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第2話 十八年

最初の1年で学んだのは、この身体が驚くほど脆いということだった。骨が細い。皮が薄い。血が足りない。魔物の爪が掠めただけで肉が裂け、裂けた傷は3日も塞がらない。前世なら傷跡になることすら許さなかった程度の攻撃で、俺は何度も死にかけた。


だから、動かないことを覚えた。巣穴のような岩の窪みに背を預け、近づいてきたものだけを殺す。餌を待つ蜘蛛の生き方だ。かつての俺が最も嫌った戦い方だった。


嫌う資格が今の俺にないだけの話だ。


初めて自分の脚で立ったのは、2度目の冬だった。いや、冬という言葉が正しいのかは分からない。地上を見たことがないのだから、季節など知りようがない。ただダンジョンの底には、時折ひどく冷える時期があった。岩肌に霜が降り、魔物の動きが鈍くなる。俺はそれを勝手に冬と呼んでいた。


その日、俺は岩に手をついて身体を起こした。膝が笑う。足首が定まらない。3歩進んで、膝から崩れた。もう一度立った。5歩。もう一度。


9歩進んだところで、正面の闇が動いた。


四足の獣型。体高は俺の倍。牙の並びから見て、噛みつきに特化した造りだ。これまでなら、寝転がったまま迎え撃っていた。関節を切って動きを止め、喉を裂く。座ったままでもできる仕事だった。


だがその日、俺は立ったまま待った。


獣が跳んだ。半歩、右へ。自分でも驚くほど、身体が言うことを聞いた。牙が空を切り、獣の首が俺の脇を通り過ぎる。その通過の一瞬に、俺は光糸(こうし)を差し込んだ。耳の後ろ。頭骨の継ぎ目。そこだけは薄い。


獣は着地して、2歩進んで、崩れた。


俺は立ったままだった。膝は笑っていたし、息も上がっていた。それでも立っていた。


2年かかった。ヴァルゼードだった頃なら、2年あれば魔界を統一できていた。


時間の数え方は、途中で諦めた。冷える時期を数えていたが、7つ目あたりで億劫になった。そもそも正確に分かったところで意味がない。俺がやることは変わらないからだ。


殺す。魔力が増える。また殺す。それだけを、ひたすら繰り返した。何百体目かは覚えていない。何千体目かも分からない。ただ巣穴の周りには骨が積もり、積もった骨が崩れ、崩れた骨がまた土に還っていく程度の年月が過ぎた。


その間に分かったことがいくつかある。


ひとつ。この階層の魔物は、殺しても湧く。どこかから染み出してくるとしか思えない速度で補充される。餌が尽きる心配だけはしなくてよかった。


ふたつ。強い個体ほど、殺したときに増える魔力が多い。当たり前といえば当たり前だが、これは重要な発見だった。効率を考えるなら、俺は常に「今の俺がぎりぎり殺せる相手」を狙い続けるべきだということになる。


みっつ。俺は、この作業が嫌いではなかった。


中級に届いた日のことは、はっきり覚えている。その日、俺はいつものように光糸を組もうとした。


糸が、太かった。


意図したより太い。細く絞ろうとしたのに、指先から出てきたのは縄ほどの束だった。制御を誤ったのかと思った。もう一度やった。同じだった。3度目で、指の力加減はひとつも変わっていないと分かった。変わったのは器の方だ。広がった分だけ、同じ握りで出る量が増えている。


俺は笑った。


(——出た! 出やがった!)


声が出た。生まれて初めて、腹の底から出る笑い方だった。誰も見ていない。それでよかったと思う。三界(さんかい)の頂点に立った男が、糸が太くなった程度で笑い転げている。


もうひとつ、変わったものがあった。


掌の上の陣が、2枚になっていた。


1枚の下に、もう1枚。少しずれて重なり、同じ速さで回っている。並べたのではない。重ねたのだ。この2枚目を組めるようになるまでに、俺は何年かけたのか。


中級とは、そういうことだった。級を分けているのは、何枚を重ねて回せるか、ただそれだけだ。


試しに、絞るのをやめてみた。術式を組み、抑制を外し、そのまま放つ。


岩壁が、抜けた。


直径にして人ひとり分の穴が、奥へ向かって開いていた。縁(ふち)が赤く溶けている。中級。人間の魔術師が生涯をかけて届くか届かないかという水準らしい。前世の俺なら、指を鳴らすより気軽に使っていた領域だ。


それでも、俺は穴の縁の赤が冷めていくのを見ていた。ゼロから積んで、ここまで来た。誰の助けも借りずに。誰にも見られずに。


(さて、どこまで行けるかね)


誰に向けた言葉なのかは、自分でも分からなかった。俺を殺した誰かか。それとも、何ひとつ知らずに死んだ前世の自分にか。


この頃に気づいたことが、もうひとつある。


俺がこの糸に使っているのは、光魔法だった。最初は気に留めていなかった。魔力を絞れば何かしら見えるものだ、程度に思っていた。だが壁を抜いたあの日、溶けた岩の縁を見て、ようやく違和感が形になった。


あれは闇魔法ではない。


悪魔が扱えるのは闇魔法だ。例外はない。俺がヴァルゼードだった頃、指先から溢れていたのは常に黒だった。そういうものだと決まっている。光魔法は天使のものであって、俺たちの側には流れてこない。


試しに、闇魔法を放ってみた。掌に陣が浮かび、黒が滲む。当たり前だ。俺は悪魔だ。


次に、光魔法を放った。


これも出た。


俺は両手を見比べた。左に闇魔法。右に《《光魔法》》。同時に灯って、互いを打ち消しもせず、ただそこにあった。


(……なんでだ?)


答えは出なかった。人間の身体だからか。だが人間は光魔法も闇魔法も扱えない。あれは火や水を覚えるのが精一杯の種族だ。ならばこれは、人間の性質でもない。転生の仕掛けが何かを間違えたのか。あるいは、俺が知らないだけで、こういうことは起こりうるのか。


考えたが、材料が足りなかった。生まれてこのかた、俺の傍にいたのは魔物だけだ。誰にも訊けない。


(まあ、いいか)


俺は両手を握って、光魔法と闇魔法を消した。理由は分からない。だが使える。


使えるものを使わない理由は、俺にはない。


そこから先は、速かった。中級に届くと、狩れる相手が変わる。狩れる相手が変わると、増える魔力の量が変わる。増える量が変わると、また狩れる相手が変わる。


坂を転がるように、俺は下の階層へ潜っていった。いや、違う。俺がいたのは最初から最深部だ。これ以上、下はない。


だから俺は、横へ広がった。この階層は広い。俺が18年かけて歩き回ってなお、端に辿り着いた実感がないほどには。奥へ進むほど魔物は濃く、質も上がった。


最後の2年は、ほとんど毎日戦っていた。そして、ある日を境に、手応えが変わった。


殺しても、魔力がほとんど増えなくなったのだ。


俺は巣穴に戻り、久しぶりに腰を下ろした。増える速度が、落ちている。器が大きくなるほど、一滴の重みは相対的に軽くなる。杯が小さいうちは一滴で水位が上がるが、樽になれば同じ一滴では変わらない。


つまり、この階層の魔物では、もう足りない。


俺は自分の手を見た。18歳の手にしては、まだ小さい。だが指の節は太く、掌(てのひら)は硬い。爪は何度も剥がれて、そのたびに歪(いびつ)に生え直した。


この18年で、俺は特級に届いていた。掌に出る陣は、4枚。特級。人間界において、人間が到達しうる限界とされる位置だ。


だが所詮は特級だ。その上に、天級がある。さらに上に、極級。


そして——魔級。


俺がかつて立っていた場所は、そこだ。


あと3段。


(——3段だと?)


ここまで18年かかって、まだ3段ある。しかも1段ごとに、必要な量は跳ね上がっていく。同じ速さで積んだところで、次の1段に何十年かかるか分からない。


冗談じゃねえ。


(このままじゃ、届かねえな)


ここには、もう俺を強くしてくれるものがない。


考えなければならないことは、他にもあった。


次元魔法だ。


天界へ行くには、界を越えなければならない。界を越える術は、次元魔法しかない。そして俺は、次元魔法を使えない。覚えなかったからだ。強さに関係がなかった。ただそれだけの理由で、俺はあの術に一度も手を出さなかった。移動など、部下にやらせればいい。そう思っていた。


自分の怠慢が、今になって喉元に刃を突きつけてくる。


だが、望みはある。2000年前、天使が人間界へ降りて、人間に魔法を教えた。これは天界でも魔界でも知られている話だ。三界が繋がってしまったのも、そのせいだとされている。


天使が人間界に来たということは、天使は界を越えたということだ。ならば、その痕跡が、人間界のどこかに残っているはずだ。記録か、遺跡か、あるいは口伝か。形はどうあれ、何かが残っている。2000年は長いが、消えるには短い。


探せばいい。そして探すには、地上へ出るしかない。


出る前に、一度だけ寄る場所があった。


最深部の、さらに奥。天井の落ちた大空洞。俺が足を踏み入れると、水面が盛り上がった。9つの首が、闇の中から立ち上がる。


ヒュドラ。この階層の主だ。


初めて殺したのは、中級に届いた頃だった。首を落としても、断面から生え直す。力で押し切れる相手ではなかったから、俺は光糸を使った。再生を司る束を、1本ずつ探り当てて断つ。1体を殺しきるのに、半日かかった。


あの日から、俺はいつでもここを出られるはずだった。出なかった。外がどうなっているかを知らない。この身体は人間だ。前世の感覚で歩き回れば、どこで足をすくわれるか分からない。強くなってからだ、と決めた。


それから、何度殺したかは分からない。湧くたびに殺した。殺すたびに魔力が増えて、殺すのが早くなった。半日が半刻(はんとき)になり、半刻が、十を数えるほどになった。何千か、何万か。数えるのは、とうにやめている。


9つの首が、一斉にこちらを向いた。


俺は右手を上げた。


掌の上で、陣が1枚、2枚、3枚と積み上がっていく。4枚目が噛み合った瞬間、空洞の空気が下へ落ちた。


虚無(ヴォイド)。


指先から溢れたのは、黒だった。闇が空洞を満たし、水面を舐め、そして——


消えた。


首も、胴も、影も。何ひとつ残っていない。


一呼吸だった。


俺は自分の手を見下ろした。半日かかった相手だ。


(——ああ)


18年分の答えが、そこにあった。


(もう、出るか)


俺は巣穴へ戻った。18年住んだ穴を見回す。積み上がった骨。焦げた岩壁。俺が引っ掻いて数えるのをやめた、7本の傷。


名残惜しくはなかった。ここは俺を殺さなかった。それだけの場所だ。


(もっと深いダンジョンだったら、あの時死んでたな)


ふと、そう思った。俺の魂は、魔界に近い場所へ引かれた。だが、どこに落ちるかまでは決めていなかった。もっと濃い場所、もっと深い場所は、この人間界のどこかに確かにあるはずだ。そこに落ちていたら、赤子の俺は最初の1分で死んでいた。


全てを自分の力で決めてきたはずの男が、生きているのは運のおかげだった。


それでも、俺は生きている。


上を目指した。


階層を登るのは、下るより厄介だった。俺は道を知らない。地図もない。ただ空気の魔力が薄くなる方角へ、ひたすら歩いた。


途中、いくつかの人骨を見かけた。剣を持ったまま壁にもたれているもの。鎧の中身だけが失われているもの。どれも古い。この場所に人間が来ることがある、ということだけは分かった。なぜ来たのかは分からなかった。


どのくらい歩いたかも分からない。何度か眠り、何度か戦い、そして——


風の匂いが変わった。魔力の混じらない、乾いた空気。顔を上げると、遠くに白い光があった。


俺は足を止めた。18年ぶりの光だ。目の奥が、じんと痛んだ。


やがて俺は歩き出した。光が近づくにつれて、音が聞こえてきた。金属のぶつかる音。怒鳴り声。


そして——悲鳴。


(なんだ、騒がしいな)


俺は目を細め、出口へ向かって歩を速めた。

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