第88話 取引不可
「その値をお決めになったのは、どなたです?」
聖女がそう訊いたとき、広間の誰も答えなかった。
答えを知っていそうなのは、俺とフィーネの2人だけだ。俺は知らない。フィーネは持っていて、言わなかった。
黙ったまま、腕を解いた。
「……教団の、名簿を扱う者ですわ」
「その者は」
「もう、おりません」
「存じております」
聖女は、手をつかずに床から立ち上がった。膝だけで起きる立ち方だ。
「その名簿係は、13の家名を売っております。13のうち、12は、どこにも無い家の名でございました」
「1つだけ、有ったのですわね」
「ございます」
「わたしのですの」
「はい」
フィーネの声が、平らになった。
「……高いのか安いのか、分かりませんね」
言ってから、自分で小さく笑った。下手な笑い方だった。
審問は、その場で終わった。
王が、「聖女が来た日に審問は開かん」と言って、立った。宰相が何か言いかけて、言えずに座り直した。
聖国の使節6人は、聖女の後ろに並び、誰も俺を見なかった。
広間を出るとき、聖女が俺の横に来た。
「あなたは、わたくしを殺せます」
「今のところ、殺す用がねえ」
「ございませんね。今日は」
娘は、俺の手を見た。カルナで火に入れて治した方の手だ。掌の線まで、元に戻っている。跡は残っていない。それでも、そこを見ていた。
「あなたの光は、どなたに借りたものです?」
俺は答えなかった。
◆
大学へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
東棟の3階に、全員がいた。ミルカが灯りの下に写しを並べていて、その周りにドルガとトバイアス。厨房の戸が開いていて、ポーラが鍋の前にいる。ユーリカとヴィントが、卓の端で言い合いをしている。リィナは扉の横に立っていた。
俺が入ると、言い合いが止まった。
「フィーネさんは」
リィナが訊いた。
「下だ。馬を見てる」
「馬は、わたしが夕方に見ました」
「……そうか」
リィナは、それ以上言わずに、外套を取って、階段を下りていった。
厩の前に、フィーネがいた。
灯りを持たずに、馬の首に手を当てて立っていた。リィナは、灯りを持って近づいて、3歩手前で止まった。
「フィーネさん」
「えぇ」
「馬は、夕方に見ました」
「知っています」
フィーネは、こちらを見なかった。
「見たかったのは、馬ではありませんの。厩の匂いが、好きなだけです。……教団の厩で、5年、寝起きしましたから」
リィナは、灯りを地面に置いて、フィーネの隣に立ち、何も訊かなかった。
「あなた、訊かないのね」
「訊きません」
「なぜ?」
「わたしも、訊かれたくないことがあります」
フィーネが、初めてリィナを見た。
「……あなた、弟さんのこと?」
「そうです」
「わたし、それ、訊いたことがありましたわね」
「3回です」
フィーネは、しばらく黙った。
それから、馬の首から手を離した。
「わたしに家名が要ったのは、記録に載るためです。名前だけの者は、どの帳面にも載りません。載らない者は、どこで死んでも数に入りませんでしょう」
「はい」
「数に入りたかっただけですの。《《数に入るために買った名で、数から外される》》とは思いませんでした」
彼女は言葉を止めて、袖の縁を指で折り返した。
「……よりにもよって、天の家の名でしたの」
リィナは、地面の灯りを、フィーネの顔の高さまで持ち上げた。
「フィーネさん。顔が、白いです」
「そうかしら」
「冷えます。上へ行きましょう」
2人が上がってきたのは、それから半刻あとだった。
上がってきたとき、ポーラが椀を2つ差し出した。中身はスープだ。表に脂の輪が浮いて、塩の匂いが強かった。
フィーネは、それを両手で持って、一口飲んだ。
「……しょっぱいですわ」
「そう?」
「ええ。とても」
ポーラは、鍋を見て、それからユーリカを見た。
「あんたが薄めろって言ったから、今日は減らしたんだけど」
「わたしのせいにしないでよ」
「ヴィントさんが水入れたんでしょ」
「わたしは、疑ってはおらん」
フィーネが、笑った。
椀を持ったまま、声を出して笑った。この女がそういう笑い方をするのを、俺は初めて見た。
笑って、そのまま、卓に椀を置いて、両手で顔を覆った。
ポーラが、黙って鍋から2杯目をよそい、フィーネの前に置いた。それから自分の前掛けで手を拭いて、厨房に戻っていった。
◆
その夜、俺はフィーネと2人で階段の踊り場にいた。
フィーネが来いと言ったのではない。俺が下りたら、そこに座っていた。
「ゼノ。あなた、いつから知っていましたの」
「何がだ」
踊り場の窓は、下の段が割れたままだった。そこから入る風で、フィーネの髪が一房だけ動いていた。押さえようともしない。
「ネイアが、ただの家名ではないということです」
「川沿いで、あんたが紙をくれた日だ」
「……半年、黙っていらしたのね」
「あぁ」
「なぜ仰らなかったの」
理由はあった。
言えば、この女は自分で調べて、教団の外の話に手を伸ばす。その先に何がいるか、俺には見当がついていた。
だが、それを言うと、この女は怒る。
「忘れてた」
「嘘が下手におなりね」
「6日で考えろって言ったのは、あんただろうが」
「9日ありました」
フィーネは、膝を抱えた。上品な座り方ではなかった。
「わたし、行きます」
「どこへだ」
「ネイアの一族のところへ。聖女が捜しております。捜しているということは、まだ見つけていないということですわ。わたしが先に着けば、少なくとも、わたしの顔で門は開きますでしょう」
「開くとは限らねえ」
「開かなければ、それも分かります」
彼女は、そこで顔を上げた。
「わたし、自分が何なのかを、5万で買った覚えはありません」
俺は、階段の上を見た。
扉の隙間から、灯りが漏れている。中で、まだ誰かが言い合っていた。塩の話だ。
「場所は」
「北です。石の谷、と呼ばれる場所があるそうですの。教団の古い名簿に、1度だけ出てまいります。『石の谷、取引不可』と」
「取引不可」
「ええ。名簿係の手で、そう書いてありましたの」
◆
その翌朝、エリシアが大学へ来た。
馬車ではなく、馬で来た。供は2人だけだ。階段を上がってきて、部屋に入って、外套も取らずにこう言った。
「審問は、開き直されません」
「聞いた」
「代わりに、聖女様が、王宮に滞在なさいます。期限はございません」
彼女は、そこで一度、息を継いだ。
「……わたくしは、王都を離れられません」
「分かってる」
「分かっていらっしゃらないと存じます」
エリシアは、手袋を外さないまま、その手を胸の前で握った。
「わたくしが残るのは、王女だからではございません。残って、あなた様の名の書かれた紙を、1枚ずつ受け取る役が要るからでございます。——その役は、わたくしでなければなりません」
俺には、その言い方が面白くなかった。
口に出すと、また話が長くなる。だから、別のことを言った。
「あんた、痩せたな」
エリシアが、止まった。
外套の襟の辺りを、片手で押さえた。
「……そういうことを、仰らないでくださいまし」
「痩せたのは事実だろうが」
「事実でも、でございます」
彼女の耳が、赤くなっていた。
「——お発ちはいつでございますか」
「明後日だ」
「では、明日の夜、お時間をいただきます」
エリシアは、それだけ言って、踵を返した。
扉のところで止まって、こちらを見ずに言った。
「2通の封のことを、明日、申し上げます」




