第79話 知らない相手を主とは呼べません
拠点の中庭に、60人が集まった。
刻印のある11人は前に。無い者は後ろに。誰も、そう並べと言っていない。冬のあいだに、そういう並びになっていた。
俺は、井戸の縁石の上に立った。
「刻印を消す」
誰も、動かなかった。
俺は続けた。
「あんたらの腕の刻印は、俺の下にいた誰かが入れたものだ。あれがある間、あんたらは俺の言うことを疑えない。疑えないなら、あんたらが考えたことにならねえ」
前の列で、ドルガが口を開いた。
「消せば、闇魔法が使えなくなります」
「なる」
「上級の3人は、それで生きてまいりました」
「知ってる」
俺は、縁石から降りた。
「消したあとで、残るか消えるか、自分で決めろ」
「——魔王様」
「残るなら、俺はもう命令を出さねえ。頼むだけだ。頼まれるかどうかは、あんたらが決める」
「去る者は、どうなさいます」
「行けばいい」
ドルガが、何か言おうとした。
言う前に、後ろの列で、誰かが座り込んだ。その音で、全員がそちらを見た。若い女だった。顔を両手で押さえている。泣いているのとは違った。息が、うまく吸えていなかった。
刻印を抜くのは、入れるより手間が要る。
入れるときは、上から押し込むだけでいい。抜くときは、その線がどこまで根を張ったかを、1本ずつ辿らなければならない。18年、身体の中で伸びた線だ。
俺は、11人を1人ずつ座らせた。
1人目はドルガだった。左の袖をまくらせると、前腕の内側に、黒い線が3本走っていた。皮膚の下だ。触れると、指の腹に微かな熱があった。
「痛むぞ」
「構いません」
「動くな。動くと、余計なところまで持っていく」
闇を4枚。
重ねた陣を、掌に伏せて、線の端に当てた。
引いた。
ドルガの背中が、弓なりに反った。声は出なかった。自分の左の掌に歯を立てて、殺していた。冬に腕を治したときと同じやり方だ。この男は、痛みの逃がし方を1つしか知らない。
線が、抜けてきた。
黒い糸が、皮膚の下から順に浮いて、掌の陣へ集まり、その上で細かく震えて、それから消えた。
3本目が抜けたとき、ドルガの腕が、《《ただの腕》》になった。
「……軽い」
ドルガが言った。
「軽うございます。18年、重かったのだと、今、分かりました」
彼は、自分の前腕に手を当てて、それから、その手を見た。
「魔王様。わたくしは、残ります」
「決めるのは、まだ早え」
「早くありません」
ドルガは、袖を下ろした。
「18年、わたくしは命令を疑いませんでした。今、疑えます。疑ってみて、それでも残ります。……これが、いちばん早うございました」
11人目が終わったのは、日が落ちてからだった。
俺の掌が痺れていた。線を1本抜くたびに、抜いた側の熱が俺の腕に残る。11人で、33本。
最後の1人が立ち上がったあと、俺は中庭を見た。
60人が、まだ全員いた。
「解散だ。明日の朝、また来い」
「魔王様。今、決めます」
前の列の1人が言った。上級の3人のうちの1人だ。
「言うな」
「なぜです?」
「一晩置け。今日決めたことは、今日の俺の顔を見て決めたことだ」
◆
翌朝、中庭に49人がいた。
11人、減っていた。夜のあいだに出た者は、門の扉を元どおりに閉めていったらしい。
減った11人のうち、6人が刻印を抜いた者だった。闇魔法を失って、去った。残りの5人は、刻印を持っていなかった者だ。
ドルガが、名簿を持って立っていた。
「11名、出ました」
「追うな」
「追いません。……ですが、1つ、ご報告がございます」
彼は、名簿の下から3行目を指した。
「ラウルが、出ました」
俺は、南街区の門のところで、ラウルに追いついた。
荷は少なかった。背嚢が1つ。帳簿は2冊、置いていったらしい。机も、置いていった。3冊あったうちの、いちばん新しい1冊だけが、脇に挟まっていた。
「おい」
ラウルは振り返り、いつもと同じ下げ方で頭を下げた。
「出ます」
「刻印は、無かったな?」
「ありません。ですので、解いていただくものが、ありませんでした」
「なんで出る?」
ラウルは、少し黙った。
それから、答えた。机の前に座っていたときと同じ速さだった。毎日考えていた者の速さだ。
「俺は、あなたを知りません」
「そうか」
「教団の者は、みんな、あなたを知っています。刻印を入れてもらった人も、名前を呼んでいた人も。俺は、生まれたときからあの拠点にいましたが、あなたのことを何も知りません」
彼は、脇の帳簿を持ち直した。
「知らない相手を主とは呼べません」
こいつは正しい、と俺は思った。
俺は、この男に何も渡していない。刻印も、命令も、名前を呼ぶ理由も渡していない。渡したのは1つだけだ。「仕事中の奴を跪かせるな」。それは、ラウルに渡したものではない。ドルガに言ったものだ。
「そうか。なら行け」
「はい」
ラウルは、もう一度頭を下げて、歩き出した。5歩ほど歩いて、止まった。
「1つ、よろしいですか」
「言え」
「王宮へ回した案件が、17件あります。返ってきたのが、4件です」
ラウルは、振り返らなかった。
「返ってきた4件は、全部、金の貸し借りでした。……土地の境と、子供の親は、まだです」
「それで?」
「誰かが、それを数え続けないと、13件は消えます」
彼は、そこで初めて振り返った。
「俺が出たあと、誰が数えるかを、決めておいてください」
ラウルは、そのまま南の道へ出ていった。
門のところに、ドルガが立っていた。追ってきたのとは違う。俺より先に、そこにいた。
「あれは、器がほとんどございません」
「知ってる」
「刻印もございません。教団の中で、いちばん役に立たない者だと、皆が申しておりました」
ドルガは、南の道を見ていた。
「机を出したのは、あれでございます」
◆
その日の午後、俺は49人の前に立った。
「行く先は、聖国とカルナの国境の外れだ。戻るのがいつかは、決まってねえ」
誰も、口を挟まなかった。
「留守のあいだ、王都でやることを3つ言う。1つ、南街区の揉め事を数え続けろ。王宮へ回した分の、返ってきていない13件を、誰がやるか決めろ」
ドルガが、名簿に線を引いた。
「2つ。東部5家と、ハルヴィク家の別邸を見ろ。誰が出入りするかだけでいい」
「手は、出さずに?」
「見るだけだ。1人も殺すな」
「3つ目だ」
俺は、少し間を置いた。
言い方を探していた。前世で、俺は留守を頼んだことがない。留守にする必要が無かった。
「——俺がいない間に、俺の言ったことを、疑え」
49人が、顔を上げた。
「去年の冬に俺が言ったことで、おかしいと思うものがあったら、やめろ。やめた分は、俺が戻ったときに聞く」
前の列で、上級の1人が手を上げた。
「それも、命令でございますか」
「……あぁ。最後の命令だ」
出立は、翌朝だった。
門の前に、馬が6頭。鞍はどれも古い。フィーネが数を数えていた。リィナが、荷を2度括り直していた。
見送りに来たのは、多かった。
エリシアが来た。シャルが屋根の上にいた。ミルカが紙束を抱えて立っていて、ポーラが、包みを俺の鞍に無理やり結びつけた。中身は聞かなかったが、パンと塩だと分かった。
ヴィントは来なかった。代わりに、学生が15人来ていた。
エリシアが、最後に前へ出た。
手袋をしていた。していたが、指の先が膏薬で膨らんでいるのが分かった。南街区の手当ては、まだ続いている。
「ゼノ様」
「あぁ」
「道中、川を3つ渡ります。3つ目は、春の水が出ております。船頭に、上流の渡しを使うよう仰ってくださいませ」
「分かった」
「それから——」
エリシアは、そこで言葉を止めた。
手袋を外して、その手を俺の方へ出して、途中で止めて、下ろした。
「……いいえ。お気をつけて」
馬が動き出してから、俺は一度だけ振り返った。
門の前に、まだ全員が立っていた。
その中で、エリシアだけが、外した手袋を握ったままだった。その手を、胸の前でもう片方の手で包んでいた。
言わなかった言葉が、その形をしていた。
俺は、前を向いたまま、後ろのフィーネに言った。
「殿下は、何て言いたかったんだ?」
「……ご自分で、お考えくださいませ」
フィーネの声は、いつもより低かった。




