、動かなくなった。
残りの9人が、ようやく事態を認識した。
「なっ——」
「詠唱が——詠唱がなかったぞ!?」
「陣が、4枚……」
「ばけも——」
「喚くな。耳障りだ」
俺は前に出た。
ダンジョンの魔物より遅い。ダンジョンの魔物より脆い。ダンジョンの魔物より、はるかに単純な動きをする。
2人目。喉の下に指を差し込むだけで済んだ。
3人目と4人目は、間合いに入る前に地面ごと吹き飛ばした。
5人目が剣を振り下ろしてきたので、刃を掌で受け止めた。金属が砕ける音がした。男の顔が、砕けた刃と同じ形に歪んだ。
「なあ」
俺はその顔を覗き込んだ。
「お前ら、あの4人を殺したんだってな」
男が何か言おうとした。言わせなかった。
「別に怒っちゃいない。俺には関係のない話だ」
俺は男の頭を掴んだ。
「ただ、あいつは最後まで主人のことを考えてた。お前らは金のことを考えてた。同じ土の下に入るのが、少し不公平に思えてな」
6人目が逃げようとした。
逃がす理由がなかった。
「おい、どこへ行く?」
俺は歩きながら言った。急がなかった。急ぐ必要がない。
「まだ何も聞いてないぞ。名前も、雇い主も、故郷も。まあ、聞いたところで覚える気はねえが——」
男の背中が遠ざかる。
俺は光糸を伸ばした。
髪一本の細さの光が、20歩先の膝の裏を通り抜けた。男が転んだ。起き上がろうとして、脚が言うことを聞かないことに気づいた。
悲鳴が上がった。
「クハハハハハハッ!」
笑い声が、崖に跳ね返って戻ってきた。
自分の声とは思えなかった。あの穴で、この喉が笑ったのは数えるほどだ。それが今、勝手に転がり出ている。
「そうだ、それでいい! 喚け! もっと喚け! 18年ぶりなんだよ、人の声ってやつはな!」
最後のひとりが倒れたとき、あたりは静かになっていた。
俺は自分の手を見た。汚れている。だが傷はひとつもない。
あの穴に落ちた頃、蟲1匹を殺すのに半日かかった。今、10人殺すのに、十を数えるほどもかからなかった。
(……そういうことかよ)
◇
——宮廷で育ったわたくしにも、理解が、追いつきませんでした。ただ、そこに立っておりました。
掌に浮かんだ陣は、4枚。
4枚です。
宮廷魔術師でも、生涯をかけて3枚に届くかどうか。父の代の筆頭が4枚に届いたと聞きましたが、あの方は詠唱に10を数えるほどかけておられました。
この方は、何も唱えておりません。
人を殺しながら、笑っておられた。
リィナが、わたくしの前に出ようとして、動けずにおりました。この者は主人を守るために膝が立たなくなるまで剣を握った女です。その女が、動けずにいる。
助かった、とは思えませんでした。
わたくしたちを囲んでいたものより、はるかに悪いものが、いま目の前に立っている。
振り返ると、2人の女が俺を見ていた。
年上の方は、剣を構えようとして、構えきれずにいた。手が震えている。傷のせいではないと思う。王女の方は、微動だにしていなかった。目だけが、大きく見開かれている。
助けたつもりはないが、結果として助かったのは事実だろう。それでこの顔をされるのは、どういう理屈なのか。
(まあ、いいか)
俺は2人に近づいた。
年上の方が、俺と自分の主人の間に割り込もうとした。片膝が立たない。それでも身体を割り込ませようとしている。
俺はその娘を見下ろした。それから、少しだけ顔を近づけた。匂いを嗅ぐ。
「ひっ」という声が出た。
次に、王女の方へ顔を向けた。同じようにした。娘は動かなかった。悲鳴も上げなかった。ただ、こちらを睨んでいた。
(へえ)
「エリシア王女殿下」
娘の肩が、大きく跳ねた。
「なぜ、名を」
「そこに転がってる男が教えてくれた」
俺は顎で死体を示した。
「いい部下を持ったな。最後まであんたのことしか考えてなかったぞ」
娘の顔から、血の気が引いた。
俺は、それを見て少し不思議に思った。褒めたつもりだった。事実を伝えただけでもある。
まあ、いい。
俺は本題に入った。
「そこの2人。何か食べるものはないか?」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
年上の娘が、口を半分開けたまま固まっている。
王女の方は、瞬きを3回した。
それから、こう言った。
「……ここには、ありません」
声は震えていた。それでも、言葉は最後まで途切れなかった。
「ですが、ついてきてくださるなら、お礼として、ご馳走します」
俺は考えるふりをした。答えは最初から決まっていた。
「——いいだろう」
娘の肩から、わずかに力が抜けたのが分かった。同時に、その目の奥で何かが動いたのも分かった。
俺が岩場で「拾い物だ」と思ったのと、そう遠くないものだ。
(……ふん)
利用するつもりの相手が、こちらを利用するつもりでいる。対等な取引というものだ。
だが、ひとつ障りがある。
年上の娘が、まだ片膝をついたままだった。脇腹が赤黒く濡れている。立とうとして、そのたびに膝が落ちる。この状態の人間を連れて歩けば、半日が2日になる。2日のあいだ、俺は飯にありつけない。
俺はその娘の前にしゃがんだ。彼女が身を固くした。剣を取ろうとして、手が届かなかった。
「動くな」
手を伸ばし、指先を傷の上に置いた。血で濡れる。構わない。
治癒魔法は、俺にとって格下の部類だ。覚えてはいるが使ったことがほとんどない。魔界で誰かの傷を塞いでやる機会など、1000年に一度もなかった。だから加減も知らない。
俺は、自分に届く一番上を使った。
復元。
光が、掌の下で膨らんだ。女の身体が跳ねる。裂けた肉が内側から縫い直され、血が引き、皮が閉じる。瞬きする間もなかった。指をどけると、そこには汚れた布の裂け目と、汚れていない肌があった。
痕もない。
年上の娘が、自分の脇腹に触れた。何度も触れた。喉の奥から、咳とも笑いともつかない音が1つ漏れて、彼女は慌てて口を押さえた。それから顔を上げて、俺を見た。
王女の方は、動かなかった。だが、その顔から血の気が引いていた。さっき10人が殺されたときよりも、明らかに。
「……4枚を、詠唱もなしに」
王女はそこまで言って、口を閉じた。
(詠唱? なんの話だ)
俺は指を見た。血が乾き始めている。おかしなことをしたつもりはない。
俺の知らないことがある。そう思ったが、訊く相手がいなかった。この2人に訊けば、こちらが何も知らないと教えることになる。
黙っておいた。
年上の娘が、身体を起こしながら尋ねてきた。
「貴方様のお名前は?」
名前。
そこで俺は、初めて詰まった。ヴァルゼードと名乗るわけにはいかない。この身体は人間で、この世界で魔王の名を出せば、どうなるかは分かりきっている。
少し考えた。といっても、2秒ほどだ。適当に音を並べた。それらしく聞こえて、口が動きやすいもの。
「俺の名は、ゼノだ」
そう名乗った。




