第76話 初めての雪
祭りが終わると、白い布が下ろされた。
軒から外して、畳んで、来年まで箱に入れる。灯籠は、紙を剥がして、骨だけにして重ねる。剥がした紙は燃やす決まりだった。
俺は、自分の灯籠の紙を剥がしながら、7つの名を見た。焼くには惜しいとは思わなかった。名前は紙に書かなくても消えない。返していない借りも同じだ。
「ゼノ様。それは、燃やさないでください」
リィナが横から取り上げた。
「決まりだろ」
「決まりですが、燃やさない家もあります」
「どこのだ?」
「これから、そうします」
リィナは、紙を4つに畳んで、懐へ入れた。木剣を持つときと同じ手つきだった。
同じ頃、魔界の底で、1つの気配が動いた。
そこは、光の届かない層だ。上から順に9つある層の、いちばん下。溶けた岩が固まって、また溶けて、そのたびに天井の高さが変わる。生き物は住まない。
その岩の上に、男が1人座っていた。
18年、動いていない。
黒い髪が、背中の岩に貼りついて固まっている。目は閉じたまま、18年、上の層の気配だけを数えてきた。
その男の頬が、動いた。
音が、届いたのだ。
魔界には届かないはずの音だった。人間界の祭壇から、天界の言葉が3音。人間の口から出た3音。
だが、男はそれを聞いたのではない。
3音の後ろにあった魔力の癖を、聞いた。
——組み方だ。
闇を4枚重ねるときの、2枚目と3枚目の間の、わずかな間の取り方。それは習って身につくものではない。その者の身体の癖だ。
男は、18年ぶりに目を開けた。
唇が、ヴァルゼード様、と動いた。
声は、出なかった。
18年、喋っていない喉は、最初の一言を音にしない。男は2度、3度と空気を押し出して、4度目に、やっと声にした。
「——生きて、おられる」
男は、立った。脚の皮膚が岩から剥がれて、血が出た。気にしなかった。
上の層へ向かって、歩き出した。
9層から8層へ上がるには、3日かかる。8層から7層へは7日。上へ行くほど、前魔王の残党の目が増える。18年、この男が底に沈んでいたのは、そこを避けるためだ。
歩きながら、男は数えた。
人間界へ渡る手段は、無い。次元魔法を使えた者は、18年前に全員殺された。
それでも、上へ向かった。
同じ頃、天界の第七回廊で、若い天使が足を止めた。
回廊は白い。白すぎて、影が落ちない。その突き当たりの窓から、下の界が見える。
アステリアは、その窓の前に立った。
立つのは、18年で6000回目だ。
「——アステリア様」
後ろから、教育係の声がした。
「本日の課は、終わっておりません」
「今、下で、何か動きました」
「気のせいでございます」
「祭壇の3枚目が、光りました」
教育係の足音が、止まった。
「……どこで、それを」
「見えました。ここから」
「見えるはずがございません。祭壇の光は、下の界の光でございます」
「では、なぜ止まったのですか」
アステリアは、振り返らなかった。
窓の外の、雲の下の、見えない場所を見ていた。18年前、彼女は回廊で待つように言われた。待っている間に、何かが終わった。聞かされたのは、終わったということだけだった。
誰に待つように言われたのかは、今でも思い出せる。
だから、口に出したことがない。
「わたし、下へ降ります」
「なりません」
「なりませんと言われたのは、18年前と同じです」
彼女は、そこで初めて振り返った。
困ったような笑い方をした。怒っているときに、この顔になる。
「あのときは、待ちました。……もう、いやです」
同じ頃、天界の最も高い場所で、1柱が目を開けた。
その場所には、床が無い。壁も無い。天も無い。そこにあるのは、7つの座だけだ。
7つのうち、5つに主がいる。
1つは空いている。
もう1つは、《《削られている》》。
ザリエルは、5つ目の座の主だった。
彼は、下の界を見なかった。
見る必要が無い。祭壇の術式は、彼が2000年前に組んだものの一部だ。組んだものが動けば、彼には分かる。
動いた理由も、分かった。
「……魂が、応えた」
彼は、自分の掌を見た。小さな球が載っていて、中に女が1人いる。膝を抱えて眠ったまま、2000年、目を覚まさない。
「あれは、消えたはずだ」
18年前、彼は1つの魂を狭間へ落とした。狭間に落ちた魂は、薄まって、やがて消える。そうなれば、この球の中の者が出てこられる。
消えていない。
それどころか、下の界で、祭壇に応えた。
ザリエルは、球を胸の前に戻して、声を出した。声は、天界の言葉ではなかった。人間界の、ソルディア聖国の言葉だった。
神託は、その界の言葉で降ろす。そうでなければ、受け取る者が意味を取り違える。
「——聞け」
ソルディア聖国の大聖堂で、1人の若い女が床に倒れた。
聖女だ。倒れて、痙攣して、口から言葉が出た。彼女自身の声ではない声で、4つの節を並べた。
書き取った神官が、震えた。
神託の内容は、その日のうちに聖国の全神殿へ回された。
『地の底に、狭間より還りし者あり。
その者は、光と闇を同時に持つ。
これを祓え。
祓えぬならば、祓える者を立てよ』
そして、俺は。
その日、南街区の路地で、焼けた者の手当てをしていた。列の先頭にエリシアがいて、布を巻いていた。俺は、その後ろで治癒をかけていた。
火傷は、治癒が効くが、深いものは1枚では戻らない。
俺は、昼までに31人やった。
31人目で、掌が痺れた。
「ゼノ様。お休みください」
「あと何人だ?」
「9人でございます」
「なら、やる」
エリシアは、それ以上言わずに、俺の横に新しい布を置き、次の者を座らせた。
40人目が終わったのは、日が落ちてからだった。
路地に、湯気が立っていた。教団の者が、大きな鍋を出して、スープを配っている。鍋の前にラウルが立って、器を渡した数を帳簿に付けていた。
ドルガが、俺に器を持ってきた。
「魔王様。まずは、あなた様が」
「最後でいい」
「……は」
「最後だ。40人いる」
ドルガは、器を持ったまま動かなかった。俺はその器を受け取って、列のいちばん後ろの子供に渡した。
子供は、器を両手で受け取った。熱かったらしく、すぐ地面に置いて、俺を見上げた。
「おじさん、まおうなの?」
「そうらしいな」
「まおうって、なに?」
「知らん」
大通りに出ると、雪が降り始めていた。
この冬、初めての雪だ。白い布が下ろされた通りに、代わりに白いものが降ってきた。
俺は、掌を上に向けた。
落ちてきた粒が、掌の上で溶けた。その直前の、ほんの一瞬だけ冷たい。
前世で、俺は雪に触ったことがなかった。
(……これが、雪か)
宮へ戻る途中で、門の前にリィナが立っていた。
雪をかぶって、立っていた。
「何やってんだ?」
「お帰りを、待っておりました」
「中で待て」
「中では、見えませんので」
リィナは、懐から畳んだ紙を出した。灯籠の紙だ。4つに畳んだ折り目が、もう柔らかくなっている。何度も開いたということだ。
「ゼノ様。裏の1番上の名前は、書き足したものですね」
「なんでだ?」
「墨の色が、違います。ほかの6つより、濃いです」
俺が黙っていると、リィナは紙を畳み直して、懐へ戻してから、門を開けた。
「お帰りなさいませ」
雪は、朝まで降り続いた。




