第63話 数えただけです
勇者の加護の止め方を知っている人間は、あの男の身内しかいない。
だから俺は、ユーリカを宿の部屋へ呼んだ。
「兄さんの手が震えるのは、10年前から」
ユーリカは、卓の向こうで椅子に浅く座っていた。膝を閉じて、足首を椅子の脚に引っ掛けている。落ち着かない座り方だ。
「最初は、狩りのあとだけだった。今は、光を使ったあとは毎回」
「止めるときは、どうしてる」
「止まるまで待つ。誰も触らない。触ると——」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
「触るとどうなる?」
「……7つのとき、わたしが触った。庭の木が、1本焦げた」
窓の外で、荷車が通った。
俺は卓の上の水差しを彼女の方へ押した。ユーリカは見ただけで、手を出さなかった。
「あの光は、あいつの器から出てねえ。外から掛かってる」
「そんなの、誰も言ったことない」
「言う奴がいなかっただけだ」
ユーリカが、初めて顔を上げ、何か言おうとして、扉の方を見た。
扉が、叩かれていなかった。
開いていた。
リィナが、廊下に立っていた。手に木剣を提げている。修練が終わったところの息だ。首に汗が残っている。
「……失礼しました」
「入れ」
「いえ」
リィナは入らず、戸口に立ったまま言った。
「明日の朝、剣を見ます。いつもの刻限でよろしいですか」
「あぁ」
「客席で、隣に座っておられたと聞きました」
「座ってた」
「……そうですか」
木剣の先が、床の板に当たって、乾いた音を立てた。当てたのではない。持つ手が下がったのだ。
その音を追いかけるように、廊下の奥から足音が2つ来た。
エリシアとフィーネだった。
エリシアは紙の束を持っている。夜に届いた聖国の分だ。フィーネは何も持っていない。そのかわりに、部屋の中を先に見た。ユーリカを見て、水差しを見て、椅子の位置を見た。
「ゼノ様。使節から、本日の分が——」
エリシアは、そこで止まった。
「……メルセアの方が、いらっしゃるのですね」
「加護の話を聞いてた」
「夜に、お部屋で?」
言ったのはフィーネだった。エリシアは、同じことを自分が先に言えなかったのに、遅れて気づいた顔をした。
「昼は、あいつが客席にいる」
言ってすぐ、この説明が何も良くしていないことに気づいた。
天井の板の上で、音がした。
シャルが、窓から入ってきた。
履き物を手に持っている。板を鳴らさないためだ。入ってきて、俺の斜め後ろの、いつもの位置に立った。
「ユーリカ様は、4日前の夜も、この宿の裏に来ています」
「シャル」
「来て、入らずに帰りました。昨夜もです。今夜が3度目で、初めて入りました」
部屋の中の全員が、ユーリカを見た。
ユーリカは、椅子から立ち上がっていた。卓に手をついて、それから、その手を握った。
「……見張ってたわけ」
「はい。屋根から、宿の周りを見ています」
「なんで」
シャルは、音を立てずに履き物を床に置いた。
「ゼノ様を殺しに来る者がいますので」
「わたしがそれだって言いたいの?」
「言っていません。《《数えただけ》》です」
声が、3つ重なった。
「わたしは、明日の朝の刻限を伺いに参っただけです——」
「ゼノ様、この紙をお読みいただかなくては、明日の朝までに返事を——」
「あなた、屋根から人数を数えるのはおやめなさいと、わたし、先月——」
3つが重なって、1つも聞き取れなかった。
聞き取れたのは、そのあとにフィーネが出した一言だけだった。
「殿下。王家の傷にする、とお決めになったのは、あなたですわ」
エリシアが、紙の束を胸の前で持ち直した。
「……それが、何か」
「傷にすると決めた方が、夜にこの部屋の扉を開けて、誰がいるかをお確かめになる。東部の5家が見たら、何と言いますかしら」
「フィーネ様」
リィナが廊下から入ってきた。木剣を提げたままだ。
「殿下は、扉を開けておりません。開いていました」
「開いていたのを、最初に見たのはあなたでしょう?」
「見ました。見て、入りませんでした」
「入らずに、何をなさっていましたの」
「刻限を、伺っておりました」
「木剣を持って、汗のまま、夜にですわね」
リィナは黙って、木剣を持ち替えた。
「わたしは、護衛です」
「ええ。存じておりますわ」
ユーリカが、部屋を出た。
誰も止めなかった。俺も、最初は止めなかった。扉の枠に肩をぶつけて出ていく音を聞いて、それから、自分が椅子から立っていることに気づいた。
廊下は暗い。3つ先の窓から、月が入っている。
「おい」
ユーリカは止まらなかった。階段の手前で追いついた。
「明日の朝も来い。加護の話は、まだ途中だ」
彼女が振り返った。
「——なんで、兄さんのことばっかり訊くの」
月が、彼女の顔の半分に当たっていた。
「わたしの話を、1回でも訊いた? 石が白いことも、3行目に名前書いたことも、あんたを殴ったことも、全部あんたは知ってるのに、1回も」
「殴られた」
「そうじゃない」
ユーリカは、階段の手すりを掴んだ。
「兄さんが負けるとこ、見たくない。……でも、あんたが負けるのは、もっと嫌」
言ってから、彼女は自分の口を押さえた。その手の下で、続きを言った。声が籠って、半分しか聞こえなかった。
「なんで、こんなこと言ってんだろ」
俺は、そこで言うべきことを探した。
見つからなかったので、見つかったものを言った。
「あんたの兄貴は、明日勝つ。……だから、あんたが嫌なのは、その、明日だけで——」
ユーリカが、手を下ろした。
それから、俺を見た。月がまだ半分に当たっている。
「……あんた、ほんとに最低」
階段を降りていく足音が、途中から走りに変わった。
◆
部屋へ戻ると、4人が残っていた。
エリシアが紙を卓に置いている。フィーネが窓の外を見ている。リィナは廊下側の壁に立っている。シャルは、天井を見ていた。
「聖国の紙は」
「明日の朝までに、返事を」
エリシアが言った。声が、さっきより低い。
俺は紙を取り、1枚目の挨拶を飛ばして、2枚目を読んだ。
——貴国の代表が第2戦において用いた術は、闇に属する。これを見た我が国の民は、祭の場に禍つ神が立ったと申している。審問庁は、当該人物の名を、公に問う。
「名を問う、ってのは何だ」
「……闘技場の砂の上で、名乗らせるということかと」
エリシアは、俺の顔を見なかった。
「明後日の第4戦は、聖国が相手でございます」




