第82話 供える相手
東の谷は、街道から2日入ったところにあった。道が細くなって荷車が通れなくなり、馬も途中で置いた。谷の底の川の両側に、平らな土地が少しだけある。村は、その土地の上にあった。3つあるうちの、いちばん奥だ。
家が19軒。畑は6段。人は、80人ほど。土の匂いに、川の水の匂いが混じっていた。
俺たちが入っていくと、畑にいた者が全員手を止めたまま、動かなかった。逃げも、寄りもしなかった。
「……人が来ると、こうなるのか」
「珍しいのですわ。年に何度も来ませんもの」
フィーネが言ったが、そうではなかった。
◆
村の中ほどに、祠があった。
石を積んだだけのものだ。屋根が板で、前に供え物が置いてある。麦の束と、水と、塩。塩だけが、まだ白く乾いていた。
俺は、その祠の前で足を止めた。
石の表面に、印が彫ってあった。
魔界の印だ。
前魔王バルドロスの家の印を、雑に写したものだった。彫りが浅い。写した者は、意味を知らない。線が3本足りない。その印に、80人が水を供えている。
《《供える相手を、間違えている》》。
「ゼノ」
フィーネが、俺の顔を見た。
「これは、何ですの」
「知らねえ方がいい」
◆
村長は、70過ぎの女だった。
背が低い。腰が曲がっている。その腰のまま、俺たちを家に入れて、湯を出した。
その手が、両方とも節くれ立っていた。畑の手だ。
「王都の方だと聞きました。何をお探しで」
「この村に、夜、来る者がいるな」
女は、湯の入った器を持ったまま、動かなくなった。
「……いつから、ご存じで」
「今日、聞いた」
女は、器を置いてから、自分の手を膝の上で揃えた。
「12年前からです。3年に1度、来られます。前は3年前でした。ですから、今年です」
「何をしていく」
「若い者に、線を入れていきます。入れると、力がつきます。畑の猪を、それで追えるようになります」
「代わりに、何を取っていく」
女は、顔を伏せたままだった。俺は待った。
外で子供の声がした。畑の方から、4つか5つの子供が2人、走ってきて、家の前で止まって、中を覗いて、また走っていった。
女は、その足音が消えるまで待った。
「……1人、置いていきます」
「置いていく?」
「連れていく、の間違いでございました。3年に1度、若い者を1人、連れていかれます」
俺は、器の湯に手をつけないまま訊いた。湯は、とうに冷めていた。
「どこへ連れていく」
「分かりません」
「戻ってきた者は?」
「おりません。12年で、4人」
女は、そこで初めて顔を上げた。その目に、涙は無かった。12年かけて泣き終えた者の目だった。
「村の子です。4人とも、わたしが取り上げました」
「断れば、どうなる」
「断った年があります。9年前です」
女は、自分の手を見た。
「その年、畑が枯れました。6段、全部です。虫でも、日照りでもございません。一晩で、根から黒くなりました」
「それで、次の年から出したのか」
女は、頭を下げた。
深く下げて、そのまま、床に手をついた。
「王都の方。お願いがございます」
「今年、出す番の子は、決まっております。わたしの、孫でございます」
女の額が、床に着いた。
「順番でございます。12年、順番で出してまいりました。ですから、今年はうちの番です。……村の者は、誰も文句を言いません。順番ですので」
「誰が順番を決めた」
「わたしでございます」
彼女は、床に手をついたまま動かなかった。
「決めたのも、わたしでございます。ですから、今年、うちの番が来るように並べました。……12年かけて、そう並べました」
俺は、その頭を見ていた。
この女は、12年、自分の孫が最後に来るように順番を組み続け、今年、その番が来た。
それで、初めて頭を下げた。
前世で、俺はこの手の頼み事を何千と聞き、その大半を捨てた。それで勘定が狂ったことは無い。
「頭を上げろ」
「——」
「上げろ。話が進まねえ」
女が、ゆっくり頭を上げた。
「いつ来る」
「新月の晩です。あと、2日」
「何人で来る」
「3人です。2人は人です。もう1人は」
女は、そこで言葉を探した。
「……背が高いのです。それだけしか、申し上げられません。目を合わせてはいけないと、代々申し送りがございますので」
「合わせた者は」
「12年前に、1人おります」
女は、自分の首の後ろを指した。指の腹が、窪みを一度撫でた。
「その者は、次の朝、川の淵で見つかりました。首から上が、ございませんでした」
2日、村にいた。
その間、俺は何もしなかった。俺が動けば、80人が動く。動けば、いつもと違うと気づかれる。村の者は、いつも通りに畑へ出て、いつも通りに祠へ水を供えた。
リィナは、子供たちに木の棒を握らせた。剣は持たせなかった。ただの棒だ。握り方だけを教えて、あとは走らせていた。
フィーネは、祠の印を写しながら、こう言った。
「ゼノ。この印、王家の書庫にございましたわ」
「どこにだ」
「第3巻の、裏表紙の内側です。同じ線が、3本多く彫ってございました」
「3本、多い」
「はい。こちらの祠は、3本足りません。写した者は、足りないことを知りませんのね」
フィーネは、写しの紙を火にかざした。裏から光を通すと、写した線だけが黒く浮いた。
「ゼノ。王家の書庫と、この谷と、どちらが先だとお思い?」
「谷だ」
即答してから、自分でその理由を探した。谷の印を見た誰かが、それを王都まで持って上がり、足りない3本を足して、王家の系図の裏表紙へ彫った。
順番が、そうなる。
「——2日後だな」
俺は、祠の供え物を見た。麦の束が、新しいものに替わっていた。誰かが、もう今年の分を供えている。




