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第87話 ネイアのお血筋

王都に着いたのは、9日目の朝だった。


馬を3頭とも潰さずに戻れたのは、フィーネが川沿いの道を選んだからだ。蹄(ひづめ)の減り方を毎晩見て、日に進む里(り)を決めていた。坂を1つ減らすために、半日遠回りをする。この女は、急ぐときに必ず遠回りをする。


大学の東棟の階段を上がると、上から人が降りてきた。


ドルガだった。降りてきて、そこで足を止めて、何も言わずに膝をついた。


「仕事中の奴を跪かせるな、と言ったな」


「仕事中では、ありません」


「じゃあ、何してる?」


「待っておりました」


坑で捕らえた男は、東棟の地下にいた。


名を、オルドリクといった。名乗ったのは3日目だ。それまでの2日、水以外を口にせず、ポーラが運んだ椀は、蓋をしたまま冷めて戻ってきた。


俺が下りていくと、男は壁にもたれて座っていた。


「あんたが、ヴァルゼードか」


「今はゼノだ」


「そうか」


オルドリクは、俺の顔を上から下まで見た。品物を見る目だった。


「似ていないな。18年前に、私は一度だけ、あんたの絵を見せられた。角のある絵だった」


「絵を描いた奴が、俺を見たことがねえだけだ」


名簿は、1100人分あった。


ミルカが3日かけて数え直した。1103人。うち、生きていることが確かめられるのが、612人。


612人が、刻印を持ったまま、人間界のどこかで歩いている。


「あんたは、誰に頼まれて入れた」


「魔界の3層だ」


「誰だ」


「名は聞いていない。私は紙しか受け取らん。紙に、入れる数と、場所が書いてある。入れ終わったら、同じ場所に置いておく。翌朝には、無い」


「報酬は」


オルドリクは、自分の右手を上げた。


「これだ。この手は、60のときに動かなくなった。今、45に戻っている」


(——若返らせている)


魔界で、それができる者は限られる。


命を移す術だ。誰かの残りを削って、別の誰かに足す。前魔王バルドロスが好んだ術で、側近に配っては忠誠の代わりにしていた。削られる側は、削られたことに気づかない。ある朝、いつもより起きるのが遅くなるだけだ。


「削られてるのは、誰の分だ?」


「知らん」


オルドリクは、初めて目を逸らした。


「……訊かなかった」


俺は、それ以上訊かなかった。訊けばこの男は答えるが、それで削られた側が戻るわけではない。


審問は、その翌日だった。


王宮の大広間だ。天井が高く、梁(はり)が石で組んである。声がよく響くように造ってあって、ここで嘘をつくと、自分の声が半拍遅れて自分に返ってくる。


長い卓の向こうに、審問庁の官が5人。その横に宰相。奥の段に、王が座っていた。


聖国の使節が6人。


扉の内側に、エリシアが立っていた。座る椅子が用意されているのに、立っていた。


「殿下。お座りください」


「立っております」


「証を、お出しいただきたい」


エリシアは、振り返らずに、後ろへ手を差し出した。


その手に、シャルが紙を4枚、載せた。


「12年で、東の谷の村から連れ去られた4人の名でございます。連れていったのは、貴国の神官2名。3年に1度、新月の晩に参りました」


「その4名が、我が国にいるという証は」


「ございません」


エリシアは、はっきりそう言った。


「連れていかれた者は、戻りません。戻らない以上、どこにいるかの証は、連れていった側にしかございません。ですから、こう申し上げます。——4人を、お返しください。返せないのでしたら、返せない理由をお書きください。書いていただければ、それが証になります」


聖国の使節が、席を立った。


「王国は、辺境の村の言い分だけで、我が国を——」


「村の言い分ではありません」


俺は、扉の前から進み出た。


広間が、静かになった。2万人が黙ったときと同じ音だ。


「谷にいたのは俺だ。神官2人を殺したのも俺だ。殺した理由は、あの2人が、悪魔を谷まで連れてきたからだ」


「悪魔、と申されたか」


「あぁ」


審問庁の官が、羽根ペンを止めた。


「その者の名は」


「聞いてねえ。だが、主の名は聞いた。前魔王バルドロスの子だ。魔界の3層にいる」


広間の空気が、動いた。


宰相が、卓を押して立ち上がった。


「——お待ちを。魔界の話をここでされては、審問が成り立ちません」


「成り立たせろよ。そっちが開いた場だろうが」


「貴殿は、なぜ魔界の階層をご存じか」


この問いが来ることは、9日の道中で分かっていた。それでも、答えを用意する気にはならなかった。


「知ってるからだ」


「答えになっておりません」


「なってる。あんたらが欲しいのは、答えじゃねえ。俺をどう扱うかを、誰かに決めてもらう口実だろうが」


エリシアが、一歩前に出た。


「——審問庁に申し上げます」


声が、震えていなかった。10日前、審問庁の扉の前で声を震わせた人と同じ人の声だとは、この場の誰も思わないだろう。


「この者を王国に置いたのは、わたくしでございます。学籍を与えたのも、対抗戦に出したのも、わたくしの名で決裁いたしました。問われるべきは、わたくしでございます」


「殿下」


「お待ちを、とは申しません」


彼女は、王の方を見なかった。


「ただ、順を間違えないでいただきたいのです。この者の是非を問う前に、4人の子の行方を問うてください。順が逆になれば、この国は、子を捜さずに味方を裁いた国になります」


王が、初めて口を開いた。


「エリシア」


「はい」


「お前は、2通の封のことを、まだ誰にも言っておらんな」


「申しておりません」


「言えばよかろう」


エリシアの肩が、ほんの少しだけ動いた。


「……言えば、わたくしが、いられなくなります」


「どこにだ」


彼女は、答えずに、広間の石床を見ていた。


そのとき、扉が開いた。


外の従者が止める間もなかった。開けたのは、止めてはいけない者だった。


白かった。外套も、靴も、髪も白い。髪は腰まであって、束ねていない。歳は、ユーリカと同じくらいに見えた。目だけが、歳に合っていなかった。


聖国の使節6人が、全員、床に膝をついた。


「——聖女(せいじょ)様」


娘は、広間の真ん中まで歩いてきた。裸足だった。冷えた石の上を裸足で歩いてきて、足の裏が汚れていない。


「わたくしは、祓う者として参りました」


声が、高くなかった。天井によく響く広間で、この娘の声だけが、響かずにその場に落ちた。


「23日前、神託がございました。地の底に、狭間より還りし者あり。祓えぬならば、祓える者を立てよ、と」


娘は、俺の前で止まった。


近い。手が届く距離まで来て、この娘は何の構えも取っていなかった。魔力の気配も無い。井戸の水面のように、ただ静かだった。


「あなたですね」


「あぁ」


「わたくしは、あなたを祓いに参りました。ですが、今日は祓いません」


「なんでだ」


「祓う前に、確かめるものがございますので」


娘は、俺の顔から目を離して、俺の後ろを見た。


フィーネがいた。壁際に立って、いつも通りに腕を組んで、いつも通りの顔をしていた。いつも通りではないのは、指だけだった。二の腕に食い込んだ指が、白くなっていた。


娘が、そちらへ歩いた。


娘は、フィーネの前で止まって、膝を折った。白い外套の裾が、石の上で広がった。


聖女が、膝を折った。


聖国の使節が、6人とも、床の上で顔を上げた。


「——お迎えに上がりました」


娘は、床に額をつけた。


「《《ネイア》》の、お血筋の方」


フィーネは、動かなかった。腕を組んだまま、その腕を下ろすこともできずに立っていた。


それから、こう言った。


「……わたし、その名は、生まれ持ったものではありませんの」


「はい」


「祖父が、拾い子でしたの。名も無い子を、教団が拾って、番号で呼びましたわ。わたし、家名を買ったのです。金で。去年の秋に、5万で」


「存じております」


聖女は、顔を上げて、笑った。無邪気な笑い方だった。


「その値をお決めになったのは、どなたです?」

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