第65話 朝に似ているもの
決勝の前の晩、闘技場に人が1人いた。
門は閉まっている。俺は閂を闇で落として入った。中にいた男は、閂を使わずに入っていた。20段の客席を、上から降りてきたらしい。
ジークハルトは、砂の中央に座っていた。
膝を立てて、その上に剣を横に置いている。俺の足音で振り返って、立ち上がって、頭を下げた。
「眠れませんでしたか」
「あんたもか?」
「わたしは、前の晩はいつも来ます。国が変わっても、砂は同じ匂いがしますので」
夜の砂は、昼と匂いが違った。昼は日に焼けた石の匂いがする。夜は、その下の湿った土の匂いが上がってくる。
「訊いてもいいですか」
「あぁ」
「あなたは、なぜ勝ちたいのですか」
「試験だ。合格しねえと、欲しいものが手に入らねえ」
ジークハルトは、その答えに頷いて、少し笑った。下手な笑い方だった。頬の片方だけが動く。
「わたしは、負けると国が困ります。困るので、勝ちます。……それだけです」
「ひとつ、お願いがあります」
ジークハルトは、剣を砂に置き、掌を上に向けた。
「あなたに触れさせてください」
「断る」
「では、こちらから申し上げます。初めてお会いした日に、あなたから2つ感じました。ひとつは——」
「膝が下がるやつだろ」
「はい。それは、わたしが仕留めるべきものの気配です」
彼は、掌を上げたままだった。
「もうひとつが、分かりません。分からないものを、明日、砂の上で確かめるのは、あなたにも、わたしの国にも良くありません」
俺は、夜の客席を見た。2万の席が、全部空いている。
億劫だと思う前に、俺は自分の掌を上げていた。この男が何を見るのか、俺の方が知りたかったからだ。
光が、掌から入ってきた。
熱くない。押してくるわけでもない。ただ、身体の内側を、外から誰かが手で撫でていく感じだ。肺の裏、背骨の内側、そのもっと奥。
奥に、俺の器がある。
その器の縁を、光がなぞった。
「——」
ジークハルトが、声を出さずに息を止めた。
「なんだ」
「傷が、あります」
「怪我なら、自分で塞ぐ」
「そういう傷ではありません。これは……あなたの、身体ではない方についています」
光の指が、ある一点で止まった。
そこを撫でられた瞬間、俺は18年前の秋に戻っていた。
天界の白い床だ。足の裏が冷たい。振り向こうとして、振り向けなかった。身体の内側に、手が入ってきていた。皮膚を破ってではない。もっと内側から、直接だ。
掴まれた。
肺でも心臓でもないもの——俺そのものを掴まれて、引かれた。
誰の手かは、見えなかった。
「——離せ!」
俺は、ジークハルトの襟を掴んでいた。
砂に膝をついているのは俺の方だった。掴んだ手が震えている。それが自分の手だと気づくのに、数を3つ数えるだけかかった。
ジークハルトは、抵抗しなかった。襟を掴まれたまま、俺の目を見ていた。
「……申し訳ありません」
「もう一度やれ」
「なりません」
「もう一度だ。今度は、掴んだ奴の形まで見ろ」
「なりません」
彼は、俺の手首に自分の手を添えた。外すためではなく、置いただけだ。
「あなたは今、声が出ていませんでした」
俺は手を離した。
砂の上に座り込んで、ようやく、自分が息を切らしていることに気づいた。走ってもいないのに。
(……くそが)
18年、俺はあれを思い出せなかった。死んだことは覚えている。誰にやられたかを覚えていない。覚えていないのではなく、《《引き剥がされた側》》の記憶が、最初から欠けていたのだ。
今の一瞬で、手触りだけが戻った。
「あの傷は、術の跡です」
ジークハルトは、俺の横に座った。同じ高さだ。
「光ではありません。闇でもありません。わたしは、あれと似たものを、一度だけ見たことがあります」
「どこでだ?」
「メルセアの、降臨祭の祭壇です。祭壇の裏の壁に、古い写しの絵が5つ並んでいます。そのうちの3枚目に、同じ形の線があります」
俺は顔を上げた。
「——5つ」
「はい。どこの国の祭壇にも5つあります。意味は、誰も知りません。わたしの国では、天使の指だと教えます」
砂の上で、風が動いた。
「あなたが何者かを、わたしは訊きません」
ジークハルトは、剣を拾って立ち上がった。
「訊いても、明日は変わりませんので。ただ——」
彼は、そこで言葉を切り、探した。この男は、決まった言葉を持っていないときに、はっきり探す。
「わたしの光は、わたしのものではありません。10年前から、そう思っています。誰に訊いても、それは加護だと言われます。加護というのは、誰かが与えているということでしょう」
「そうだな」
「与えている者が、何のために与えているのかを、わたしは知りません」
俺は黙っていた。
答えは知っている。天界の連中が加護を垂らす理由は1つだ。人間界に、自分たちの代わりに立つ手駒が要る。それを言えば、俺が何者かを言うことになる。
「明日、勝ったら、訊きたいことがあります」
ジークハルトは、頭を下げた。
「負けたときは……いえ。負けたら、訊きません」
門を出ると、外の石段にフィーネが座っていた。
膝の上に帳面を広げて、炭で何かを書いている。俺が出てきたのを見て、閉じた。
「中で何をなさっていましたの」
「話した」
「何を」
「明日の相手と、祭壇の絵の話だ」
フィーネは、閉じた帳面を叩いた。
「……絵は、5枚組でしたわね」
「王家の書庫のやつだ。あれと同じものが、メルセアの祭壇の裏にある」
「同じ、というのは?」
「5つあるのが同じだ。3枚目に、同じ線がある」
フィーネは石段から立ち上がり、俺の顔を見て、それからもう一度座った。
「……ミルカを、王都に呼びますわ」




