第89話 白紙
王宮の東の小塔に、使われていない部屋がある。
先々代の王が書き物に使っていた部屋だそうだ。今は、机が1つと椅子が2つ、それに空の棚が壁一面にある。棚に何も無いのに、埃だけは毎日払われていた。
エリシアは、その部屋を選んだ。
「人が来ません。侍女も、ここには参りません」
「掃除する奴は来てるだろうが」
「わたくしでございます」
彼女は、棚の縁を指でなぞった。なぞって、その指を見た。
「8年、こうしております」
机の上に、封が2つ置いてあった。
蝋の印が割れていない。半年、割れていないままだ。押された印の縁で、蝋が白く粉を吹いていた。
「ゼノ様。座ってくださいまし」
「立ってる」
「では、わたくしも立ちます」
「座れ」
エリシアは座って、封の1通目に手を掛け、そのまま動かなくなった。
蝋を割るのに、それから、かなり長くかかった。
1通目は、短かった。羊皮紙が1枚だけだ。エリシアは、それを2度読んだ。2度目のとき、読む速さが1度目より遅かった。
「……血の審問の、申立でございます」
「誰が出した?」
「東部5家、連名で。3月の日付でございます」
「対抗戦の前だな」
「わたくしが、あなた様を代表とする決裁をした、その翌日でございます」
エリシアは、紙を机に置いた。指から離れるとき、紙の端が少し震えた。
「中身を、申し上げます」
「いい」
「申し上げます」
彼女は手袋を外して、その手を紙の上に重ねた。
「わたくしの母は、25年前に王宮へ上がりました。上がる前の2年、記録がございません。東部5家は、その2年を問うております。……わたくしが、王家の血であるかを、問うということでございます」
「あんたの母親は、どこにいる」
「20年前に、亡くなっております」
「じゃあ、誰も証明できねえな」
「証明できません。どちらにも」
封を切った方の紙が、机の上で、端から少し反っていた。
「どっちでも困るのか」
「困ります」
エリシアは、顔を上げた。
「血であると出れば、東部5家は面目を失います。失えば、次は父上を狙います。血でないと出れば、わたくしは継承権を失います。失えば、わたくしを立てていた者が全員、行き場を失います」
「だから半年、開けなかったのか」
「開けずにおけば、どちらでもございません」
彼女は、少し笑った。
「……卑怯でございます」
俺は、まだ蝋の割れていない2通目を顎で示した。
「そっちは、何だ?」
エリシアは、2通目の蝋を割って中を出し、そのまま止まった。
動かない。俺は、紙を横から覗いた。
白紙だった。
裏も見た。何も書いていない。灯りに透かしても、漉き入れの模様があるだけだった。
審問庁の印だけが、蝋に残っている。
「……これは」
「脅しだ」
俺は言った。
「中身を後から決めるってことだろうが。あんたがどう動くか見てから、書く」
エリシアは、白い紙を両手で持ち、それから机に置いて、上から掌で押さえた。
その手が、震えていた。さっきより、ずっと大きく。
「……半年、この2通が、わたくしの机の中にございました」
声が、平らだった。
「夜に、何度も開けようとしました。開ければ、決められると思いました。ですが、開けたところで、決めるのはわたくしではございません。……2通目が白紙だということは、あの人たちは、半年、わたくしを見ていたということでございます」
「見られてたのは、もっと前からだ」
「……存じております」
「腹は立つか?」
エリシアは答えずに、机の上の紙を揃え、角を合わせて、2通ともきれいに畳んだ。8年、棚の埃を払ってきた手つきだった。
「……腹は、立ちません」
「……なら、何だ」
「怖いのでございます」
彼女は立ち上がって、窓の方へ歩いた。硝子が曇っている。指で拭くと、その部分だけ、外の灯りが見えた。中庭の篝火だ。
「わたくしは、王家の血でなくなることを、恐れてはおりません」
「じゃあ何が怖え」
「血でないと分かったとき、わたくしが、ほっとするのではないかということでございます」
何を返せばいいのか分からないまま、口が動いた。
「王家の血じゃなくなったら、俺のところへ来い」
エリシアが振り返った。窓の前で、真っ直ぐこちらを見た。目は赤くない。泣く前の顔でもなかった。
「……今、何と仰いました」
「継承権が無くなりゃ、あんたは自由だろうが。だったら」
「ゼノ様」
彼女の声が、低くなった。こんな声を出す女だとは思っていなかった。
「それは、わたくしが8年やってきたことを、全部、要らないものだと仰ることでございます」
俺は、間違えた。間違えたことだけは分かった。どこで間違えたかは、分からなかった。
「……そういう意味じゃねえ」
「どういう意味でございますか」
「あんたが、潰れるのを見たくねえ」
「潰れません」
エリシアは、そう言い切ってから、自分の言葉に押されるように、一歩前へ出た。
「わたくしは、潰れません。潰れないために、8年、扉の前に立ってまいりました。父上の呼吸を数えて、代わりに決裁をして、誰にも見えないところで国旗を掛け替えてまいりました。……それを、あなた様は」
彼女は、そこで止まって、握った拳を、自分の胸の前に持ってきた。
「……それを、あなた様だけが、いつも、見ていてくださいました」
言ってから、エリシアは目を伏せ、机の上の2通を取って、胸に抱えた。
「申し訳ございません。今のは、申し上げるつもりではございませんでした」
「あぁ」
「……お忘れください」
「無理だ」
彼女は扉の方へ歩いて、その前で止まった。昨日の朝と同じように、こちらを見ずに言った。
「明後日、お発ちになるとき、見送りには参りません」
「来なくていい」
「……はい」
「来なくていいが、理由は言え」
エリシアは、扉に手を掛けたまま答えた。
「見送れば、書かれます。誰と、どこで、どれほどの間。審問庁は、そういうものを全部書きます。書かれれば……あなた様の名の横に、わたくしの名が、並ぶことになります」
「並んで何が悪い」
「並んだ名は、《《後から使われます》》」
彼女は、そこで初めて振り返った。
「わたくしは、あなた様の名を汚す紙を、1枚も作らせません。……それが、今のわたくしの、いちばん大きな仕事でございます」
俺は、机の椅子に座って、しばらく何も言わなかった。この部屋には、燭台が1つしかない。その火が、棚の空の段に長い影を作っていた。
「あんたは、どうしたい?」
エリシアは、答えなかった。
答えを待たずに、俺は立ち上がり、机の上の燭台を取って、彼女の手に持たせた。
「下まで暗い。持ってけ」
「……これは、王宮の備品でございます」
「知るか」
彼女は、燭台を両手で持って、その火を見ていた。
そのうちに、火の色が、頬に映った。
「ゼノ様」
「なんだ」
「……いってらっしゃいませ」
◆
その夜、俺は塔の階段を下りながら、さっきの間違いを探していた。
来い、と言ったのが間違いだった。そこは分かる。だが、何をどう言えば正しかったのかは、いくら考えても出てこなかった。
階段の下で、リィナが待っていた。
「ゼノ様。お顔が、変です」
「そうか」
「何を言って、怒らせたのですか」
「……分からん」
リィナは、少しの間、黙った。
「では、そのままでいいと思います」
「なんでだ」
「分かってから謝ると、それで終わってしまいますので」
俺は、リィナの顔を見た。
こいつが何を言ったのか考えているうちに、リィナは先に歩き出していた。歩幅が、いつもより半歩だけ大きかった。
出立は、明後日の朝だ。
北へ8日。石の谷。取引不可。




