第81話 まだ黒い線
カルナ公国は、坂の国だった。
平らな土地が無い。畑が斜面に段で作ってある。段の縁に石を積んで、その石の間から草が出ている。家は斜面の途中に建っていて、どの家も入口が2つあった。1つは坂の上に、もう1つは坂の下に開いている。
「雪ですわ」
フィーネが言った。
「冬に、上の戸が埋まりますの。ですから下にも開けます」
「詳しいな」
「グレイシス家は、200年ぶん集めておりますから」
聖国との境沿いに、街道が1本走っている。
街道といっても、荷車が1台通れるだけだ。右手の斜面の上が聖国、左手の谷の下がカルナ。境の線は、山の尾根に沿って引かれているらしい。坂の国の道は、登りと下りのどちらにも見えない平らな区間が短く、歩いていると膝の使い方が忙しい。
尾根には、石が等間隔で並んでいた。
「境の石です。100年前に、両国が2000本置きました」
「今は何本ある」
「1800ほどかと」
「200本、どこ行った」
「抜いた者がいますの。夜のうちに、1本ずつ」
その街道で、3日目に人と行き会った。
荷車が1台、道の真ん中で止まっていた。車輪が1つ、轍から外れて横を向いている。積んであるのは、麦の袋だ。
男が2人、車輪を持ち上げようとしていた。上がらない。
俺は馬を降りて、荷車の後ろに回り、闇を1枚組んだ。車軸の下に差し込んで、持ち上げた。
車輪が、轍に戻った。
「——すまん。助かった」
年かさの男が、額の汗を拭った。
もう1人は、若い。こちらは動かずに、俺の手を見ていた。
闇を組んだ手だ。
「今の」
若い男が言った。
「今のは、闇魔法ですよね」
「そうだ」
「……あなたも、線がありますか」
男は、自分の襟を開いた。
首の付け根の下に、黒い線が2本あった。
皮膚の下だ。出立の前に俺が抜いたものと、同じ形をしている。だが、色が違った。ドルガの線は、18年経って褪せていた。この男の線は、《《まだ黒い》》。
「いつ入れた」
「6年前です」
俺は、その場に片膝をついた。
6年前。
俺が死んだのは18年前だ。悪魔が人間界へ渡る道は、俺の死んだ年に途絶えた。途絶えたはずだった。黒鎖教団のいちばん新しい刻印が18年前で、それを俺は、渡っていた者が来られなくなった証だと考えた。
6年前に、刻印を入れられる者がいた。
「入れたのは、誰だ」
「名は、聞いていません」
男は、急いだ手つきで襟を閉じた。
「村に来ました。夜に。3人いて、1人が背の高い人でした。……人ではなかったのかもしれません。顔を見せませんでしたので」
「何と言われた」
「畑を守れる力をやる、と」
年かさの男が、若い方の肩を叩いた。
「おい、もう行くぞ」
「待ってください」
「この人は王都の人だ。言うな」
その言い方で、俺は分かった。
この村では、知られていて、口に出さないことになっている。
「隠すな。俺は役人じゃねえ」
「役人より悪い」
年かさの男は、荷車の綱を掴んだ。
「あんた、闇を使ったろう。使える人が来ると、あとで聖国の者が来る。3年前もそうだった」
俺は、道を空けた。轍の土は、雨のあとで一度捏ねられて、それから乾いて固まっている。この道は、春に一度しか荷が通らない。
荷車が動き出して、10歩ほど行ったところで、若い男が振り返って、大きな声で言った。
「東の谷です。谷の奥に、村が3つあります。そのうちの1つに、まだ来ます」
年かさの男が怒鳴った。
若い男は、怒鳴られてから、こう付け足した。
「——俺の弟に、入れさせたくないんです」
その晩、宿は無かったので、街道脇の岩陰で火を焚いた。
リィナが薪を集めて、フィーネが帳面を開いたが、炭を止めて、しばらく何も書かなかった。岩陰の火は、風の通る向きが決まっていて、煙がいつも同じ肩へ流れてくる。
「ゼノ。6年前ですわ」
「あぁ」
「18年前に途絶えたのではなかったのですね」
「途絶えてない」
俺は、火に枝を足した。
「途絶えたのは、黒鎖教団への道だけだ。別の道が、まだ開いてる」
「別の道とは、どういう」
「分からん。分からんから、見に行く」
「ネイアを、先にしなくてよろしいのですか」
「東の谷なら、方角は同じだ」
フィーネは、帳面に線を1本引いた。
「……4日、遅れますわ」
「遅れたら困るか?」
「困りません。わたしが数え直すだけです」
彼女は、そう言ってから、炭を置いて、火を見た。
「ゼノ。ひとつ伺ってよろしいですか」
「言え」
「あなたは、自分を殺した者を探しておいでですわね」
俺は、答えなかった。
フィーネは、俺の顔を見なかった。火を見たまま続けた。
「王家の書庫で、天界の術式を探しておいででした。大学でも。ネイアの名を渡したとき、あなたは手を止めました。……今、6年前と聞いて、また止まりましたわ」
「顔に出てるか」
「出ておりません。手が止まります」
フィーネは、そこで初めて俺を見た。
「わたし、数える者ですの。動かないものが動いた瞬間だけ、見えますのよ」
リィナが、薪を抱えて戻ってきた。
2人の間に薪を置いて、そのまま座ると、何も言わずに、自分の外套を脱いで、フィーネの膝に掛けた。
「わたし、寒くありませんわ」
「震えています」
「震えておりません」
「震えています」
リィナは、2度言った。
フィーネは、外套を押し返そうとして、やめた。やめて、膝の上でそれを掴んだ。
「……あなた、こういうときだけ強引ですわね」
「はい」
「はい、ではありませんでしょう」
「ゼノ様が風邪をひいた者を連れて歩くと、遅れます」
リィナは、火に手をかざした。
「わたしが困ります」
火が小さくなってから、俺は少し離れた岩の上に座った。
火の粉が上がって、消える高さが、風の来る側だけ低かった。空が広い。王都では、こんなに星は見えない。人間界の星は、天界から見ると全部、下にある。上から見ると、星は点ではなく、面で光っていた。
それを、俺は誰かと並んで見たことがある。
誰と見たかを、思い出せない。
18年前に引き剥がされたときに、そこだけ持っていかれた。
(……6年前)
俺の死後も、人間界へ渡っていた者がいる。
渡れるということは、道があるということだ。なら、俺も通れる。魔界へ戻れる。戻れば、側近が3人いる。
だが、6年前に刻印を入れた者は、俺の側近ではない。
側近なら、俺の名を使う。あの男は、名も名乗らず、顔も見せずに、畑を守れる力をやると言った。
(前魔王の残党か)
岩を降りると、リィナが起きていた。
火のそばで、膝を抱えて座っている。俺が座ると、少しだけ横にずれた。
「眠れねえのか?」
「見張りです」
「交代でいい」
「ゼノ様は、お休みください。……わたし、こういうときのために来ました」
リィナは、膝を抱えたまま、火を見た。
「王都では、わたしがいなくても誰かがいます。ここは、わたししかいません」
「ゼノ様」
「あぁ」
「あの若い方が、弟に入れさせたくないと言いました」
リィナは、少し黙った。
「わたしには、弟が2人おりました。2人とも、剣を習いませんでした。父が、習わせませんでしたので」
「なんでだ?」
「家に、剣が1本しかなかったからです」
リィナは、火に枝を1本足した。
「その1本を、父はわたしに渡しました。弟たちは、何も言いませんでした。……何も言わなかったのを、わたしは30になるまで、優しさだと思っておりました」
彼女は、そこで言葉を切って、続けなかった。
俺は、続きを訊かなかった。
リィナは膝を抱え直して、こう言った。
「今は、違うと思います」




