第80話 ローデン砦
川は、3つあった。
1つ目と2つ目は、橋が架かっていた。3つ目に橋は無い。渡し船だ。
着いたのは昼で、河原に人が30人ほど待っていた。船頭が、腕を組んで首を振っている。春の水が出て、下流の渡しは使えないという。
「上流の渡しを使え」
俺が言うと、船頭は俺を見た。
「あんた、この川を知っとるのか」
「知らねえ。聞いた」
「誰にだ」
「宰相府の人間だ」
船頭は、口の端を下げてから、竿を担いで歩き出した。
「……上の渡しは、3年前に流れたことになっとる。役所の紙の上ではな」
上流の渡しは、あった。
半里ほど遡ったところに、細い杭が2本残っていて、そこに綱が渡してあった。船は無い。代わりに、筏が繋いである。
「毎年、春だけ組む。役所には出しとらん」
「なんで出さねえんだ?」
「出すと、税が付く」
フィーネが、帳面を出したが、開かずに閉じた。何も書かなかった。
筏で渡るとき、リィナが馬の顔を押さえていた。
馬は水を嫌う。特に濁った水を嫌う。リィナは、馬の目に自分の外套を掛けて、鼻の上に手を置いたまま、渡り終えるまで一言も喋らなかった。
「馬を扱えたのか?」
「家に、1頭おりました。父が死んだ年に売りました」
リィナは、外套を馬の目から外した。
「売るまでの3月、わたしが世話をしました。売った日に、その馬が最後まで振り返らなかったのを覚えています」
それきり、リィナはその話をしなかった。
国境が見えたのは、出立から9日目の夕方だった。
丘の上に出ると、南の地平に石の塊が1つ見えた。
砦だ。
四角い。飾りが無い。塔が2つあって、高さが違う。高い方が新しく、低い方は上が崩れたまま、補修されていなかった。夕日が当たっている面と、当たっていない面で、石の色が別の建物のように違って見えた。
「ローデン砦ですわ」
フィーネが言った。
「三国境の砦です。西がヴァリス、北東がカルナ、南東が聖国。3つの国の角が、あそこで尖って接しております」
「1つの砦で、3つの国を見てるのか?」
「見ておりますのは、この砦だけですわ。あとの2国は、国境から離れた場所に兵を置いております。……近すぎると、揉めますので」
◆
砦の門の前に、人が並んでいた。門の前の地面だけ、草が生えずに固くなっている。何十年も人が立ち続けた場所の地面は、そういう固まり方をする。
30人ほど。荷を背負った者、子供を連れた者、荷車を引いた者。国境を越えようとしている者たちだ。
その列の中ほどに、黒い外套の男が3人いた。
黒鎖教団の外套だ。肩の布は外してある。外しても、生地と裁ち方で分かる。3人とも、俺と目が合うと、視線を逸らした。
先月、拠点を出た11人のうちの3人だった。
門の脇に、机が1つ出ていた。
机の向こうに、男が座っていた。
短く刈った鉄灰色の髪。左のこめかみだけが白い。首と肩が異様に太くて、その分、腹が少し緩んでいる。盾を持って立ち続けた者の身体だ。
男は、書付から顔を上げずに言った。
「人数と、行き先」
「3人だ。カルナへ抜ける」
「名は」
「ゼノ」
――そこで、男が顔を上げた。
見た。
上から下まで見て、後ろの2人を見て、それから机の上の書付に何か書いて、立ち上がった。
背は、俺より低いのに、立たれると壁が近づいた気がした。
「グレイグ・ノルンだ。ここの砦将をやっとる」
「あぁ」
「王都の方から、遊学の一行が来ると聞いとった」
グレイグは、書付を1度叩いた。
「遊学にしては、荷が軽い」
「あの3人は、あんたの連れか?」
彼は、列の中ほどの黒い外套を顎で示した。
「違う」
「ふむ。俺には、同じ王都の匂いがするがな」
グレイグは、声を落とさなかった。周りに聞こえる声のまま言った。
「おい、そこの3人。前に出ろ」
3人が、前に出た。顔は、白かった。
「名前はいらん。人数と行き先だけ書いておけ」
3人は、動かなかった。
グレイグは机の上の書付を回して、炭を置いた。
「書けんのか?」
「……書けます」
「なら書け。3人、カルナ。それでいい」
1人が炭を取って、書いた。手が震えて、線が2度切れた。
グレイグは、それを見届けてから、こう言った。
「以前どこの誰に仕えとったかは、俺の書付に書く欄が無い」
3人が門を抜けたあと、グレイグは俺の方を向いた。
「魔王殿」
「知ってるのか?」
「冬に、闘技場の話が回ってきた。光と闇を同時に使った男がおるとな。回ってきた紙には、名前が1つしか書いてなかった」
彼は、机に腰を預けた。
「俺は、あんたが何者かを聞く気が無い。ここは国境だ。国境で人の正体を数え始めると、きりが無い」
「そうか」
「通すのは構わん。だが、帰る道まで俺が保証したとは思うな」
◆
砦の中に、一晩泊まることになった。
泊めろと言ったのは俺ではなかった。グレイグが、夕方の門を閉める時刻を指して、「今から出ると野宿だ」と言った。
砦の中は、思ったより広く見えた。
広いのではなかった。物が少ない。兵の数に対して、置いてあるものが少なすぎる。
「備蓄は、どこだ?」
「地下だ」
グレイグは、歩きながら答えた。歩き方に癖がある。人を見ていない。壁を見ている。蝶番を見る。見張り台の柱の根元を見る。人より先に、物を見る男だった。
「地下に、3月ぶん置いとる。街道が3本、避難路が2本。近隣の村は11。村ごとに、何日で砦まで来られるかは全部頭に入っとる」
「覚えてるのか?」
「紙は燃える」
その晩、飯は兵と同じものが出た。
麦と、豆と、塩漬けの肉を煮たものだ。塩が強い。王都の厨房の塩の入れ方とは違って、これは肉から出た塩だった。
フィーネが、器を持ったまま少し困っていた。この娘は、こういう飯を食ったことが無い。それでも、食えないとは言わずに、匙で少しずつ運んだ。
リィナは、黙って2杯食った。
グレイグが、俺の向かいに座った。
「あんた、どこへ行く?」
「聖国とカルナの国境の外れだ」
グレイグは、匙を置かずに次を訊いた。目は、窓の外の見張り台にあった。
「何をしに?」
「人を探してる」
「見つかったら、どうする?」
「訊きたいことがある」
グレイグは、それ以上訊かずに、器の底の豆を匙で集めた。
「うちの兵は、120人だ」
彼は、誰にともなく言った。
「120人で、3つの国の角を見とる。足りん。足りんから、俺は村の連中に道を覚えさせた。何かあったら、村の方から先に逃げてもらう。砦が助けに行くと、間に合わん」
「助けに行かねえのか?」
「行く。行くが、間に合わんことの方が多い」
グレイグは、器を置いた。
「間に合わんと分かっとることを、間に合う前提で書いた紙が、王都にはある」
夜、俺は砦の中を歩いた。
眠れなかったからではなかった。歩くと、その建物が何を守るために建っているかが分かる。前世でも、城に入ったらまず歩いた。
地下の備蓄庫まで下りた。
階段は22段。降りたところが石畳で、壁際に樽が並んでいる。麦、塩、油。塩の樽だけが、新しい木だった。
床を見た。
石畳の目地が、ある一列だけ、方向が違っていた。
普通、石畳は入口の向きに揃えて敷く。ここも揃っているのに、奥の一列だけが斜めに入っていた。
その線は、まっすぐ奥の壁まで続いていた。
突き当たりの壁には、何も無い。
俺は、斜めの一列の上に立って、闇を1枚だけ組んで、足の下へ流した。
返ってきた。
何かに当たって、返ってきた。5間ほど下だ。石ではなかった。土でもない。
(……空だ)
床の下に、《《空洞》》がある。
「何をしとる」
上から声がした。
グレイグが、階段の上に立っていた。灯りを持っている。
「床を見てた」
「そこは、俺も知らん」
彼は、階段を降りてきて、斜めの目地を靴の先で示した。
「50年前の砦の図面にも、100年前の図面にも、この線がある。この砦は3度建て直しとるが、その線だけは毎回残しとる」
「なんで残す?」
「分からん。分からんものを潰すと、後で困ることがある」
グレイグは、灯りを持ち上げた。
「あんた、下に何かあると思うか」
「あぁ」
「……俺もだ」
彼は、それ以上訊かなかった。
灯りを下ろして、階段の方へ歩きながら、背中で言った。
「掘るなら、俺がおらんときにしてくれ」
◆
翌朝、俺たちは北東門から出た。
門は、西門より狭い。カルナ側からの荷が少ない門だ。その外は、すぐ坂になっていた。
グレイグは、門の上まで上がってきて、そこから見ていた。
見送るためではなかった。門を開けた後の、蝶番の戻り具合を見ていた。
「ゼノ」
俺が坂を下りかけたところで、名を呼ばれた。
初めて、名で呼ばれた。
「戻りは、この門を使え。西門は、聖国の目がある」
「分かった」
「それから、下の空洞のことは、誰にも言うな。……俺は、聞かんかったことにしとく」




