第64話 旗の前
砂に入る前に、イズマ・セルヴァンは客席の方を向いて、手の甲を上げた。
聖印の焼き跡が、20段の上まで見えるようにだ。上の方から声が返ってきた。聖国の使節は6人しか来ていない。返した声は、6人ぶんではなかった。
「名を問います」
イズマは、俺の正面に立って言った。
「ゼノ。家名は無え」
「偽りであります」
彼は動かなかった。手の甲を上げたままだ。
「闇は、悪魔の属性であります。人の身に闇が通るのは、悪魔が刻印を入れたときのみ。刻印の無い者が闇を放つならば、その者は人ではありません」
客席の音が、引いた。
「ヴァリス王国の代表は、魔王であります」
2万人の中で、最初に声を上げたのは子供だった。
何を言ったのかは聞き取れなかった。その声が周りの大人に拾われて、上の段まで上がって、別の言葉になって降りてきた。
俺は砂を踏み直した。
(……こいつら、まだ言ってんのか)
13歳の夏に、王宮の廊下で1度言われている。あのときは近衛が3人だった。今日は2万人だ。
数が変わっただけだ。
イズマが唱えた。
長い。聖国の詠唱は、人間界のどの国より長いらしい。喉で押さえて、腹から出す。ドルガの声の出し方に似ていた。人前で長く喋ってきた者は、どこの国でも同じ出し方をする。
砂の上に、光の線が走った。
3枚。上級だ。それだけなら、俺の足の裏で消える。
消えなかった。
線が、客席の方へ伸びていた。20段を上がって、聖国の使節が立っている場所まで届いている。6人が、胸の前で手の甲を上げていた。同じ形。同じ速さ。同じ言葉。
上級の光が、7人ぶん重なった。
(——なんだ、こりゃ)
7枚ではない。7人が、1枚ずつ同じ場所に置いている。階位の重ねではなく、数の重ねだ。人間の器は1つずつが小さい。それを同じ形に揃えて、同じ場所に置く。
光の鎖が、俺の両手首と両足首に巻いた。
◇
——わたくしは、貴賓席で立ち上がっておりました。
父も立ちました。父が椅子から立つのを見たのは、あの病の前が最後でございます。
砂の上で、ゼノ様が動かなくなりました。
わたくしは、東部の5家がどこに座っているかを知っております。上から4段目の、右寄りです。振り返りませんでした。振り返れば、あの方が動かないところを、あの者たちと一緒に見ることになりますので。
見ないために、わたくしは砂だけを見ておりました。
だから、あの方が《《歩き出した》》とき、最初に気づいたのは、わたくしだったと思います。
鎖は、よく出来ていた。
手首の輪が、動かそうとした方向へだけ締まる。振り解こうとすれば締まる。掌を返そうとすれば締まる。闇を組ませないための形だ。組むには掌を上に向ける必要がある。
7人が押さえているのは、俺の掌だった。
だから俺は、掌を諦めた。
足を出した。
鎖が締まって、足首の皮が焼けた。構わず、もう1歩出した。光の線は伸びるばかりで、切れない。つまり、引っ張られるということだ。
客席の上の方で、1人が膝をついた。
3歩目で、2人目が膝をついた。
7人が同じ形に揃えていた線が、揃わなくなった。揃わなくなった鎖は、ただの光だ。
俺は歩いた。
足首から煙が出ていた。焦げるのは自分の皮で、それは治せる。歩くのに要る時間だけが惜しかった。
イズマは動かなかった。
唱え続けていた。俺が2歩の距離まで来ても、彼は下がらなかった。この男には、下がる方が例外なのだ。
俺は、鎖を引きずったまま、その前に立った。
「縛る術ってのは、動かねえ相手に使うもんだ」
「……存じております」
「知ってて使ったのか?」
「わたくしは、魔王が歩くところを、民に見せる必要がありました」
俺は、そこで止めようとした。
遅かった。額を、この男の額に当てていた。砂の上で、乾いた音が鳴った。
イズマが倒れた。
唱えるのは、やめなかった。仰向けのまま、砂に半分埋まった口で、最後まで言い終えて、目を閉じた。
鎖が消えた。
審判が旗を上げた。
客席は、鳴らなかった。息を吸う低い音だけが、今日は長く続いた。
俺の足首から、まだ煙が出ていた。
出場の順に旗が立ててある。5本。ヴァリスの旗は、砂の縁の、俺の後ろに立っていた。
聖国の使節が、通路を降りてきた。膝をついた2人を、残りの4人が支えている。降りきったところで、一番前の男が、俺の後ろの旗を指した。
「この者の後ろに、貴国の旗を立てることを、我らは認めません」
俺は振り返った。
赤地に、白い塔が3つ。ヴァリスの旗だ。半年前、この旗の下を通って王宮へ入った。あのときは、旗が何の絵かも知らなかった。
俺は、旗の前に立った。
◇
——わたしは、修練場ではなく、砂の縁におりました。
旗を押さえるのは、代表の随伴の役目です。風が出ると倒れますので。
ゼノ様は、旗の前にお立ちになりました。それから、動きませんでした。聖国の方が3度、同じことを仰いました。3度目のとき、あの方は足を半歩だけ動かしました。
旗の方へ、半歩です。
わたしは、その半歩を見ておりました。
旗を持ったことのない人が、旗の前に立つとき、足がああ動くのだと、初めて知りました。
夜、宿の階段で、フィーネが待っていた。
「試験の残り半分は、優勝でしたわね」
「まだ2つ残ってる」
「メルセアと当たる前に、明日は1日空きます」
「勇者は、明日は誰とやる?」
「カルナの公子とですわ。あの方は、まだ1つも勝っていませんけれど」
彼女は、俺の足首に巻いた布を見ていた。
「聖国は、明日の朝、正式に文書を出しますわ。今日の砂の上のことを、そのまま書いて」
「書かせとけ」
「300万人が読みますのよ」
「読んだところで、誰も俺を止めに来ねえ」
フィーネは階段の手すりに手を置いたまま、上に上がるでも下に降りるでもなく、そこで立っていた。
「……止めに来る者の数を、わたしは今日、数えられなくなりましたの」




