第1話 大悪魔、赤子になる
最初に戻ってきたのは、匂いだった。鉄と、湿った土と、腐りかけた肉。3つが混ざって、喉の奥に貼りつく。懐かしいとまでは言わない。だが、俺の知っている世界の匂いではあった。
次に戻ってきたのは、痛みだった。全身が重い。指の1本も思うように動かない。まぶたを開けるという、たったそれだけのことに力が要る。
まぶた。
俺は確か、死んだはずだ。死んだ者に、まぶたはいらない。
どういうことだ?
思い出す。天界の白い回廊。降り注ぐ光。アステリアの、少し困ったような笑い方。そして——足元から這い上がってきた、あの冷たさ。身体の内側を、何かに掴まれた。抗おうとした。抗えなかった。ヴァルゼードという名の悪魔が、生まれて初めて「抗えない」という感覚を知った瞬間だった。
そして俺は死んだ。
なのに、まぶたがある。
こじ開けた。視界が滲む。暗い。だが暗さの奥に輪郭がある。ごつごつとした岩の天井。そこから染み出す、青い燐光。見覚えのない場所だ。だが空気の質は知っている。魔力が濃い。魔界のそれとは違う。もっと薄く、もっと歪んで、何かに漉されている。
(——人間界か!)
俺は仕掛けていた。万が一に備えて、自分の魂に。もし何かに嵌められて死ぬようなことがあれば、人間界へ渡るように。
使うことになるとは思っていなかった。自分が誰かに嵌められて死ぬところなど、想像したこともなかったからだ。
視線を、下へ。
そこに、手があった。小さい。あまりにも小さい。丸くて、短くて、力の入らない、5本の指。
(……赤子か)
器が一から作り直されるなら、当然そうなる。理屈としては正しい。
正しいが、納得できるか。
三界の頂点に立った大悪魔が、寝返りも打てない肉の塊だと? ふざけるな。指の1本も曲がらねえ……首も動かせねえ。叫ぼうとして、喉が鳴りもしなかった。
笑うしかなかった。実際には、笑い声すら出なかった。喉が未発達で、ひゅう、と空気が漏れただけだ。
その音に、何かが反応した。空気が動いた。
感傷は、後だ。
闇の奥から、それは這い出してきた。人の背丈ほどある甲殻の塊。関節が多すぎる脚を8本、不規則に動かしながら、こちらへ寄ってくる。口にあたる部分が縦に裂けて、内側にびっしりと並んだ歯が見えた。
魔物だ。それも、人間界にしては上等な。この濃度の魔力。この階層の深さ。この魔物の質。
(ダンジョンの、それも最深部だな)
俺が死んだのは天界だ。魂は、そこから人間界へ落ちたことになる。
だが俺は悪魔だ。落ちる先までは選べねえ。人間界の中でも、魔界に近い場所へ引かれる。
道理で、空気が魔界に似ているわけだ。
魔物が脚を止めた。裂けた口が、こちらへ向いた。肉の匂いを嗅ぎつけたのだ。動けもしない、生まれたばかりの餌の匂いを。
俺は魔力を練った。これは呼吸と同じだ。考える必要はない。ヴァルゼードにとって魔力の行使とは、瞬きや心臓の鼓動と同じ階層にある。指先へ意識を流し、術式を組み、放つ。ただそれだけ——
掌の上に、小さな陣がひとつ浮かんだ。
1枚。
指先が、ぽう、と光った。それだけだった。
俺は自分の指を見た。豆粒ほどの、頼りない光。子供が悪戯で灯すような、小さな火。
(なんだ、こりゃ)
もう一度、練った。同じだった。
(……初級か)
いや、初級ですらないかもしれねえ。人間の子供が最初に習うという、火をつけるだけの魔法。あれと同じ水準だ。
術式が狂ったか? いや、正しい。組み方も完璧だ。何ひとつ間違っていない。
じゃあ何故だ?
足りないのは、《《魔力そのもの》》だった。
器が違う。
そういうことかよ。この身体に溜められる総量が、悪魔だった頃とは比べ物にならない。杯が小さければ、どれだけ正確に傾けようと、注ぎ出せる水には限りがある。
知識は残っている。技術も残っている。
出力だけが、ない。
魔物が動いた。
(——ならば、やりようはあるだろう!)
俺は指先の光を、消さずに保った。量が足りないなら、量で殴るのをやめればいい。魔物の甲殻は硬い。正面から砕くには、今の俺の100倍の魔力が要る。だが甲殻というものは、必ず継ぎ目で繋がっている。関節の内側、脚の付け根、口の周り。そこだけは薄い。そして生き物には、必ず神経が通っている。
俺はその光を、糸ほどの細さに絞った。直径にして髪の毛ほど。長さは指2本分。それ以上は伸ばせない。だが、足りる。
名前は、今つけた。
光糸。
魔物の脚が、俺の頭上へ振り下ろされた。その瞬間、俺は首だけを傾けた。それが、今の俺にできる唯一の回避運動だった。脚が地面を打つ。砕けた石が頬を掠める。振り下ろされた脚の付け根が、目の前に来た。
糸を、押し込んだ。抵抗はなかった。継ぎ目の膜を、細い光がすり抜ける。その奥にある束を、探り当てる。
切った。
魔物の脚が、1本、動かなくなった。悲鳴のような音が、縦の口から噴き出した。残る7本が、めちゃくちゃに地面を叩く。生き物は、自分の体が言うことを聞かなくなると必ず取り乱す。取り乱してくれるのは、ありがたい。隙だらけになるからだ。
2本目。3本目。4本目。魔力の消費は、1回につき蝋燭の火ほど。それで脚が1本ずつ死んでいく。
5本目を切ったところで、魔物は自重を支えきれずに崩れた。甲殻の腹が地面に落ちる。裂けた口が、目の前に転がった。
口の中は、柔らかい。
糸を、そこへ。喉の奥、脳へ通じる管を辿って、断つ。痙攣が2度あって、それきり動かなくなった。
静寂が戻った。
俺は仰向けのまま、天井の燐光を眺めていた。全身が汗で濡れている。呼吸が浅い。魔力はほとんど残っていない。蟲1匹を殺すのに、半日かかった。前世なら、視線を向けるだけで蒸発させていた相手だ。
情けない、とは思わなかった。それより、気になることがあった。
——魔力が、《《増えている》》。
わずかだ。本当にわずか。杯に一滴、垂らした程度。だが確かに、戦う前より器が広がっている。
まさか!
使えば、増えるのか……?
ならば話は早え!
闇の奥で、また何かが動く音がした。1匹ではない。2匹、3匹。血の匂いに寄ってきたのだろう。
(結構! いくらでも来やがれ)
目を閉じて、俺は考えた。
なぜ、俺は殺されたのか。
心当たりがない。それが問題だった。何度考えても、出てこない。俺は強さだけを求めて生きてきた。前魔王バルドロスを殺したのも、そこに世界で最も強い者がいたからだ。それ以上の理由はない。玉座に興味はなかった。統一にも、支配にも、人間界にも、天界にも、俺は何ひとつ興味を持っていなかった。
天界に恨まれる覚えはない。アステリアとも、仲は良かった。あの日、俺は代替わりの挨拶で天界へ行き、彼女と会っていた。そして、そこで死んだ。
考えるほどに、答えは遠のいた。腹の底が焼ける。
だが、ひとつだけ確かなことがある。誰かが、俺を殺したがった。そして実際に殺した。ならば、そいつのところへ行かなければならない。
人間に生まれ落ちた今、俺にできることはひとつしかない。一から力をつけて、天界に殴り込む。
闇の中で、いくつもの脚音が近づいてくる。俺は指先に、豆粒ほどの光を灯した。
(そのためには、まず——強くならないとな)




