第74話 七柱
祭壇は、王宮の西に立っている。
建物とは呼べない。屋根が無い。石を円く並べただけのものだ。中央に低い台があって、その後ろの壁に、5つの円が彫ってある。彫った線に、古い金が詰めてある。金は、ところどころ剥げていた。
3日目の朝、その円の周りに人が入った。
内側から順に、王家の者、五大国の使節、東部5家、それから王都の住人。住人の枠は3000人で、前の晩から並んでいた者が入っている。
俺は、使節の列の後ろに立った。
隣にフィーネがいて、その後ろにリィナとシャルがいた。ミルカは、5枚の写しを抱えて壁際に立っていた。
エリシアが、白い衣で台の前に立った。
衣には刺繍が無い。王家の印も無い。何も無い白だ。この日だけは、王家の者も名を持たないことになっているらしい。
彼女は、台の上に手を置いた。
そして、祝詞を上げた。
聞いたことのない言葉だった。
人間界の言葉ではなかった。悪魔の言葉でもない。俺は、その音を3つ聞いた時点で、身体の芯が冷えた。
天界の言葉だ。
意味は分からない。俺は天界の言葉を学んだことがない。学ぶ必要が無かった。だが、音の組み方に覚えがある。あれは、座標を呼ぶときの組み方だ。
エリシアの声は、震えていなかった。6歳から覚えたという音を、一度も詰まらずに並べていった。
3つ目の節に入ったとき、壁の円が光った。
5つのうち、3枚目だけが。
光は、弱い。蝋燭1本ぶんもない。だが、金の剥げた線に沿って、確かに走り、円の中央——白く削られた場所で止まった。
その光が、形を作った。光の粒が、水の中の墨のように、ひとところで濃くなっていく。
人の形だ。
肩から上が無い。腰から下も無い。胴と、腕だけが、空中に薄く浮いた。
3000人が、どよめいた。石の円が音を反して、どよめきが二度聞こえた。
驚きではなかった。喜びだ。祭壇が光ることは、この祭りの中で一度も起きたことがない。起きないから、形式だけが残っていた。
「——降りられた」
誰かが叫んだ。
俺は、後ろへ下がろうとした。
下がれなかった。
浮いた人の形が、こちらを向いていた。顔は無い。向いている、という言い方はおかしい。だが、向いていた。
胴の中央に、線が1本入っている。
決勝の前の晩、ジークハルトの光が撫でた場所と、同じ高さだ。
(……俺を、探してる)
浮いた形の腕が、上がった。手首から先の無いそれを、俺の方へ差し出した。
ミルカの声が、壁際から飛んだ。
「ゼノ。前に出ないでください」
俺は、足を止めた。止めてから、2歩前へ出ていたことに気づいた。
「あれは、術です。呼ばれています。中央の白い場所は、人が立つ場所です」
「立ったらどうなる?」
「分かりません。ですが、あの円は壊れています」
ミルカは、抱えた写しの3枚目を広げて、祭壇の円と見比べた。
「壁の彫りと、写しが違います。壁の3枚目は、外周が2重です。写しは1重です。写した人は、2重の外周を1重で写しました」
「どっちが正しいんだ?」
「壁です。壁が先にあります」
浮いた形の腕が、もう少し伸びた。
その先が、俺ではなく、台の前のエリシアへ向かった。
白い衣の背中が、動かなかった。
祝詞は、まだ続いていた。エリシアは、目を閉じて、音を並べ続けていた。あれを途中で止める作法は、教わっていないのだろう。6歳から覚えた音は、最後まで並べるものとして覚えている。
「エリシア」
俺の声は、届かなかった。
3000人のどよめきが、その頃には歌になっていた。誰かが祝詞の真似を始めて、それが広がった。意味の分からない音を、3000人が真似て並べている。
音が、増えた。
音の分だけ、壁の光が強くなった。
俺は、闇を4枚組んだ。
組んで、やめた。
ここで闇幕を張れば、光は消える。消せば、この祭りで何が起きかけていたのかも消える。エリシアの祝詞も、削られた場所も、俺を探している腕も、全部消えて、また2000年、形式だけが残る。
消すのは、いつでもできる。
俺は、闇を4枚持ったまま、前へ出た。
「ゼノ様」
リィナが、後ろから俺の外套を掴んだ。
俺は振り払わずに、そのまま歩いた。リィナは掴んだまま3歩引きずられて、それから手を離した。その手を下ろさずに、前へ出したままにしていた。
俺は、台の横に立った。
エリシアの祝詞が、最後の節に入った。
浮いた形が、崩れた。
その直前、腕の先が、俺の胸に触れた。
触れられた場所が、熱くなかった。冷たくもなかった。ただ、内側から引かれた。ジークハルトの光に撫でられたときの、あの一点だ。
俺の口が、勝手に動いた。
音が出た。
俺の知らない言葉だった。
3音だ。エリシアの祝詞と同じ組み方の、3音。
出た瞬間に、祭壇の壁の5つの円が、全部光った。
3枚目だけではなかった。5枚が、同時に。
その光の中で、俺は見た。
壁を見たのとは違う。円の内側に、もう一段深いところがあって、そこに文字が並んでいる。人間界の文字ではなかった。天界の文字だ。
1行だけ、読めた。
いや、読めるようになっていた。俺の口から出た3音が、そこを開けたからだ。
——『《《七柱》》。一柱を除く』
光が、消えた。
祭壇の壁が、元の石に戻った。金の剥げた線が、朝の光の下で、ただの彫り跡になった。
エリシアが、台の前で膝から落ちた。
俺が受け止めた。白い衣が、思ったより軽かった。彼女は気を失っていなかった。目は開いていたが、俺を見ていなかった。
「……終わりましてございます」
「祝詞は終わった。あんたは終わってねえ」
「はい」
エリシアの唇が、乾いて割れていた。祝詞の間、一度も水を飲んでいない。
3000人は、まだ歌っていた。
その者たちは、何が起きたのかを見ていない。光ったこと、人の形が出たこと、それが崩れたことは見た。
俺の口から3音出たことは、俺の近くの者しか聞いていない。
5人いた。
フィーネ、リィナ、シャル、ミルカ。
それから、使節の列の中から、こちらを見ていたジークハルトだ。
「火だ」
叫び声が、祭壇の裏から上がった。
煙が、壁の向こうに立っていた。祭壇の裏には、記録庫がある。2000年ぶんの祝詞の写しと、祭壇の絵図と、代々の王家の者が書いた覚え書きが入っている場所だ。
俺は走った。裏へ回って、扉を蹴り開けた。
中は、もう火だった。紙の焼ける匂いは、木の焼ける匂いより酸い。
火の中に、人がいた。
外套の裾が燃えているのに、消そうとしていない。棚から紙束を抜いて、火の中へ入れている。抜いて、入れて、抜いて、入れている。
セドリクだった。
「——おい」
俺が言うと、男は振り返った。
笑っていた。あの、誰にも似ていない笑い方だ。
「見たか」
「何をだ?」
「あんたの口から、言葉が出たろう」
俺は闇を組んで、火を潰した。
潰せたのは、扉のあたりだけだった。奥はもう天井まで届いている。潰した端から、別の棚が落ちて、また燃えた。
セドリクは、動かなかった。
「私は12年、写した。写しながら、数が合わんことに気づいた。天使は7柱だ。祭壇には5つしかない。残りの2つを、誰が消したかを探した」
「王家か?」
「王家は、消された側だ」
男は、最後の紙束を火へ入れた。
「あんたが、いま読んだろう。一柱を除く、と」
俺は、男の胸ぐらを掴んで、火の外へ引きずり出して、地面に転がした。外套の火を、闇で潰した。
セドリクは、抵抗しなかった。転がったまま、俺を見上げて、まだ笑っていた。
「殺さんのか?」
「訊きたいことがある」
「答えんよ」
「答えろとは言ってねえ。訊くだけだ」
俺は屈んだ。
「あんたを雇ってるのは、ハルヴィク家だな」
男の笑いが、そこで止まった。
初めて、俺ではなく祭壇の壁の方を見た。
「……そこまで来たか」
背後で、記録庫の屋根が落ちた。
その音で、俺は一瞬そちらを見た。
一瞬だった。
戻したとき、セドリクの口の端から、黒いものが垂れていた。舌を噛んだのとは違う。噛むには早すぎた。奥歯に何か仕込んでいたのか。
男の身体が、反った。
1枚。掌に陣が1枚、音もなく浮かんだ。
治癒。
効かなかった。毒ではなかった。刻印だ。この男の胸の中で、闇の刻印が焼き切れていた。入れた者が、遠くから焼き切ったのだ。
セドリクは、最後に俺の腕を掴んだ。
「——数えろ。七だ」
男が死んだあと、俺はしばらくその場に立っていた。
記録庫は、半分焼けた。残った半分は、水をかけた者たちが引きずり出した。その紙の山を、ミルカが1枚ずつ広げて、乾かしていた。
俺は、焼け跡の中で、自分の掌を見た。
3音。
俺の口から出た、俺の知らない言葉。
(誰が、俺に喋らせた)




