第83話 5枚目
新月の日の朝、村長は、いつもより早く畑に出た。
孫が、その後ろを歩いていた。11の娘だ。髪を頭の上で1つにまとめて、鎌を持つ手が、もう祖母と同じ形に節くれ立っていた。走り方が、確かめない走り方だった。段の縁を見ずに飛び降りる。12年、この村で数えられ続けたことを、この娘は知らない。
新月の晩は、星が出ていた。
月が無いと、星が近い。谷は暗く、川の音だけが大きくなった。
俺は、村の外れの畑の段に座っていた。
リィナが左の段、フィーネが村長の家。子供は、村長が全員1か所に集めた。そのあとも、村長は自分の家の戸を開けたままにしていた。閉めれば、いつもと違うと分かるからだ。
亥の刻を回った頃、川下の方から、足音が来た。
3つだ。
川の音に混じって、砂利を踏む音が等間隔に並んでいた。歩き慣れた者の足だ。そのうち2つは、夜露で滑る石を一つずつ探っていた。
2人は、聖国の外套を着ていた。
階級の刺繍がある。セドリクのように、解いた跡ではない。現役の神官の刺繍だった。
その後ろに、もう1人。
背が高い。頭ひとつ分、高い。外套の頭巾を深くかぶって、顔が見えない。歩き方が、人間ではなかった。膝から下の運び方が、地面を確かめていない。
人間は、歩くときに必ず地面を確かめる。足の裏で、土か石かを測っている。この歩き方をしない者は、落ちても平気な者だけだ。
悪魔だ。
俺は、段の上から降りて、道の真ん中に立った。
3人が、止まった。
前の2人が、まず俺を見た。次に、後ろの1人が顔を上げた。頭巾の下に、目があった。
赤くない。悪魔の目は赤いと人間は言うが、あれは嘘だ。悪魔の目は、白目の部分が無い。
その目が、俺を見て、開いた。
「——ヴァルゼード様」
聖国の2人が、同時に振り返った。
「何と仰いました」
「下がれ」
背の高い男は、そう言って、頭巾を落とした。
顔は、人間に似ているが、耳の位置が高い。それから、髪が無い。剃ったのではなく、生えない種族だ。
男は、その場に片膝をついた。
「お戻りでしたか」
「……お前は、誰の下にいる」
「バルドロス様の下に」
前魔王の名だ。
俺が殺った男の名を、こいつは今も使っている。
「バルドロスは死んだ。俺が殺した」
「存じております。わたくしは、その後に召し抱えられました」
男は、膝をついたまま顔を上げた。
「バルドロス様の御子が、魔界の3層におられます。わたくしは、その方の下におります。——ヴァルゼード様。18年、お探し申し上げておりました」
「探して、どうする」
「お連れいたします」
男が立ち上がった。その動きで分かった。こいつは俺を連れて帰って、前魔王の子に差し出すつもりだ。俺を探している者が、教団のほかにもう1組いる。理由が違う。向こうは、俺の首が要るのだ。
「道があるのか?」
「ございます。お連れする道でしたら、申し上げられます。——お一人で、おいでいただけますか」
聖国の2人が、後ずさって、村の方へ走ろうとした。
その背中に、悪魔が手を振った。
振っただけだ。詠唱も、陣も無い。2人の首が、走ったままの姿勢で落ちた。身体が3歩進んで、それから倒れた。
上級魔法だ。人間の器で使う上級魔法とは違う。悪魔の身体で使う上級魔法だ。
俺は、闇を4枚組んだ。
男が、俺の4枚を見て、止まった。
「……4枚でございますか。ヴァルゼード様は、その倍を、片手で」
「今は4枚だ」
俺は、闇幕を張った。
同時に、男の姿が消えた。
横から来た。
闇幕の中で、俺は音を聞かなかった。音が無い。音を出さずに動く者を、俺は前世で3人しか知らない。
胸に、衝撃が来た。
骨が鳴った。身体が、畑の段を2つ越えて、石積みに叩きつけられた。積んだ石が崩れて、背中の下に入った。
息が、吸えなかった。口を開けても、胸の途中で止まる。石の粉と、自分の血の匂いが同時に上がってきた。
(——効く)
前世なら、効かなかった。
この身体には効く。肋が3本、内側へ入っている。片方の肺が、うまく膨らまない。
男が、闇の中から歩いてきた。
「お許しください。お一人でおいでいただけぬのでしたら、動けなくしてお連れするほかございません」
「……そうか」
「お身体が、人のものになっておいでです。壊しはいたしません」
男の手が、俺の襟にかかった。
そのときだ。
俺の中で、何かが《《広がった》》。
説明のできる感覚ではなかった。
器の縁が、内側から押されて、伸びた。その分だけ、入りきっていなかったものが流れ込んできた。18年、この身体の外で余っていた俺そのものが、隙間へ落ちた。
冬に、いくら魔力を使っても伸びなかった器だ。
俺は、5枚目を組んだ。
男の手が、止まった。
「——」
「悪いな。今、4枚じゃなくなった」
俺は、5枚目を男の掌に押し当てた。
悪魔の身体は、闇で殺せない。闇は、悪魔にとって水だ。だから俺は、闇を外から撃ち込まなかった。5枚の陣を、男の身体の中で開いた。
内側から、開いた。
男は、声を出さなかった。
出す前に、腰から下が崩れて、砂になり、風も無いのに散った。
残った上半身が、地面に落ちても、まだ俺を見ていた。砂になりかけた頬の上で、目だけが最後まで崩れずに残っていた。
「……お戻り、で」
「道はどこだ」
「申し上げられません」
「言え」
男は、笑った。
悪魔の笑い方だ。口の端が、耳の方まで裂ける。
「わたくしが申し上げれば、あなた様は帰られます。帰られては、困ります」
「なんでだ」
「あなた様が人間界においでのままの方が、あの方に都合がよろしいので」
残った上半身が、砂になり始めた。
「——3層の、御子は」
そこで、砂になった。
肋が3本折れていた。息を吸うたび、右の脇腹の奥で、濡れた紙を裂くような音がした。掌に陣を1枚組んで、治しながら、さっきの感覚を確かめた。
闇を組んでみた。1枚、2枚、3枚、4枚——5枚。掌の上で、5枚目は崩れなかった。
半年、伸びなかった器が、一晩で1枚ぶん伸びた。
条件は、はっきりしていた。
魔力を使ったからではない。修練でもない。
《《死にかけたからだ》》。
◆
村へ戻ると、村長が戸口に立っていた。
80人が、その後ろにいた。全員、外に出ていた。集まれとは言っていない。川の音より大きな音がしたので、出てきたのだろう。
村長が、口を開いた。
「……終わりましたか。次も、来ますか」
「来ねえ」
女は、そこで初めて、膝から落ちた。
地面に手をついて、声を上げて泣いた。12年ぶんだ。80人が、誰もその背中に触らなかった。触れば、自分の膝も落ちると分かっていたのだろう。全員が、立ったまま泣いていた。
俺は、その場から離れた。
少し先で、フィーネが待っていた。
「ゼノ。お戻りを——」
「明日、出る」
「……はい」
フィーネは、それ以上言わなかった。
帳面を開いて、一番上に線を引いた。線の上に、こう書いた。
『5枚』




