第75話 開けない封
記録庫の火は、昼のうちに消えた。
そのあと、残った紙を運び出す作業が夜まで続いた。焼け焦げた紙は、湿った灰の匂いがする。宮仕えの者と、大学から来た学生と、南街区から出てきた教団の者が混ざって並んで、手渡しで運んだ。
俺は、その列の端で受け取る側をやった。両手で受けて、板へ置いて、また両手を出す。それを日が落ちるまで繰り返した。
魔法は使えない。闇で持ち上げれば、焼けた紙は崩れる。手で持つしかない。三界の頂に立った男が、焦げた紙を1枚ずつ受け取って、板の上に並べていた。
「ゼノ」
ミルカが、板の前に座っていた。
「持ち方が違います。焦げた側を下にしてください」
「どっちでもいいだろ」
「よくありません。焦げた側は、字が残っている側です」
◆
夜になって、数が出た。
記録庫にあったのは、綴りにして1200。残ったのが、《《490》》。
「3分の1以上は残りましたわ」
フィーネが言った。慰めではない。数を言っただけだ。
「焼けたのは、どの辺だ?」
「奥の棚ですの。古い順に、奥から並んでおりました」
「じゃあ、古い方が焼けたのか?」
「ええ」
フィーネは、帳面を閉じた。
「あの男は、順番を知っていましたわ」
◆
翌朝、俺はハルヴィク家の別邸へ行った。
1人で行くつもりだった。門を出たところに、リィナが立っていた。それから、シャルが屋根の上にいた。フィーネは馬車の中で待っていた。
「わたしが屋根から入ります」
「入るな」
「ですが」
「今日は、正面から入る」
ハルヴィク家の別邸は、東門の内側の、いちばん高い土地に立っていた。
門番が2人。鋲を打った革の胴当てを着けている。俺が名を告げると、1人が走って中へ入り、もう1人が門の前に立ち塞がった。
「当主は、留守にしております」
「なら待つ」
俺は、待った。
四半刻ほどして、中から人が出てきた。当主ではない。若い男だ。上等な外套の襟に、家紋が銀で縫ってある。
「ハルヴィク家の三男、レオンと申します。父は——」
「セドリクは、あんたの家の者だったな」
男の顔が、そこで固まった。
言うことを決めてきた者が、決めてきた順番を飛ばされると、こういう顔をする。
「……存じません」
「書斎の机に、革の本がある。背に王家の印だ。第3巻と読める」
「どこで、そのようなことを」
「返せ」
レオンは、後ろへ半歩下がり、自分が下がったことに気づいて、止まった。
「王家の系図を、当家が持つ理由がありません」
「持ってる理由は訊いてねえ。返せと言った」
門の中から、別の声がした。
「返しましょう」
老人が出てきた。杖をついている。杖の先が、石畳を叩くたびに乾いた音を立てた。背が低く、肩の肉が落ちていて、それでも首だけが真っ直ぐだった。
ハルヴィク家の当主だ。留守ではなかった。
「セドリクは、当家の写本の手伝いをしておりました。7年前から。昨日、祭壇の裏で何をしたかは、今朝聞きました」
「使ってたのか?」
「使っておりました。……昨日のあれは、当家の指図ではございませんが」
老人は、杖を石畳に突いたまま、頭を下げなかった。
「魔王殿。当家がお返しできますのは、系図の第3巻でございます。……あとは、その」
本は、すぐに奥から運ばれてきた。
革の表紙に焦げ跡が無い。無傷だ。
俺は開かなかった。開いたら読んでしまう。読むのは、返した先の者だ。
「東部5家が継承権の審議を求めた。理由は2つと聞いた。1つは、俺だ」
老人は、そこで初めて笑った。年寄りの笑い方だ。目の下の皮膚だけが動く。
「もう1つをお知りになりたいと」
「あぁ」
「殿下から、お聞きになればよろしい」
「聞いて、答えなかった」
「では、当家も答えません」
老人は、杖を持ち替えた。
「ですが、ひとつだけ申し上げます。当家は、殿下を退けたいのではございません。退けねばならぬ理由が、こちらへ回ってきただけでございます」
「回ってきた、ってのはどういうことだ?」
「紙で回ってまいりました」
老人は言葉を止めて、俺の後ろに立っているリィナを見た。それから、馬車の窓の方を見た。窓は閉まっていた。
「……審問庁を、お調べになるとよろしい」
宮へ戻ったのは、日が傾いてからだった。
俺は、系図の第3巻を抱えて、エリシアの執務室の扉を叩いた。
「入れ」
エリシアの声ではなかった。
扉を開けると、机の前に座っていたのは、この国の王だった。
40年、窓を開けていない部屋の主だ。
俺は、この男と3度会っている。3度とも、この男は椅子から動かなかった。今日も動かずに、俺の抱えた本を見た。
「取り返したか」
「あぁ」
「早い」
王は、机の上で指を組んだ。関節の太い指だった。若い頃は剣を持っていた手だ。
「エリシアは、南街区へ出ておる。焼けた者の手当てだ。……あれは、そういうことを自分でやりに行く」
「……そうか」
「座れ」
俺は座った。
王は、黙って机の引き出しを開けた。
中から、封を2つ出した。
どちらも開いていない。蝋に、審問庁の印が押してある。宛名は、第一継承者だ。
「娘の机から、今朝、わたしが取った」
「盗ったのか?」
「父だ」
王は、2つの封を机の上に並べた。
「読め、とは言わん。わたしも読んでおらん」
「なんでだ?」
「開ければ、娘が開けなかった意味が消える」
俺は、その2つの封を見ていた。
エリシアは、これを読まずに引き出しへ入れて、鍵を掛けた。1通目は、対抗戦の最中だ。2通目は、その後。
読まなければ、知らないことになる。知らないことは、答えなくていい。
東部5家は、この封の存在を知っている。
「あんたは、中身を知ってるのか?」
「知らん。だが、審問庁が第一継承者へ封を出す理由は、3つしかない」
王は、指を3本立てた。
「継承権の剥奪。婚姻の命令。——それから、血の審問だ」
「血の審問ってのは、なんだ?」
「王家の者が、王家の血であるかを問う手続きだ」
王の指が、1本ずつ倒れた。
「2000年で、7度行われた。7度のうち6度は、王が疑われた。残りの1度は」
そこで、言葉が切れた。
王は窓を見た。40年、開けていない窓だ。硝子が曇っている。
「残りの1度は、200年前だ。そのときに書き替えられたのが、お前が抱えておる第3巻だと言われておる」
俺は、机の上に系図を置いた。
その背に、王が手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……読めんのだ、わたしは」
「字が読めねえのか?」
「読める。この本が読めん」
王は、手を引いた。
「わたしの父も読まなかった。祖父も読まなかった。開けば、次の代に伝えねばならん。伝えれば、いつか誰かが使う。使えば、王家が割れる」
「じゃあ、なんで残してる?」
「捨てられんからだ」
王は、初めて椅子の背に体重を預けた。
「焼けばよかった。2000年、誰もそうしなかった。……代々、わたしのような者ばかりだったのだろう」
扉が開いた。
エリシアだった。外套に灰が付いている。髪が、耳の後ろでほつれている。手当てから、そのまま戻ってきた形だった。指の腹に膏薬の跡が残っていて、手袋をはめ直す暇も無かったらしい。
机の上の2つの封を見て、足が止まった。
「……父上」
「取った」
「お返しください」
「返す」
王は、2つの封を娘の方へ押し出した。
「読め、とは言わん。だが、机に入れておくな。誰かが取る。今日は、わたしが取った」
エリシアは、封を2つ取って、胸の前で抱えた。その抱え方が、赤子を抱く形に似ていた。それから、俺を見た。
「ゼノ様。お聞きになりましたか」
「聞いた」
「どこまででございますか」
「血の審問まで」
エリシアの肩が、下がった。
下がって、それから、笑った。笑うところではなかった。
「……さようでございますか」
彼女は、封を2つ抱えたまま、扉の方へ歩いて、その前で止まった。
「ゼノ様。わたくしは、これを開けません」
「あぁ」
「開けない理由を、申し上げてもよろしいですか」
「言え」
「開けて、王家の血でないと書いてあれば、わたくしは王家の者ではなくなります」
エリシアは、振り返らなかった。
「王家の者でなくなれば、あなた様を匿う権限が、わたくしから消えます。……そうなりますと、その、あなた様は」
「俺の心配か?」
「いいえ」
彼女は、一度だけ振り返った。
「わたくしが、いられなくなります。あなた様の、隣に」
扉が閉まった。
王は、机の上の何も無いところを見ていた。しばらく見てから、口を開いた。
「……娘が、ああいう言い方をするようになったのは、お前が来てからだ」
「あぁ」
「褒めてはおらん」
王は、引き出しを閉めた。
「あれは、政治の言葉しか持っておらんかった。……その方が、楽だったはずだ」




