第85話 歩いている証
ゼノが王都を出て、26日が過ぎた。
ミルカは、そのことを紙に書いていた。仕事だからではない。書いておかないと、日が分からなくなる。
大学の東棟の3階に、8人が残っていた。
ドルガ、ポーラ、ユーリカ、ヴィント、トバイアス、拠点の下働きが2人、それにミルカ。以前は11人だった。3人は、ゼノについて出ていった。
朝、ドルガが階段を上がってきて、廊下の真ん中で止まった。
「疑え、と」
ミルカは、羽根ペンを置いた。
「何をですか」
「主が、そう仰いました。出られる前に。俺がいない間に、俺の言ったことを疑え、と」
「対象が指定されていません」
「ご指定は、ございませんでした」
ドルガは、胸の前で腕を組んだ。右腕の骨は、もう繋がっている。その腕で、器用に困っていた。
「ですから、全部でございます」
「全部を疑うと、朝に水を飲むことも疑うことになります。ゼノは、その、水を飲めとは……言っていません」
「……左様でございますか」
ドルガは、しばらく考えた。それから、水差しを持ち上げて、中を覗いた。
「主は、この水が安全だとも仰っておりませぬ。飲んでよいものでございましょうか」
「あんた、それ本気で言ってる?」
ユーリカが、廊下の向こうから顔を出した。
「本気でございます」
「じゃあ疑うわ。ポーラの鍋、塩が多い」
厨房の戸が、内側から開いた。
「多くないよ」
ポーラが、杓子を持ったまま出てきた。前掛けの前で、両の前腕が同じ形に硬い。脇腹の傷は塞がったが、まだ右半分の動きが少し遅い。
「昨日、あんた2杯おかわりしたよね。多かったら2杯飲めないでしょ」
「飲めるわよ。あたし、しょっぱいの好きだもの」
「じゃあ多くていいじゃない」
「多いことは認めるわけ?」
ヴィントが、そこを通りかかって、誰にも何も言わず、卓の鍋に水差しの水を足して、そのまま通り過ぎた。
4人が、黙った。
「……ヴィント」
「わたしは何も疑っておらん」
「足したでしょ、今」
「足した。だが、疑ってはおらん」
ポーラが、鍋を覗き込んで味を見て、それから黙って厨房の火の上へ運んだ。
そのあとで、小さく、こう言った。
「……薄い」
ミルカは、その日のことを紙に書いた。
『ドルガが疑った。水と塩。ヴィントが薄めた』
書いてから、少し考えて、下に1行足した。
『ゼノがいると、この話にはならない』
なぜならないのかは、書かなかった。書けなかったからだ。
◆
昼過ぎに、トバイアスが階段を駆け上がってきた。
「ミルカさん。写しが、3枚戻ってきました。宰相府から。それと、これは私の見立てですが、戻し方が普通ではありません。普通は、受取の判を押して返します。判が、押してありません。押してないということは、受け取っていないことにしたいのです。件数で言えば、こういう戻し方は年に2度あるかないかで——」
「判の話まででいいです」
「はい」
トバイアスは、3枚を卓に置いた。
ミルカは、その3枚を灯りにかざした。祭壇の円を写したものだ。3枚目の円の、線の太さ。彼女がゼノに言った、円ごとに違うという線だ。
戻ってきた3枚のうち、1枚だけ、紙が違っていた。
「……これは、わたしの紙ではありません」
同じ絵が、別の紙に、別の手で写されていた。
線の癖が違う。ミルカは、円を描くとき、必ず右下から起こす。この写しは、左上から起こしていた。
「誰かが、わたしの写しを写しました」
「え」
「写して、1枚だけ入れ替えて返しました」
トバイアスの顔から、血が引いた。
「……なぜ、そんなことを?」
「分かりません。ただ、入れ替えた者は、わたしが気づくと思っていません」
ミルカは、その1枚を、灯りの下から動かさなかった。
「気づかれてもいいと思っていたのなら、もっと悪いです」
同じ頃、王宮の南翼で、エリシアは3つ目の扉の前に立っていた。
審問庁の扉だ。
王家の者がこの扉をくぐるのは、20年ぶりだった。父王がくぐったのが20年前で、そのときは、くぐったあと2年、公の場に出ていない。
扉の前に、6人がいた。
聖国の使節が2人。審問庁の官が3人。それから、王の名代として来た宰相が1人。宰相は、エリシアと目を合わせなかった。
「エリシア殿下」
聖国の使節が、先に口を開いた。
「9日前、我が国の神官2名が、貴国の国境の東で消息を絶ちました」
「存じております」
「同じ日、同じ谷に、貴国の者がおりました」
「はい」
エリシアは、否まなかった。
否まないことを、昨夜のうちに決めていた。フィーネの早馬が、一昨日の夜に着いている。焦げた帳面の頁が、そのまま届いた。頁には、こう書いてあった。
『ローデン以東の件、行為者——ゼノ』
書いたのはフィーネの手だ。だが、書かせたのが誰かは、読めば分かる。
(……この方は、いつも、こうやって)
エリシアは、手袋の中で指を握った。
「殿下。お認めになりますか」
「認めます」
宰相が、初めてこちらを見て、顔色を変えた。何か言おうとして、やめた。
「では、その者を、引き渡していただきたい」
「できません」
「理由を」
「その者は、王国の代表として大陸対抗戦を制した者でございます」
エリシアは、そこで一度、息を継いだ。
「同じ試合で、貴国の客150名を守った者でもございます。あの日、貴国の主席は、その場でお認めになりました。認めた者を、9日で引き渡せと仰るのでしたら、貴国は何を認めたことになりますの」
使節の1人が、口を閉じた。
もう1人が、前へ出た。
「——神官は、2名死んでおります」
「何をしていて、死にましたか」
「……巡礼でございます」
「巡礼は、3年に1度、村から子を1人連れて参りますの」
沈黙が、扉の前に落ちた。
審問庁の官が、羊皮紙に何かを書いた。紙を擦る音だけが聞こえた。
エリシアは、その音を数えていた。そうしていないと、膝が笑いそうだった。
「殿下」
宰相が、低く言った。
「今の話は、証がございますか」
「ございます」
「どこに」
「歩いております」
その紙は、今、シャルの外套の内側にある。
4枚だ。12年で連れていかれた4人の名。
エリシアは、見てもいない4枚を、証と言い切った。自分の声が少し震えたのを、この場の6人が全員聞いたことも、言い切ったあとで分かっていた。
「歩いている証を、審問庁は取り扱いません」
「では、10日、お待ちください」
「10日後に、何が」
「歩いて、参ります」
扉の前を離れたのは、それから半刻あとだった。
回廊に出ると、日が傾いていた。柱の影が長く伸びて、床の石を縞に切っている。エリシアは、その縞を1つずつ踏んで歩いた。子供のころ、父がそうやって歩けと教えた。影を踏んで歩くと、足元だけ見ていられるからだ。
柱の陰に、人が立っていた。
「——お疲れさまでございます」
侍女ではなかった。審問庁の官の1人だ。若い男で、さっき羊皮紙に書いていた。
「殿下。1つ、申し上げます」
男は、周りに目をやらなかった。周りを窺いながら言うのがいちばん目立つと、知っている者の立ち方だった。
「10日後、殿下が証をお出しになれば、審問は開かれます。……その場合、審問の対象は、聖国ではございません」
「……存じております」
「対象は、《《その者を王国に置いた方》》でございます」
エリシアは、答えずに、縞の上を歩いた。踏む石が、1つずつ冷たくなっていく。日が落ちると、まだ冷える季節だった。
回廊の端で、彼女は止まり、手袋を外した。掌に、爪の跡が4つ並んでいた。今日、扉の前で自分でつけた跡だ。
「……ゼノ様」
呼んでも、いない。
いないと分かっていて呼んだのは、これで3度目だった。
◆
その夜、大学の東棟では、ミルカが写しの1枚を火にかざしていた。
炙ると、裏に薄い線が出た。
熱で浮く墨だ。円ではない。文字でもない。地図だった。
王都の南、7里。そこに印が1つ。
ミルカは、その紙を下ろして、ドルガを呼んだ。
「ドルガ。疑ってください」
「……何を、でございますか」
「わたしが今から言うこと、全部をです」
彼女は、紙を卓に置いた。
「入れ替えた者は、これをわたしに見つけさせたかったのだと思います。——わたしたちを、呼んでいます」




