第84話 うまい嘘
カルナの町まで戻るのに、3日かかった。
坂の国だ。町は段になっていて、宿は上から4段目にあった。石を積んだ段の間に、細い水路が通っている。夜になると、その水の音が壁越しに聞こえた。
宿の2階で、フィーネが帳面を広げたまま、書く手を止めていた。
「ゼノ。神官の名を、ご存じ?」
「知らん」
「では、書けません」
彼女は、そこに『2名』とだけ書いた。その上に線を引いて消し、また『2名』と書いた。
同じことを、3度やっていた。
シャルが着いたのは、その晩だった。
扉からではなかった。窓でもない。屋根から下りてきて、庇の下の欄干を越えて、部屋の中に音もなく立った。外套が濡れていて、洗ったばかりのものだと分かった。この女は、汚れた外套で人前に出ない。
「ゼノ様。3日前に、聖国が使者を出しました」
「何人だ」
「12人です。表向きは、巡礼の護送です。実際は、行方の分からなくなった神官を2人、捜しております」
フィーネの手が、帳面の上で止まった。
「……早いこと」
「早いです。つまり、あの2人は、出発前から日ごとに何かを送っていました。届かなくなれば、その日が分かります」
シャルは、外套の内側から紙の束を出した。
3寸ほどの厚さだ。紐で2重に縛ってある。
「村の名簿です。80人分。12年分の、出した子の名も」
「誰が書いた」
「わたしが、村長から聞き取りました。この2日で」
俺は、その紙束を見た。
「谷へ行ったのか」
「はい。ゼノ様が出られたあと、1日遅れで」
命じていない。
この女は、命じられていないことを黙ってやって、あとから報告する。そのときに、必ず理由を先に言わない。
「これを、燃やします」
フィーネが、椅子から立った。
「お待ちなさい」
「フィーネ様」
「それは、証です。聖国の神官2名が、12年、辺境の村から人を攫っていた証ですわ。それを燃やして、何が残りますの」
「村が残ります」
シャルの声は、上がらないまま、低くなった。
「この紙が王都に着けば、王家はこれを聖国に突きつけます。突きつければ、聖国は否みます。否んだあと、聖国は村へ人をやります。名簿に載っている80人を、1人ずつ確かめに行きます」
「確かめに行かせないための記録です」
「行きます。わたしは、行かれた側にいました」
◆
部屋が、静かになった。
水路の音が、また聞こえた。
フィーネは帳面を閉じず、指で頁の端を摘んだまま言った。
「……あなたのお母様のことを、仰っているのかしら」
「母の名は、売られた紙に載っていました。載せたのは、母を助けようとした人です」
「善意で、ですのね」
「はい。善意です。善意で載せて、7年、探されました」
シャルは、紙束を卓の上に置いた。手は、そこから離さなかった。
「わたしは、書く人を信じません。書いた人が悪いのではありません。紙が、書いた人の手を離れるからです」
フィーネは、そこで初めて、語尾を平らにした。
「——では、訊きます」
椅子の背を握った指が、白くなっていた。
「12年で4人、連れ去られた子がいます。その4人の名を、この世のどこにも残さないのですか。残さなければ、あの子たちは、初めからいなかったことになります」
「なります」
「それでいいと?」
「よくありません」
シャルは、言葉を切った。
「よくありませんが、生きている80人の方が、多いです」
数の話になった。
俺は、この手の話を三界で何百と聞き、大半は多い方を取った。勘定は、それで合っていた。
合っていたはずだ。
「……4人の名は」
俺が言うと、2人が同時にこちらを見た。
「4人の名は、村長が覚えてる。80人も……覚えてるだろ。紙を燃やしても、消えねえよ、あの村じゃ」
「はい」
「なら、残るな」
「残ります。村の中には」
シャルは、それでも紙束から手を離さなかった。
フィーネが、息を吸い、それを吐く前に、卓の上の燭台の方へ手を伸ばして、紙束ではなく、自分の帳面を掴んだ。
帳面を開いて、俺に見せた。
「ゼノ。わたし、こちらにも同じことを書きました」
シャルの肩が、動いた。
「……いつです」
「あなたが谷へ戻っている間に。村長は、谷で同じことを、わたしにも話しております」
「フィーネ様」
「ええ。わたしが先に聞いたのですわ」
シャルが、動いた。
速さだけなら、この部屋で俺の次だ。腕が卓を越えて、フィーネの帳面に届く——その直前に、フィーネはそれを燭台の火へ入れた。
自分で、燃やした。
俺は、火の中に手を入れた。
紙は、掴んだ。掌の皮が焼けて、匂いが部屋に広がった。獣の脂を焦がしたときと同じ匂いだ。
2人が、止まった。
「ゼノ様——」
「ゼノ、お手を」
「うるせえ」
俺は、焦げた帳面を卓に置いて、掌を返して見た。中指の付け根から手首まで、皮が一続きに黒くなっていた。1枚組んで、治した。跡は残らなかった。
痛みだけが、あとから来た。
「燃やす燃やさねえの話は、もういい」
俺は、焦げた帳面を、シャルの名簿の横に置いた。
「村の名を消せ。谷の場所も消せ。4人の名だけ残せ。それから」
「それから?」
「攫った側の名を書け。書けねえなら、代わりに俺の名を書いとけ」
フィーネが、顔を上げた。
「……何を仰っているの」
「聖国の2人を殺したのは俺だ。谷に行ったのも俺だ。名簿が要るのは、誰がやったかを書く紙が要るからだろうが。なら、俺の名で足りる」
シャルが、初めて紙束から手を離し、その手を自分の喉の前で握った。
「……それは、あなた様が捜される、ということです」
「もう捜されてる」
「増えます」
「増えりゃいい」
言ってから、少しだけ考えた。増えた分は、谷から逸れる。そこまで考えて、それを口に出さなかった。
それなのに、フィーネが先に言った。
「——逸らすおつもりですのね」
「違う」
「違いませんわ」
「違うと言ってるだろうが」
俺は椅子に座り、治したばかりの掌を、膝の上に伏せた。
フィーネは、焦げた帳面を開いた。
火の入った端が、指で触ると粉になった。それでも、中ほどの頁は読めた。彼女は一度だけ俺の顔を見てから、そこに新しい行を足した。
『ローデン以東の件、行為者——ゼノ』
「……これで、よろしいの」
「あぁ」
「わたし、これを王都へ出します。出せば、殿下がお困りになります」
「困らせろ」
シャルは、窓際に立って、自分の外套の裾を、指で真っ直ぐに直していた。母の宿で古い金具を並べたときと同じ手つきだ。
「ゼノ様」
「あぁ」
「わたしは、まだ、書く人を信じません」
「そうか」
「ですが、燃やすのを、やめます」
彼女は、名簿の紐を解いた。解いて、その束から、連れていかれた4人の4枚だけを抜いた。
「この4枚を、わたしが持ちます。持って、歩きます。紙が手を離れなければ、追われません」
◆
その夜、俺は眠らなかった。
掌が痛んだからではない。痛みは、とうに引いていた。
あとに残ったのは、勘定だ。80人と4人を、俺は今日、天秤に載せて、多い方を取らなかった。両方を残す形にした。
前世なら、載せた時点で終わっていた。
(——合わねえな)
合わないまま、それでいいと思った。
朝、フィーネが宿の下で待っていた。
馬が3頭。荷は少ない。彼女は、焦げた帳面を鞍に括りつけていた。
「ゼノ。1つだけ、伺ってよろしい?」
「なんだ」
「昨夜、火に手をお入れになりましたでしょう。あれは、どちらを取ったのですの。わたしの帳面ですか。それとも」
俺は、答えなかった。
答えが無かった。あのとき、俺は考えて手を入れたのではない。燃えるものが目の前にあって、両方を残すには、手を入れるしか無かった。
「……忘れた」
「嘘が、下手におなりですわ」
フィーネは馬に乗り、前を向いたまま言った。
「王都まで6日ですの。6日で、《《うまい嘘》》を考えてくださいまし」




