第77話 ネイア
冬は、長かった。
雪が3度降って、3度とも王都を白くした。3度目の雪は重たくて、屋根から落ちる音が鈍かった。3度目のあとで、南街区の屋根が2軒落ちて、黒鎖教団の者がそれを直した。俺が言った覚えはない。ラウルの帳簿に、直した家の数と、使った木の数が並んでいた。
大学では、共同術式が10回に7回まで揃うようになった。
トバイアスが、詠唱の代わりに息を使う方法を考えた。声を揃えるのではなく、吸う時を揃える。声は人によって高さが違うが、息は揃う。
「ゼノさん。これ、目を閉じたままでもいけます」
「試したのか」
「40回やりました」
「寝てねえな」
「寝ました。……2日、まとめて」
リィナの下に、25人ついた。
ヴィントの下に、18人。
そのうち9人が両方に出ていて、いちばん転ぶ。転んでも、やめない。ポーラが、その9人の頭だった。
脇腹の傷は塞がった。冬のあいだに、王都まで歩いて来た。医者は馬車に乗れと言ったらしい。乗らなかった。
「歩いてきたのか」
「うん」
靴の踵が、左だけ斜めに減っていた。片方の脚を庇っていたということだ。
「何日かかった?」
「12日」
「馬なら8日だ」
「知ってる。……あのさ」
ポーラは、俺の顔を見ずに言った。
「灯籠のこと、ミルカから聞いた」
「そうか」
「1番目なんだって」
「借りた順だ」
「知ってる。知ってるけどさ」
彼女は、手の甲で鼻を擦った。
「……12日、そればっかり考えて歩いてた」
春が来たのは、雪が4度目に降らなかった朝だった。
大通りの石が乾いて、南街区の路地から水が引いた。市に、去年の秋には無かった野菜が出た。ポーラがそれを買ってきて、厨房で刻んで、スープに入れて、塩を入れすぎた。
その日の午後、フィーネが俺を呼んだ。
場所は、王宮でも大学でもなかった。王都の東、川沿いの、誰も来ない石段だ。
フィーネは、先に座っていた。
「座ってくださいませ」
俺は座った。石が冷たい。川の水が、雪解けで濁っていて、音が重い。
フィーネは、膝に帳面を載せたまま、開かなかった。
「試験は、合格ですわ。冬に言いましたわ」
「聞いた」
「報酬を、お渡ししていません」
「催促した覚えはねえぞ」
「しませんでしたわね。……1度も」
フィーネは、そこで川を見た。
「わたし、催促されるものだと思っておりました。人は、報酬のために試験を受けますから。ゼノは、1度も訊きませんでしたわ」
「訊いても、あんたは時期が来るまで言わねえだろ」
「ええ。言いません」
彼女は、帳面の留め紐を解いた。
「グレイシス家は、200年、王家の懐刀でございました。王を作る家です。作る家ですから、作るために必要なものを集めてまいりました」
フィーネの口調が、いつもと違った。
「ですの」が無い。報告の口調でもない。もっと古い、決まった形の言葉だった。家に伝わっている言い方なのだろう。
「集めたものの中に、1つだけ、使わなかったものがございます。200年、誰にも渡しませんでした。渡す相手が現れなかったからです」
彼女は、帳面から1枚の紙を抜いた。
古い紙だ。四隅が茶に焼けている。
「ゼノ。あなたは、王家の書庫で、天界の術式を探しておいででした」
「あぁ」
「大学でも、同じものを探しておられました」
「そうだな」
川の水が、石段の下の杭に当たって、音の高さを変えた。
「見つかりませんでしたでしょう」
「無かった」
「ございません。この国には」
フィーネは、紙を差し出した。
「人間界で、次元の術に触れていた一族が、1つだけございます」
俺は、紙を受け取った。
「聖国とカルナの国境の、外れに住んでおります。国も持ちません。土地も持ちません。200年前、グレイシス家がその居場所を掴んで、それきり誰にも言っておりません」
紙には、地図が描いてあった。
地図の下に、名が1つ書いてあった。
《《『ネイア』》》
俺の指が、紙の縁で止まった。
自分では、気づいていなかった。
(——ネイア)
人間界の名ではない。この響きは、人間の口の形から出てこない。母音が2つ続いて、最後が落ちる。
天界の家名だ。
前世で、俺は一度だけその名を見ている。魔界の記録にある。三界の次元を管理していた家だ。界と界の間に橋を掛け、掛けた橋を落とすのも、その家の役目だった。
天界の家名が、人間界の国境の外れにある。
「ゼノ?」
フィーネが、俺の顔を覗き込んでいた。
「顔色が」
「なんでもねえ」
「なんでもない顔ではございませんわ」
「知ってる名だった」
「……ご存じですの」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。この名を知っている理由を説明すると、俺が前世で何だったかを説明することになる。フィーネは、俺が魔王と呼ばれていることを知っている。知っているが、俺が誰に殺されたかは知らない。
答えないでいると、フィーネは川の方を向いた。
「……よろしいですわ。訊きません」
「わたし、渡さない方がよかったかと、冬のあいだ考えておりました」
「渡すのが約束だろ」
「約束ですわ。ですから渡しました。……ですが、渡せば、あなたは国を出ます」
フィーネは、膝の上で帳面を閉じて、両手で押さえた。
「わたしの家は、王を作る家です。作った王が国を出たことは、200年で1度もございません」
「俺は王じゃねえ」
「王ではありませんわ」
彼女は、俺の方を向いた。
「ですが、わたしが選びました。家の作法どおりに、測って、試して。……選んだ相手が、翌日に国を出る用意を始めますの」
「一緒に来るか?」
フィーネの手が、帳面の上で止まった。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「……今、なんと」
「国を出る。道が要る。馬代も要る。数えられる奴が要る」
「それは、そういう意味ですの」
「どういう意味だ」
「……いえ」
フィーネは、川を見て、しばらく黙って、それから帳面を開き、炭を取って、一番上に線を引いた。
その手が、少し速かった。
「馬が4頭。替えが2頭。国境までの宿が11。聖国は通れませんから、カルナ側を回ります。それから——」
「それから?」
「……いえ。数えるものが、多いだけですわ」
川沿いの石段を戻るとき、フィーネは俺の半歩後ろを歩いた。
いつもは横に並ぶ。並んで、壁のある側に立つ。今日は、後ろだった。
「ゼノ」
「あぁ」
「ネイアという名を、ご存じだったのですわね」
「あぁ」
「では、もう1つ伺います。その一族は、あなたを歓迎いたしますか」
俺は、少し間を置いてから、正直に答えた。
「……たぶん、俺を見たら逃げる」
「まあ」
フィーネが、声を出して笑った。そんな笑い方を、俺は初めて見た。
「では、逃げられない用意も数えておきますわ」
その晩、俺は自分の部屋で地図を広げた。
聖国とカルナの国境。外れ。国も土地も持たない一族。
18年前、俺は天界で殺された。俺を殺した術は、界を越えて俺を掴んだ。界を越える術を持っているのは、天界でも一握りだ。
その一握りの家の名が、人間界に落ちている。
落ちているのではない。
逃げてきたのだ。
窓の外で、春の風が鳴っていた。
俺は、地図を畳んだ。
——次は、俺が向こうへ行く番だ。




