第72話 人が立つ場所
翌朝、シャルが窓から入ってきた。
宮の3階だ。掛け金は替えてある。外から開く形の掛け金に。
「ゼノ様。おはようございます」
「扉がある」
「扉には、リィナ様がいらっしゃいますので」
シャルは、外套の裾から霜を払い落とした。夜通し外にいた者の払い方だった。髪に、白い布の繊維が絡んでいる。大通りの軒から垂れている、あの布だ。
「あの男を、追いました。最後の家で、朝まで出てきませんでした」
「名は、セドリク。ソルディア聖国の神殿に、12年いました」
「本人が言ってたな」
「言っていたことは、本当です。名簿に載っていました。写本係です。7年前に、名簿から消えています」
「死んだのか?」
「消えているだけです。死んだ者には印が付きます。印がありません」
シャルは、床に座った。椅子を勧めても座らない。俺の足元の、扉と窓の両方が見える位置に座る。母を人質に取られて俺を殺しに来た娘の、座り方が変わらないまま半年が過ぎていた。
「昨夜、あの男は3つの家を回りました。1つ目は南街区の質屋。2つ目は東門の外の荷置き場。3つ目は——」
彼女は、そこで言葉を切った。
「東部の、ハルヴィク家の別邸です」
東部5家のひとつだ。エリシアの継承権について正式な審議を求めている5家の、その筆頭にあたる。
「中に入ったのか?」
「入りました。わたしは、屋根から見ました。応接ではありません。書斎です。書斎に入った客には、茶が出ます。あの男には出ませんでした」
「出ねえのは、どういう意味だ?」
「客ではない、という意味です。雇っている者です」
シャルは、膝の上で指を組んで、またほどいた。
「もうひとつ、見ました。机の上に、革の表紙の本が1冊ありました。背に、王家の印が押してあります。第3巻、と読めました」
俺は、窓の外を見た。白い布が、軒から軒へ、同じ向きに流れている。風はまだ弱い。
半月あまり前に、宮の書庫から抜かれた王家の系図の第3巻だ。
◆
その日の昼、宮の小書庫に人が集まった。
集めたのは俺ではない。フィーネだ。フィーネが集めて、机を1つ真ん中に置いて、その上にミルカの写しを5枚並べた。
5つの円だ。集まったのは、フィーネ、ミルカ、リィナ、シャル。それから、少し遅れてエリシアが入ってきた。
エリシアは、扉を開けた瞬間に、部屋の中の顔ぶれを見て、止まった。
「……失礼いたします」
「殿下。お呼びしましたのは、わたしですわ」
「存じております」
エリシアは中へ入って、扉を閉め、その前に立ったままだった。
ミルカが、5枚の写しを指で押さえた。
「これは、王都の書庫にあるものを、わたしが写したものです。元は、200年前の写しです。その元は、分かりません」
「円は5つだな?」
「はい。どの国の祭壇にも5つあります。ゼノ。ここを見てください」
ミルカは、3枚目を前へ出した。
「1枚目、2枚目、4枚目、5枚目は、線の太さが同じです。3枚目だけが太いです。太いのではなく、2度なぞっています」
「2度か?」
「はい。1度目の線の上を、もう1度たどっています。たどった手は、別の人です。止めの位置が、半寸ずれていますから」
ミルカは、円の上のある1点を指した。
「ここで、筆が止まっています。1度目は、止まっていません」
フィーネが、帳面を開いた。
「つまり、3枚目だけ、後から誰かが上書きしたと」
「上書きではありません。なぞっただけです。中身は変えていません。変えられないので」
「変えられない、というのは?」
「消えた部分を、なぞっても戻りません」
ミルカは、3枚目の円の中央を指した。
円の中央は、白く抜けていた。
「ここに、何か描いてありました。今は、ありません。削られています。削った上から、円だけをなぞって形を保っています」
部屋が静かになった。小書庫の窓は北を向いていて、昼でも光が弱い。その弱い光の中で、5枚の写しだけが白く見えた。
「セドリクって男は、削られたのは名だと言ってた」
俺が言うと、ミルカは首を振った。
「名ではありません。名を書く場所は、円の外です。ここは——」
彼女は、写しを持ち上げて、光に翳した。
「ここは、人が立つ場所です」
「殿下」
フィーネが、扉の前のエリシアを見た。
「王家の系図の、第3巻。初代より前が書いてあるとおっしゃいましたわね」
「……はい」
「あれには、何が書いてございますの」
エリシアは、答えなかった。
フィーネは帳面を閉じた。その音が、部屋に響いた。
「殿下。わたし、東部5家が何を出してくるかを数えております。5家は、継承権の審議を求めました。理由は2つと聞いております。1つは魔王。もう1つを、殿下はおっしゃいませんでした」
「……ひとつだけでございます」
「2つと書いた紙を、わたしは読みましたのよ」
エリシアが、初めて扉の前から動いて、机の縁に手を置いた。手袋をしたままだった。
「フィーネ。あなたは、どなたの家の者です」
「わたしの家は、200年前から王家の懐刀ですわ」
「では、今は誰に仕えておいでですか」
「——」
フィーネの口が、半分開いて、そこで止まった。
俺は黙っていた。
フィーネは、答えられなかったのではない。答えれば、この部屋にいる5人に聞こえる。フィーネが数えるのをやめたのは、数えた先に自分の名前が出てくると分かったときだけだ。
リィナが、前に出た。木剣も持たず、手だけを腰の位置で握って、机の角を回り込んだ。
「エリシア様。わたしは、ゼノ様の護衛です」
「存じております」
「ですので、ゼノ様に関わることを隠されると、困ります」
「あなたに、申し上げることではありません」
「わたしに申し上げることでなくても、ゼノ様に申し上げてください」
リィナの声が、少し大きくなった。本人が、それに驚いた顔をした。
「……申し訳ありません」
「いいえ」
エリシアは、机の上の3枚目の写しを見ていた。
「リィナ。あなたは、19日、門で日を数えたそうですね」
リィナが、顔を上げた。
「わたくしは、40日、扉を数えました。父の扉でございます。開くのを待って、開かなかった日を……ええ。ですので、その、分かります」
エリシアは、顔を上げた。
「分かりますが、申し上げられません」
シャルが床から立ち上がり、扉の方へ歩きながら、誰にともなく言った。
「では、わたしが盗ってきます」
「シャル」
「ハルヴィク家の書斎です。机の上にあります。今夜なら、当主が留守です」
「待て」
「待つと、祭りが始まります」
彼女は、扉の把手に手をかけた。
「わたしは、そういう仕事の者です。それしか、できません」
「座れ」
俺が言うと、シャルは止まり、把手から手を離して、また床に座った。さっきと同じ場所だった。扉と窓の両方が見える位置だ。
俺は、5枚の写しを見た。
3枚目の中央の、白く抜けたところ。人が立つ場所だ。
「エリシア」
「はい」
「系図には、初代より前が書いてある。初代の前に、王家は何をしてた」
エリシアは、答えなかった。
答えない代わりに、手袋を外した。素手が、少し震えていた。
「……ゼノ様。わたくしは、祝詞を上げます。降臨祭の3日目に、祭壇の前で」
「聞いた」
「あの祝詞は、意味が分かりません。王家の者だけが覚えて、代々、音だけを伝えております。わたくしは6歳から覚えました」
彼女は、外した手袋を机に置いた。
「意味の分からないものを、2000年、間違えずに伝えてまいりました。……間違えずに伝えたということは、《《誰かが確かめている》》ということでございます」




